特別インタビュー 階段を一歩上るとき

野口健「肩書になる生き方を」

2012.06.10 SUN


25歳で七大陸最高峰登頂の最年少記録を打ち立てた野口健さん。その後はエベレスト、富士山の清掃登山をはじめ、環境問題に取り組む活動家として知られ、最近では日本人戦没者の遺骨収集も行っている。常にパイオニアとして精力的に行動し、自らスポンサーを獲得し続けている野口さんの仕事哲学とは?

僕は落ちこぼれだったんです。父が外交官で、子どもの頃は日本、エジプト、イギリスで過ごし、海外では現地の日本人学校に通っていました。母がエジプト人だったこともあって、僕は日本語がなかなかうまく話せなかったんです。いじめられると言葉より先に手が出てしまって、どこに行っても問題児扱い。僕が小学校6年のときに両親は離婚したんですが、母が家を出てから親父がぐれちゃってね。いつも酔っぱらって帰ってくるんですよ。そんなこともあって、中学高校の6年間、僕はイギリスの全寮制日本人学校に入れられたんです。でも勉強が嫌いで、完全なる落ちこぼれ。喧嘩ばかりしていました。なんとか高校に仮進級できるようになった直後、喧嘩沙汰で1ヶ月の停学処分になったんです。

そのときは「落ちるところまで落ちた」と思いましたね。周囲の同級生は大手企業に勤務する親の子どもばかり。特に当時はバブル期で、「いい大学に入っていい企業に就職するのがいい人生」という風潮。自分はどうすればいいのかまるでわからなかった。そんな時に親父が、「旅にでも行って自分のことは自分で決めてこい。1ヶ月も家に閉じこもっていたって、どうせろくなことはない」と、自宅謹慎中の僕を、旅に出してくれたんです。

そして、親父はこう言いました。「俺は東大を出て外務省に入って大使になったけど、これは単なるポストの名前であって、退官したら何も残らない。お前はどうせなら『野口健』という名前が肩書きになる生き方をしたほうが面白いんじゃないか。どうしてもやりたいことがあって、それをやるために学歴が必要ないのなら中退してもいい」と。「確かにそうだ」と思いましたね。その親父の言葉を聞いてからずっと、僕は肩書きなんか気にせず、「野口健」として今日まで生きてきました。

停学中は、京都や奈良を何時間も歩きながら一人旅をしました。その途中の本屋で、冒険家・植村直己さんの本を手に取ったんです。驚いたのは、植村さんが自分のことを「落ちこぼれだ」と表現していたこと。彼は世界中を放浪しながらコツコツと山に登り、その延長線上に日本人初のエベレスト登頂や世界初の五大陸最高峰登頂があったんですね。「落ちこぼれでも世界的な冒険家になれるんだ!」と、そのことが、どん底だった僕を一直線に山へと向かわせました。貪るように植村さんの本を読み、「その気になれば、何でもできる」と、確信するようになったんです。

おかげで、停学処分後の僕は、目標ができてエネルギーがすべて登山に向かうようになり、喧嘩もパッタリとしなくなりました。大人の山岳隊に何とか入れてもらい、「高校生だからって、山で甘えはきかないぞ」と言われながらも、強引にお願いをして、植村さんが五大陸最高峰の中で最初に登頂したヨーロッパ最高峰・モンブランに登らせてもらい、高山病で苦しみながらもアフリカ大陸最高峰・キリマンジャロ登頂を果たしました。ただ、その頃の僕にとって、登頂は「こんちくしょう! 学校のみんなを見返してやる」という、落ちこぼれからはい上がるための自己アピールの手段でした。

大学は一芸入試で受験したんですが、倍率は20倍以上。面接当日は僕より先にプレゼンしている受験生たちが、「何々の日本一です」ってすごいことを自慢しているのが聞こえたんですよ。芸能人も受験しているしね。僕はモンブランとキリマンジャロに登った程度の話じゃ、彼らに勝てないと判断して、「過去ではなく、入学後の未来を語るしかない」と、準備していたプレゼン内容をその場で変えたんです。

僕はカバンに入っていたノートを取り出して、七大陸最高峰を制覇する予定を順番に大きく書き、面接官に見せながらゆっくり読み上げ、こう宣言したんです。「もしこれを途中で挫折した場合、責任を取って中退します」と。面接官の人たちが身を乗り出して聞いていました。それで合格できたんですよ。

後から聞くと、関係者の人たちの間で僕の面接が話題に上ったらしく、「あいつはペテン師だ」「いや、大物になるかもしれない」と二つの意見に分かれたみたいです(笑)。入学後、一人で大学の学長室に呼ばれ、「君の七大陸最高峰登頂に大学は全面的に協力する」と言ってもらえたんです。「ただし、中退はするな。何年かかってもいいから卒業をしなさい」と約束をさせられました。そうなったらもう、七大陸最高峰を制覇して卒業するしか道はありませんよね。僕は自ら宣言したことによって追いつめられたわけですが、学長との約束を思い出しては、その後の自分を奮起させることができたんです。

そうはいっても、山登りって、「もう二度とイヤだ」って思いになることがいっぱいあるんですよ。何度も死と直面するし、これまでに僕の仲間も大勢亡くなりました。19歳のときには、マッキンリーで初めて明確な死を感じました。そのときは、植村さんの真似をして、2メートル半くらいある長い竹竿を腰にくくりつけて登っていました。湿った吹雪に覆われて見えなくなったクレパスに落ちたとしても、竹竿が引っかかるから助かるというわけです。ところが、よくよく見ると縦横無尽にクレパスが走っている。「これじゃあ、竹竿と方向が同じクレパスに落ちたら終わりじゃないか!」と愕然としました。そこに深いモヤがかかって視界はゼロ。そんな状態で上っていると、ふと身体が浮くような感覚が。本当に深さ200メートルはありそうなクレパスに足を滑らせたんですよ。運よく竹竿が引っかかって九死に一生を得たものの、少し間違えば確実に死んでいました。恐怖でガタガタ震えましたね。しかも単独登山ですから誰も助けてくれない。今にして思えばよくあんな無謀なことをしたと思います。

