特別インタビュー 階段を一歩上るとき

田崎真也「自分なりプロを極めて」

2012.06.10 SUN


「日本の食卓にワイン」の文化を浸透させた田崎真也さん。25歳の若さでソムリエ日本一となってワインブームの火付け役となった。37歳にしてフランス人以外で初となるソムリエ世界一の王座に輝き、「ワインはフランス人のもの」という世界の常識を覆した。華やかな実績とは裏腹に、世界の頂点を極めるまでにはいく度もくじけそうになったという田崎さん。その転機と仕事哲学とは?

ソムリエにつながることを思い起こすと、子どもの頃から僕はとにかく凝り性でした。小学生のときは昆虫博士、中学時代は魚に凝り、ひとつの分野を徹底的に極めたくなるところがありました。本当は高校生以上でないと入会できない釣りクラブにも、何としても入りたくて3歳上の年齢を言ってもぐりこみました。3年分の釣り知識と経験をカバーしようと、釣り雑誌のバックナンバーを取り寄せて読み、毎朝、家の裏にあったグラウンドで投げ釣りの練習をして腕を磨き、背伸びしていました。釣ってきた魚は自分でさばいて煮魚を作るくらい、料理上手な少年でもありました。

中学卒業後、工業系の高等専門学校に進学しましたが、釣りクラブの先輩に誘われ、高校1年の夏休み、新島で海の監視員のアルバイトをしたんです。先輩たちに18歳と告げていたため、本当は15歳なのに他の高校生を後輩扱いしながら、まかないも作っていました。その生活が楽しくて、「僕の魚好きは、海が好きだからだ。将来は海の仕事をしよう」と思い、父親に反対されながらも静岡にある国立の海員学校に編入しました。

翌年の夏も新島に誘われ、今度は16歳なのに「もうじき20歳だから」と、スナック店をひとりできりもりする仕事を紹介されました。自分でメニューを考え、東京から食材や飲み物を準備して運んだんですよ。とにかく必死でした。それでもこのことが、僕の人生の大きな転機となりました。10代の3歳違いって大きいですよね。僕は25歳でソムリエ日本一になるまで年齢を上に見せながら、ばれないように陰で努力を重ねたことも、チャンスを早くつかめた要因だと思うんです。

その夏は、若干16歳で飲食店を丸ごと任されたのはもちろん、それ以上に印象に残っているのは、お客様にお金をいただきながら「ご馳走さま、おいしかったよ、ありがとう」と言っていただけたこと。「飲食店とは、なんていい所なんだろう」という至福の喜びを感じ、「僕は海が好きなのではなく、料理が好きだったんだ」と、料理人を目指す決意をしたんです。もっともそのときはまだ、同じ飲食でも、調理とサービスが別々の仕事であるという認識は全くありませんでした。

「海の仕事をする」という目標がなくなったことで、海員学校は17歳でやめ、東京に戻って飲食の仕事を始めました。しかし、1つのお店を長い期間続けるということはありませんでした。最初は、和食の板前修業に行ったんですが、3カ月経っても野菜を洗うばかりで「これは違うぞ」と思い、フレンチコックの修行に3カ月行っても、鍋を洗わされ続けて「これも違う」と思い、辞めてしまいました。凝り性だった僕は、すでに本もたくさん読んでいて、料理の技術も知識もあるのに、料理人の世界は15年修行してやっと一人前と認められるところ。つまり、15年でたった1軒の店の仕事しか覚えられないということに納得がいかなかったのです。

料理人としてクリエイティブな発想力を養っていくべき時期に、ひとつのスタイルを習得するためだけに怒鳴られながら時間を失っていくのはおかしいと思ったんですよね。後にフランスに行って知ったことですが、例えばシェフになりたいフランス人は学校卒業後、3カ月ごとに店を変わって、2年間の修行期間で8軒の店を経験しながら自分のスタイルを確立していきます。皿洗いはしません。僕もただ嫌で辞めるのではなく、「次はこれをやりたい」という意思があって何店舗も渡り歩いたわけで、自分は間違っていなかったと確信しました。やりたいことが明確で、覚悟があれば、「石の上にも3年」なんて我慢は必要ありません。

僕がサービスの仕事の楽しさに目覚めたのは、3店舗目のレストランに転職したとき。ちょうどクリスマス繁忙期だったんですが、即戦力になれるよう、大きなサーバースプーンとフォークを片手で持ちながら、丸めた布巾と爪楊枝を交互につかむ練習を繰り返しました。一人一人の客席への料理の盛りつけ、焼けた肉にブランデーをたらして火をつけるフランベ、料理に合うワインの提供。このとき僕は「サービス」という仕事に目覚めたのです。

その後も配膳会に登録して朝から夜まで仕事のあるホテルで働き、手取りの収入は増えたのですが、日本一のサービスを勉強したいという思いが強くなりました。給料が半分以下になることを承知で、銀座の高級ドイツ料理店に就職。さらに、六本木の高級フランス料理店に転職しました。 ここで、洗練された手さばきでお客様に料理をサーブする先輩たちのかっこよさに惹かれたんです。さらにそこで働く先輩たちは、勉強熱心で料理のこともよく研究していて、大きな刺激を受けました。その姿を見て、「日本で最も高級なフランス料理店の支配人になろう」と目標を持つようになりました。負けず嫌いなので、こうと決めてやるからには、何でもトップを目指したいんですね。

ところが、フランス料理に必要不可欠なワインのことを覚えるのが非常に難しい。10代の身では、テイスティングをしてもおいしいと思えないし、味の違いも分からない。今のようにインターネットの情報がないのはもちろん、当時の日本にはまだワインがそこまで普及しておらず、十分な資料を揃えることですら困難でした。その状況から、フランスに行くしかないと思ったんです。

