特別インタビュー 階段を一歩上るとき

藤巻幸夫「自然な自分を見つけて」

2012.06.10 SUN


伊勢丹勤務時代、「解放区」などの斬新な売り場をプロデュースして“カリスマバイヤー”と呼ばれた藤巻幸夫さん。独立後は福助の企業再建など多彩なキャリアを積み、現在は自社の経営ほか、数多くのプロジェクトにかかわる。 「人との関係を大切にしてきたら、自然と仕事の幅が広がってきた」と語る藤巻さんのキャリア哲学に迫る。

キャリアって要するに“KKDK”だと思っています。“経験”すると“勘”が生まれる。すると“度胸”が据わって“行動”できるようになる。するとまた新たな経験につながるんです。このサイクルの繰り返しのように思いますね。自分が伊勢丹に入社してから30年ほど経った現在まで、その軸で自分を広げてきたと改めて感じています。

伊勢丹に入社して配属されたのは婦人服で、最初の仕事はバーゲン品の販売でした。3坪ぐらいの売り場で売れ残りの商品をいかに売るかというコツを学ばせてもらいました。当時は“伊勢丹の寅さん”と呼ばれていましたよ(笑)。
この頃の思い出は、先輩たちと飲みに行ったことばかり(笑)。ずいぶん可愛がってもらいましたね。そして、3年目ぐらいになると、今度は自分が後輩やアルバイトを連れて飲みに行き、人生について熱く語ったりしていました。こういう日ごろからの何げない人付き合いが、その後のキャリアの随所ですごく生きてくるんです。

自分のキャリアにおける大きな転機は2回ありました。29~30歳の時と、39~40歳の時です。
29歳の時に、アメリカの専門店のバーニーズ・ニューヨークに出向しました。パリやミラノ、ロンドンも回って、世界のトップクリエイターを相手に商品を買い付けたり、プロデュースする仕事をしていました。楽しかったですね。パリコレに行ったりもして、「俺は世界最先端のファッションシーンの真っ只中で仕事をしているんだ、凄いだろう」と強い自信を持ちましたが、いかんせん自意識過剰、自惚れていたと思います。しまいには、遊びのほうに熱中して仕事に集中せず、勤務態度が悪かった上に在庫をつくりすぎて上司から叱られる始末。しかも、僕は素直に謝れなかったんです。意地やプライドが邪魔をしました。それで日本に戻されることになったんです。バーニーズにいたのは結局2年ほどと短く、とても悔しい思いをしました。意気消沈して、上司の部長に退職を申し出たのですが、その時「お前、せっかくここまで頑張ってきたんだから、ここで辞めたら自分のためにならないぞ。辞めるのはいつでもできる」と言われてね。この一言で僕は退職を思い止まりました。その上司がいなかったら、今の僕はないですね。その上司とは、後に伊勢丹の社長に就任した武藤信一という人です。武藤さん以外にも、新人の時にお世話になった先輩方3人にも引き止められました。この4人が、30代の自分に導いてくれた恩人です。

バーニーズで大失敗をやらかし、へこんでいた時に、僕のいとこが川嶋孝周さんという東洋哲学の研究者を紹介してくれました。陽明学や易学を教わり、『論語』や四書五経を読んだりしました。そうした中で、佐藤一斎という江戸時代の儒学者が著した『言志四録』という本と出会ったのですが、これが大きかった。西郷隆盛が大きな影響を受けたことで有名な本ですが、これを読んでいるうちに「何て俺はちっぽけな人間なのか」と思わされたんです。全然なってない、まだまだだと。それらの本には「一生懸命働け」とか「現場を見ろ」「若いヤツをかわいがれ」といったことが書かれている。それを実践してみようと思いましたね。実践していくに従って、自分の価値観とか発想が変わっていきました。それまでは自分の意地やプライドを気にして仕事をしていたところがありましたが、それ以降はお客さまや周囲の人のためにどうすればいいかと考えられるようになったのです。今思えば、失敗してよかったと思います。失敗して気がつくことができましたから。
変な話ですが、今の自分はテレビ番組に出ていても「全く自惚れていない」という自信さえあります。以前ビートたけしさんとテレビ番組で出会って、あんなに凄い人なのに、普段は非常に謙虚で周囲に気を遣われているところに接して、僕は本当に感動しました。僕の謙虚さなんてまだまだ足りないですよ。たけしさんとの出会いから気づかされたことは大きいですね。

