楠木健・山口周著『「仕事ができる」とはどういうことか?』より

スキルのある人は掃いて捨てるほどいる。“仕事ができる人”が持つ「ストーリー戦略思考」とは?

仕事
「『仕事ができる』ようになるためには、スキルよりも“センス”が必要

経営学者であり、一橋ビジネススクール国際企業戦略専攻教授の楠木建さんと、電通、ボストンコンサルティンググループで組織開発などに従事してきた山口周さんの対話集である『「仕事ができる」とはどういうことか?』の主張です。

つい、スキルを磨くことばかりに目が向けられがちですが、そもそも仕事に対する“センス”がないと、ビジネス力を上げることは難しいと2人は言います。

仕事ができるとは、一体どういうことなのか?

新時代の仕事論について、同書から2記事を抜粋してお届けします!

「あれができる、これができる」と言っているうちは未熟

楠木:仕事ができるというのは、僕の考えはごくシンプルで、状況にかかわらず「人に頼りにされる」ということなんじゃないかなと思う。

つまりバイネームで「あ、山口さんだったら大丈夫だ」とか、「もう山口さんじゃなきゃダメなんだ」とか。

この人だったら大丈夫、どうしても必要とされているという状態が人として仕事ができているということです。

イメージとしては、子どものときにゲームとか球技で組分けをしたとき「あ、こいつがいるから大丈夫だ」「あいつと同じ組に入りたい」と感じさせる人がいますよね。あれです。ああいうのを念頭に「仕事ができる」と言っているんです。

僕は「スキルはいらない」とは言っていません。スキルは必要です。スキルだけだとその人に固有の価値とはなりにくいと言っているだけで、スキルを否定するものじゃない。

クリント・イーストウッドがいいことを言っています。「腕のいいバーテンダーの仕事はアートだけど、下手なヤツのはそうじゃない」。

スキルのある人は掃いて捨てるほどいます。「あれができる、これができる」と言っているうちは、まだまだなんですよ。

それができる人、代わりになる人はいっぱいいる。このレベルだと、極論すればマイナスがないだけでゼロに等しい。

そのゼロの状態からプラスをつくっていくというのが、その人のセンスに強くかかっている。

これが本当に「仕事ができる」ということだと思うんです。

仕事ができているかどうかを知るには、「顧客目線」に立ってみる

楠木:仕事ができている状態をどうやって認識するのかというと、結局のところは市場の評価だったり顧客の評価だったり、要するに他者評価にしかならない。

仕事ができるかどうか、自己評価の必要は一切ない。

こう考えたほうがシンプルですっきりしますね。自分に甘いのは人間の本性です。どうしても自己評価は甘くなる。だいたい過大評価になっていると思っておいたほうがいい。

自己を客観視するということは、顧客の立場で自分を見るということです。仕事ができる人は、常にこの視点が自分の思考や行動に組み込まれている。

自分が何をやってもらったらうれしいのかを考えて、それを他者にしようとする。

最悪なのは自己陶酔。自己客観視が完全に失われている状態ですね。こうなるともう自分を見失っているとしか言いようがない。

山口:ある状況のなかで非常にパフォーマンスが出るというセンスがある。

文脈依存的で、その文脈に適したセンスを自分が持っているのか、持っていないのかを判断できるメタセンス認識のセンスみたいなものがあるとすごくいい。

ただ、それはいろいろ試してみないとわからないですよね。

だから打席に立っていろいろな球を打ってみて「なんかオレ、ほかの人みんなが空振りする外角低めのスライダーを自分だけうまくちゃんと引っ張れるんだよね」というのがわかってくると、そのあとからはもうそこの球だけ狙ってスイープしていく感じになる。

そこの拡散とアコーディオンみたいな幅の広さは、すごく大事な気がします。

何か中途半端に広めなくて中途半端に狭めないみたいなことではなく、もう思いきり広げて思いきり狭めるというのをキャリアのなかでやれているのは、すごく自分の急所をわかっているということだと思うんです。

“平均”にお金を払う人はいない

楠木:スキル稼業一本槍でいくと、途中まではわりと順調にいけるんですね。

しかし途中で厚い壁にぶち当たる。

当人は「スキルで突破できる」と思っていて、それがその人がスキルを身につける努力をする理由にもなっているのですが、いつかどこかで「あれ? おかしいなぁ、こんなに頑張っているのに…」ということになる。

山口:これは僕もよく言っているんですけど、平均点にお金を払う人はいないっていうことだと思うんですよね。

労働市場でお金が支払われるのは突出した強みに対してであって、楠木さんのおっしゃられたように、マイナスの凹みをゼロに戻すことによって平均点になりましたというだけではダメなんです。