当時はレストランの月給が数万円なのに、渡仏する航空券だけで30万円以上、滞在費も含めると100万円は必要でした。そこで、短期間でお金を稼ぐために勤めを辞め、朝・昼・夜と3つのアルバイトを掛け持ちして貯金、19歳でフランスに行きました。1度では十分な知識を得られず、さらにアルバイトをして渡仏。ソムリエスクールで2年間勉強しました。

帰国後、国内のソムリエコンクールに出場したのですが、予選は通過したものの、準決勝では最下位に。本場フランスで学んだという自信もあり、すごく悔しかった。悔しさを胸に、本格的なトレーニングを積んで25歳のときに優勝しました。上位入賞者は東京・大阪の高級ホテルのソムリエばかりのなか、当時の僕は日本人のお客様に合うサービスを勉強しようと和食店に勤めていました。そんな若造がいきなり優勝したものですから、一気に注目を浴び、その日から取材攻勢が始まって、店は連日連夜満席に。それまで「漁師になりたい」「料理人になりたい」「レストランの支配人になりたい」と、徐々に目標を絞ってきた僕でしたが、この優勝がきっかけで「ソムリエという職業でいこう」と決めました。

また、ちょうどこの時期は日本国内でも手軽にフランス料理を楽しめるお店が増えワインブームが広がり、ソムリエ希望者に向けた講演やセミナーにも頻繁に呼ばれるようになっていたんですね。収入も跳ね上がりました。「タイトルを獲る前と後ではこんなにも違うのか」と驚くほど周囲が変化しました。19歳のときにひとりでフランスに行ったときは、ワイナリーで門前払いを食うことも多かったのに、優勝の副賞としてフランス旅行に招待されていくと現地でも歓待を受け、すっかり有頂天になってしまいました。ただ、このときソムリエの世界チャンピオンにお会いする機会があったのです。これが本当に幸運でした。あのときお会いしていなかったら今の僕はないと思います。圧倒的な実力差を突きつけられ、「日本のソムリエチャンピオンなんて意味がない。次は世界を目指すべきだ」と奮い立たせてくれたのです。

世界大会を目指すと決めてから、優勝まで11年間もかかりました。その間、ずっとストイックなトレーニングの連続。とことん勝つための研究をしました。世界大会の予選落ちも2度経験して、「ここまでやって予選落ちとは、どこまで極めればいいんだ」とあきらめかけたこともありました。なぜ、それほど辛いトレーニングを続けられたのかというと、優勝者発表のアナウンスが流れる一瞬の感動のため。辛くなるとそのシーンを思い浮かべては気を取り直すことを繰り返し、乗り越えました。勝つためにはそういう精神力と意外と単純な動機が必要なのかもしれません。

あきらめなかったもうひとつの理由は、国内大会の優勝前後で大きく周囲が変わった経験をしたので、世界大会で優勝すれば、想像がつかないことになるはずだという確信です。結果を出せば世界が変わるということです。しかし、それまでフランス人以外の優勝者はひとりもいなかった。優勝できる保証なんて全くなく、自分の将来設計を描く余裕もないまま没頭して挑戦を続けるうち、自分も気づけば37歳。2000人を前にした公開審査が取り入れられた東京大会での参加を最後と決め、ここで入賞できなければ、ソムリエもこの業界も辞めようと覚悟を決めました。

結果、参加国の中でもっともワイン消費量が少ない日本人の僕が優勝。思った通り、世界が変わりました。僕は世界のワイン関係者から一目置かれる存在となり、それまで生産者から情報をもらって、フランスで育まれたワインと料理の食文化を日本に伝える役割だったのですが、優勝してからは、日本の食文化のあり方を世界に伝えることが求められるようになりました。自ら新しい文化を発信する立場になったんです。そして僕は高級フランス料理店に拠点を置くのではなく、日本ならではの「居酒屋」から情報発信をしていくべきだと考え、自分で居酒屋をオープン。「おしんこやめざしをつまみながらワインを」というスタンスに決めました。実際の店舗の運営だけでなく、日本の食卓でワインを提案していく本を毎年6~7冊は書くようになりました。

世界一になり、その後も走り続けていましたが、40歳を過ぎてから、人生の折り返し地点にたどりついたような気がしました。そこで、それまでの仕事ばかりの生活を、休暇を定期的に取るような生活に変えました。時間に余裕ができると、自然と「仕事」や「人生」について考えるようになりました。そんな中「仕事自体は人生でもなんでもなく、より良い人生を送るためのプロセスなのではないか」と思うようになったんですね。

振り返ると、16歳のときに新島のスナックでお客様から「ありがとう」と言われた喜びから始まり、そう言われる仕事を続けていこうという気持ちがベースにありました。試行錯誤しながら結果的にソムリエという職業を選びましたが、僕の原点は常にそこにあります。

どんな職業でもお金を稼ぐということですから、払ってくださる方がいるわけです。その払う方から「ありがとう」と言われる仕事がプロフェッショナルとなりえるのだと思います。そして、プロになるためには、ひとつの仕事に関わった時間ではなく、内容が重要です。日々の仕事をただこなすだけでは時間が非常にもったいない。普段から、自分なりにプロと言える仕事をしているかを考えながら、目標に向けて努力していくようにしましょう。

※この記事は2010年11月4日にリクルートエージェント内に掲載されたものです

※この記事は2011年04月に取材・掲載した記事です

関連キーワード

注目記事ピックアップ

 

編集部ピックアップPR

ブレイクフォト