「教育」は“双方合意”が絶対条件

【コラム】体罰がダメな理由は、昔と比べて選択肢が圧倒的に増えたから

  • 社会・政治
  • 2017.12.06
  • by 新R25編集部

記事提供:キングコング 西野 公式ブログ

日馬富士の一件で、また「体罰問題」で世間なヤンヤヤンヤしてますが、現代において体罰はダメです。

てなことを言うと、「昔は良かったのに、なんで現代はダメなんだよ」という声が必ず上がるので、体罰が“昔は良かったのに現代はダメな理由”を説明します。

まず、整理しておく必要があるのが、体罰問題の賛否には2種類の人間がいるということ。

①ある程度の体罰(力による指導)を『教育』と捉える人
②ある程度の体罰(力による指導)であろうと『暴力』と捉える人

だいたい、この①と②が延々と議論を続けています。

ちなみに、本題に入る前に僕のスタンスを明確にしておきます。

僕は田舎の人間なので、子供の頃から近所のオッサンや学校の先生に「教育」として殴られましたし、学生時代は「教育」として部活の後輩にビンタをしたこともあります。

つまり、昔は体罰を受け入れていたのに、今は「体罰はダメ」と意見をコロッと変えているのが、僕の基本スタンスです。

そして、もう一つ。

ここから以降は便宜上、「力による指導」を「体罰」と表現させていただきます。「体罰」という言葉が出てきたら、「力による指導」と訳していただけると嬉しいです。

それでは本題に入ります。

体罰が発生するの決まって「自分のルールに従わなかった時」です。“オマエ”のことを想ってやっているのに、まるで聞き耳を持たなかったり、コチラの想いを踏みにじるような態度で示した時に“オマエ”を殴ります。

この時、殴られた側は、殴られた理由があまりにも理不尽だと感じれば、その体罰は『暴力』だと捉え、殴られた理由に納得ができれば、その体罰は『教育』だと捉えます。

つまり、体罰を『暴力』と捉えるか、『教育』と捉えるかかは、“殴られた側に納得感があるか否か”です。

漫才コンビのツッコミがボケの人間の頭を叩いても「暴力」になりませんが、街行く人が突然ボケの人間の頭を叩くと「暴力」になります。あれと似た感じです。お笑いのツッコミやイジリ同様、「教育」も“双方合意”が絶対条件です。

では、なぜ、昔は良くて、現代はダメなのでしょうか?

それは昔と比べて今は“選択肢が圧倒的に増えたから”です。

いろんなエンタメが生まれ、いろんな生き方が生まれ、いろんなルールが生まれました。そして、人々は、それらを自由に選択できるようになりました。

ルールが増えたにも関わらず、「自分のルールに従わなかったら殴る」という理由で体罰を発動させてしまうと、当然、昔に比べて体罰の総量は増えてしまいます。自分のルールに従わないケースが増えたからです。

昔は「先輩が話をしている時にスマホをイジる」という選択肢が無かったので、先輩が話を始めると話を聞くしかありませんでした。「俺が話をしている途中にスマホをイジるな!」という体罰は、昔は存在しようがなかったのです。

ただ時代は変わって、今は「先輩が話している時にスマホをイジる」という選択肢が生まれました。

そして、これは先輩にとっては厳しい現実ではありますが、場合によっては、先輩の話よりも、スマホから入ってくる情報の方が後輩にとって有益な情報である場合があります。

この時、「先輩が話している時は、目を見て話を聞け!オマエの為に言っているんだぞ!」と殴っても、殴られた側は、あまり“納得感”がありません。「いや、だって…あんたの話、ツマンネーんだもん」です。

納得感が薄ければ薄いほど、「教育」ではなく「暴力」と判断されてしまいます。選択肢が増えると同時に、体罰の納得感か落ちるという話です。

現代の体罰にアウトが出る理由は、「選択肢が増えたことによって、納得がいかない(暴力と判断される)体罰が増えたから」です。

自分の後輩が、自分が喋っているのに、スマホをピコピコとイジっていて、それでも「俺の話を聞かせたい!」「俺の話を聞いた方がコイツの為になるのに!」と考えるのであれば、自分がやらなきゃいけないことは、スマホを取り上げることでもなく、もちろん体罰でもなく、スマホから発信されている情報よりも面白い情報を提供する努力だと僕は思います。


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