これを料理屋で考えてみると、中華料理のスキルを勉強してメニューを通り一遍つくれるようになりましたと。

じゃあ、それでお客が来るかというと来ないわけですね。

少なくともファンはつかない。ファンがついて継続的に繁盛する店というのは突出した特徴、まさに「余人をもって代えがたい」特徴を持っているわけです。

これは真似ようと思ってもなかなか真似できないわけで、やっぱり言語化できないからこその強みですよね。

楠木:そうです。

山口 :料理学校でスキルを習得して、パスタもつくれるし餃子もつくれますよ、みたいな変なレストランがあったとして、どれもソコソコで一応はおいしいと。

しかし、そこに人が来るかというと、まあ、たぶん来ないですよね。

楠木:餃子がつくれますよということでその人が選ばれるとしたら、とにかく人が足りないときですよ。その分野の人が足りないという状態ではスキルがものをいう。

例えば仮に世の中が異様な餃子ブームになって、餃子をつくる人の頭数が明らかに不足しているとなれば、餃子をつくるというスキルにあたかも大きな価値があるように見えるわけです。

昨今のプログラミングのように「旬のスキル」というのはいつの時代にも必ずありますよね。

そういった旬のスキルというのは何かの理由で餃子に対する需要が異様に高まっているようなものです。

だから、多くの人が「ここは自分も餃子をつくれるようになろう」というスキルに目を向ける。

ところが、人間すぐには死にません。仕事は長い間続いていく。いずれは餃子をつくることのできる人が十分に出てくる。

そうすると平均点にお金を払う人はいないということになる。

ストーリー戦略思考で、まわりから抜きん出よう

楠木 :「戦略をつくろう」と言うと、仕事ができない人はすぐ必殺技を探しにいくんです。飛び道具を欲しがる。

いつでも「旬の飛び道具」が喧伝されているもので、今だとAIとかなんとかテックとか、必殺技めいたもの、飛び道具っぽいのが出てくるんですけど、それに先行して筋が通った独自の戦略ストーリーがなくてはならない。

スポーツとビジネスでは違うんですが、元中日のピッチャー・山本昌さんの本に、戦略が時間的な奥行きを持ったストーリーだということを如実に示すエピソードがありました。

イチローさんと山本昌さんって仲がいいそうですね。

山本さんは50歳まで現役を続けましたが、その頃の直球の最高速度は135キロが精一杯。現役のとき2人でよく冬のキャンプをやってらしたそうなんですよ。

イチローさんってものすごい身体能力なので、ピッチャーとして投げると山本さんよりも速い球を投げるんです。

スピードガンで測るとイチローさんのほうが球が速い。でもバッターは山本さんの球のほうが速いと言う。

イチローさんが「どういうこと ? 」と山本さんに聞いたら、山本さんは「いや、それはオレがプロだからだよ」。

プロとはどういうことなのか。「速い球」を投げるのがプロじゃない。「速く見える球」を投げるのがプロなんだと山本さんは言っているんですね。

これは戦略の本質を捉えていると思います。ボールが速く見えるとはどういうことか。ピッチャーの戦略というのは配球という形をとる。

つまりは順列問題ですね。1球目に外に大きく曲がるスローカーブを投げる。すると次に投げる内角高めギリギリの直球が速く「見える」。

これは時間的な奥行きの問題ですよね。前の打席で打ち取ったんで、次の打席はこうしようみたいな。

要するにピッチャーの場合、戦略がことごとく時間を背負ったストーリーになるわけです。

この戦略の優劣が、プロの本領であるという話だと思うんですけどね、僕の解釈では。

なんでそうなるのかというと、結局誰も200キロの球は投げられないからなんですよ。「消える魔球」はやっぱりないんですね。飛び道具はない。

AIにしてもIoTしても、その中に位置づけて初めて意味を持つわけで。

仕事ができる人の思考様式は、箇条書きやToDoリストではない。順列的なストーリー思考がユニークな戦略を生み出すわけです。

「仕事ができる」を言語化してくれる、ビジネスパーソンの必読書

「仕事ができる」とはどういうことか?

「仕事ができる」とはどういうことか?

目の前の仕事をこなすことに精一杯で、「まわりが見えていない…」なんて人も多いはず。

自分がまわりからどのように見られていて、相手はどんな人なのか、俯瞰して考えることが、“できる”ビジネスマンになるための第一歩かもしれませんね。

仕事ができる人」を多角的に分析した同書を読んで、自分のキャリアの糧にしましょう!

〈撮影=清水健〉