30代の初めからは考え方が変わって、いつも“お客さま視点”で考えるようになったのです。もっと人々をワクワクさせる、面白くするにはどうすればいいかと考えて売り場づくりを手がけるようになりました。そして、34歳の時、お客さまがびっくりするような若いデザイナーの服を集めて売り場をつくったら喜ばれるだろうとひらめいて、「解放区」をつくったのです。これが結構当たりました。そして、その後「リ・スタイル」という百貨店セレクトショップの先駆けとなる売り場や、「良質適価かつ高感度」をコンセプトとした自主編集型のライフスタイル提案ショップ「BPQC」をつくりました。これらが話題を呼んで、39歳の時に雑誌『AERA』で“カリスマバイヤー”と紹介されたのです。絶頂期でしたね。
その頃は、取引先や部下、仲間を巻き込んで仕事を本当に楽しんでいました。仕事現場では、いつも語り、怒り、教え、といった感じでした。自分はめちゃめちゃ怖い上司だったと思いますよ。それでも、怒鳴っても部下はついてきてくれました。仕事ばかりでなく、ボーリング大会を開いたり、宴会をやったり。いや、宴会ばかりだったかな?(笑)。入社して20年近く経っていましたが、当時のことを考えれば、結局その間やってきたことは何も変わっていなかったと思います。ただ人間を大事にしよう、人を喜ばせよう、自分が楽しむことで人も楽しませようといったことです。だからだと思いますが、これまでかかわりのあった人たちと今でもつながりが途絶えない。まるで“フジマキ軍団”が出来たようです(笑)。

もう一つの大きな転機は、39歳で伊勢丹を退職し、独立したことです。一度一人立ちしてみたいという思いと、もっといろいろなことを知ってみたいという思いがありました。また、百貨店におけるキャリアの先というものが見えてきたこともあります。良い悪いでなく、ここいらで一回人生をゼロリセットするのもいいかな、と。29歳の時に僕を引き止めてくれた先輩も「そろそろいいかもしれないな」と背中を押してくれたこともあります。
でも、それらはいわば独立するための理屈みたいなもので、本当はある日本人デザイナーとの出会いがあったからなんです。彼はものすごくキレイな服をつくるんです。僕はその才能に惚れ込んでしまい、彼といっしょにファッションビジネスを立ち上げたいと衝動的に思いました。「これはイケる」という根拠のない自信がありましたね。でも、お金を儲けたいとか、そういうことでは全くなかった。ただ純粋に彼のキレイな服を世の中に知らしめたいという夢を追いかけただけ。今考えれば、自分でもすごく思い切ったものだったと思います(笑)。結局そのビジネスからは手を引くことになりましたが、今でも貴重な出会いだったと思っています。

その後縁あって声をかけてくださったのが、横浜・元町の老舗バッグ店、キタムラの北村宏社長です。専務として働かせてもらいました。そして、44歳の時に民事再生になった福助の社長に就任します。再建を担ったファンドから依頼された時は“CMO”(チーフマーケティングオフィサー)という役職だったのですが、数カ月ほど会議などでアイデアを出す僕を見て、ファンドが「こいつは面白い」と思ってくれたんだと思います。社長のポストなどに興味はありませんでしたが、社長の方がいろいろできるならそのほうがいいということで、お請けしました。
でも、再生の仕事は半端じゃなかったですね。過労で歯が抜けたほどです。社員はやる気がないし、商品もパッとしない。そこで、まずは直接自分の思いを伝えようと300人の社員全員と面接しました。けれども、再建しようなんて思ってやってはいなかった。暗くなっている300人を明るくすることだけを考えてやっていたように思います。福助にいたのは1年ほどですが、結果的にそれで上向いたからよかったのではないかと思っています。

※この記事は2010年4月22日にリクルートエージェント内に掲載された記事です

※この記事は2011年03月に取材・掲載した記事です

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