当然、死にそうな目に遭うと、山に登るのが怖くなります。エベレストも2回登頂に失敗し、1回目は意識を失って半死状態のまま、かついで降ろしてもらったんです。「次に行ったら本当に死ぬ」という恐怖に囚われながら、「じゃあ止めるのか?また何もなかった頃の自分に戻るのか?」って考えると、僕はそっちのほうが怖かったんですよ。挑戦を続けるのも止めるのも怖い。「どっちも怖いんだったら、やるしかない」。そう思って再挑戦の決意を固めました。

登山を続けていくにはスポンサーが必要です。1回の遠征費に1000万円はかかるんですが、実績がないのに自力で集めるしか方法はない。もう、あの手この手ですよ。例えば、「どうしてもエベレストに登りたいんです」と、都心にあるホテルの広報担当者を説得して、パーティーを開かせてもらったことがありました。それで、山岳会をはじめ、いろんな人に「ぜひ来てください。参加費は遠征費に使わせていただきますので」って声をかけたんです。パーティーは4回開いたかな。そんなことをやる大学生はいなかったから、珍しがって大勢来てくれて、1回のパーティーで数百万円は集まりました。

エベレストに登りたい若者は大勢いたと思うんですよ。ただ、「やりたい」と口で言うことはできても、「実践する」のは違う。そこまで実際に自分でやるってことなんですよね。僕が今やっている清掃活動だって、根本は学生時代にやってきたことと全く同じです。自分からまず実践する。そして、どうすればたくさんの人たちに共感してもらえるか、スポンサーにはいかにスポンサーのメリットになるかを考えながら、伝えていく努力をずっと続けていく。社会人になってからもパターンは変わっていません。

七大陸最高峰を最年少で制覇できたものの、僕は「まだやれることがある」と思っていました。清掃登山は、エベレストに散乱する日本人登山隊が捨てていったゴミを目の当たりにして、「日本人のマナーは三流」と揶揄する欧米の人たちに「こんちくしょう! 見返してやろう。ゴミを拾えばいいんだ」という単純な理由で始めたんです。僕個人に対するバッシングならかまわないんですけど、日本人全体のバッシングとなると、熱くなって引くに引けなくなっちゃう。日本が国際社会で低く見られていることが我慢ならなかったんですよね。

ところが、頂上を目指す目線ではなく、足下を見ながら山を登ってみると、いろんなことがわかってきたんです。例えば、ドイツ、ノルウェー、デンマークの登山隊はゴミをちゃんと持ち帰るとかね。そういう登山隊の国は国内でも環境に対する意識が高いけど、日本のようにゴミを捨てていく登山隊の国は、国内の環境への意識も低い。つまり、エベレストのゴミに社会の縮図があったんですよ。それで、テーマは日本の中にあると思い、2001年には富士山での清掃活動を始めたんです。

富士山をきれいにするんだから、みんなに受け入れてもらえると思っていたら、とんでもない。いろんなところから反発されたんです。環境問題は自然相手じゃなく、人間社会が相手なんですよ。環境保全の流れになって公共工事ができなくなると懸念されたりね。いろんな団体や利権がからむので、複雑で面倒。でも、日本の社会をよくしたくてやってるから、へこたれるわけにはいかない。僕だって好きで臭くて汚いゴミを拾ってるんじゃありません。

ただ、社会を変えるには、掃除をやるだけじゃなく役所を動かさなくてはと、現場の写真を撮って、資料も作って、何十回と環境省に足を運びました。一生懸命伝え続け、やっと「じゃあ、一度現場に行こうか」となる。現場にさえ呼べば、こっちのもの。役所の人だってガラッと意識が変わるんですよ。そんなふうにしながらコツコツと続けて、最初は100人くらいだった活動が、2009年には6800人が参加しました。人数規制するほど大勢を巻き込むようになったんです。

そうやって、たくさんの人を巻き込みながら、少しずつでも変化していく過程が楽しいんですよ。もちろん、イヤになって投げ出したくなるときだってあるんです。でも、現場に行って問題を目の当たりにすると、「こんちくしょう!」って、再びやる気が出るんです。だから僕は常に現場に行かないとだめなんです。

20代の頃って、とにかく「知りたい、見たい、やってみたい」って欲求が先に立つけど、まずはそれを実践してみればいいんですよ。30代になると、その延長線上に「やらなきゃならないこと」がだんだんと見えてきて、「やりたいこと」より「やるべきこと」の比重が重くなってくる。でも、その社会的な責任を背負うことだって、楽しめる自分になってくると思うんです。僕自身は、そんなふうに自分の中から湧き上がってくる欲求や社会的責任に素直に従って生きてきたことが、他の誰でもない「野口健」という肩書きを形作ってきたのではないかと感じています。若い人はすぐに結果を求めて、「コツコツと続ける」という地味な行動にウエイトを置かないけど、結果的には、その積み重ねが大きなアクションにつながっていくんですからね。何事もすぐに結果は出ません。過程を楽しめるようにならないと大きな仕事を成し遂げることはできないと思いますね。

※この記事は2010年2月25日にリクルートエージェント内に掲載された記事です

※この記事は2011年03月に取材・掲載した記事です

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