特別インタビュー 階段を一歩上るとき

坂東眞理子「強みは1つではない」

2012.06.10 SUN


300万部を超える大ベストセラーとなった『女性の品格』の著者として知られる坂東眞理子さん。東京大学卒業後に総理府入省。その後も様々な役職を歴任し、現在は昭和女子大学の学長を務める。華やかに見える経歴も、実は34年に渡る異動や出向の繰り返しに翻弄されてきた部分も大きかったという。そんな状況の中、常に自分が置かれた立場を前向きにとらえ、一つ一つの経験を強みに変えて道を切り開いてきた、坂東さんの仕事哲学とは?

「大卒女性に就職試験を受けさせない」そんな時代があったことをご存知でしょうか。私が東大を卒業した1969年は、まだそれが普通でした。私には公務員として特にやりたいことや目標があったわけではないのですが、消去法で考えると、就職するには数少ない省庁での募集を当たるしか術はありませんでした。たまたま卒業の年に総理府(今の内閣府)で女性職員を一人募集していたのを見つけ、なんとか合格。就職できたということだけで嬉しくてしかたありませんでした。

上級総合職としての採用とはいえ、はじめはお茶汲みやコピー取りなどからスタートしたんですが、これが失敗ばっかりで。コピーを取るにしても、歪んで取ってしまったり、ホッチキスを閉じ間違えた書類が一番偉い人の手元にいってしまったり(笑)。「またやっちゃったの?」「すみません!」そんなことの繰り返しだったんです。学生の頃は肩書きのある人たちが世の中を動かしていると思っていたんですが、仕事を進めていくうちに、実際の現場は叩き上げの人たちが支えていて自分たちはその上に乗せてもらっているんだということに気づきました。それはすごくいい経験でしたし、現場の人たちからいろいろなことを学び取ろうと思っていたんです。ただ一方で、自分が今まで勉強してきたことは、職場では全く役立たないのだろうか、と不安に思っていましたね。

私は24歳で結婚、26歳で出産しましたが、特別な能力のない自分が一度仕事を辞めたら、再就職も転職もできない。かといって専業主婦を上手くやれるタイプでもない。だから、仕事に自信が持てるまでは、とにかく働き続けたいと思っていました。でも当時は、慣れない子育ても重なって「自分は何もできない人間なんじゃないか」と感じ、とても苦しい時代でした。

20代は苦しいことも多かったのですが、そんな中でも自分にできることをやっていこうとは考えていました。 省庁は残業が多いのですが、国会待機などの待ち時間が長いんです。そういった時間を使って、コツコツと報告書などを書いているうち、少しずつ文章を書く仕事が回ってくるようになり、27歳のとき、「青少年白書」の執筆アシスタントをやらせてもらえることになりました。

「青少年白書」の仕事では、アシスタントとはいえ一冊の白書ができあがるプロセスに関われたことが大きかったですね。白書というものは政府が出す文章なので、最終的には閣議まで承認が上がるのですが、最初は私たちのような担当者が資料を集めて書き、それを上司や官房、他省庁とすり合わせます。その際、いろんな意見の先生方を説得する材料となるのが客観的データ。いかにその準備を整えて納得してもらうか、オンザジョブトレーニングで、政府の文章の書き方と仕事の進め方を鍛えられました。また、その仕事を通して、自分が書いたものが本になって世の中に出ていく喜びも知ることができましたね。

そして29歳のとき、「国際婦人年」に合わせて、今の男女共同参画室の前身である「婦人担当問題室」が置かれ、各省庁から女性の課長補佐が集められました。私はそこで「『婦人白書』をつくるべきです」と主張したんです。「青少年白書」の仕事で感じた喜び、自分にとって初めて強みにできるかもしれない「書く」というスキルをなんとかここでつなげたかったんですよね。その結果、日本初の「婦人白書」を一人で執筆できることになりました。

「婦人白書」作成には苦労も伴いましたが、やっと「自分の仕事をしている」というやりがいを感じることができるようになりました。ところが、自分で「これはいいことが書けた」と思っても、各省庁に確認を求めると「根拠がない」と一蹴されてしまい、採用される原稿はたった2~3割。「公文書に盛り込めない政策提言や分析を、自分の言葉で書けたらどんなにいいだろう」という思いが私の中で高まりました。

こうして32歳のときに「婦人白書」が完成。担当者として新聞の取材を受け、その記事を見た出版社から、女性をテーマとした本の執筆依頼がきたんです。もう書きたいことが溢れ出て、「自由に書けるって、何て楽しいのだろう」と思いながら書き上げました。その後も出版依頼があれば、夜と週末を利用して執筆を続け、気づけば公務員生活の中で手掛けた著作は32冊にもなっていました。

私が本の執筆を始めた当初は、「夜中や土日も職務に従事している同僚がいる中で、自分だけ本を書いているというのはいかがなものか」という意見もありましたが、経済企画庁に出向すると、そこでは何冊も自著を出している官庁エコノミストが大勢活躍していて、「君も本を書いてるのか」と、すごくプラスに評価されたんですね。「所変われば価値観も変わるのだ」とわかってからは、批判的な意見より、「続けた方がいいよ」という、自分にとって心地いいアドバイスに従うことにしました。その後も批判的な意見をいただくことはありましたが、守秘義務違反にならないよう、発表前の資料や政府の批判は書かない、公的意見ではなくプライベートの著作として旧姓で書くなど、自分の中でルールを決め、周囲に対して恥ずかしくない行動を取るようにしていったんです。

その後、34歳でハーバード大学の研究員として1年間留学しました。このときは理解ある上司に頼み込んで、退職しないですむよう「研究休職」という特例を認めてもらったんです。当時の私は、「女性は国内では能力を発揮するチャンスを与えられないかもしれないが、英語ができるようになれば、海外も含めいろいろな可能性が広がるのではないか」と考えていました。自分はあまり英語が得意ではないし、好きでもなかったんですが(笑)、これがなかったら将来チャンスはないと思い込んでいたので、何としてもアメリカに行きたかったんですね。

こうして私は、「書く」ことと「英語」と、自分のポストで得られた青少年政策や婦人政策といった「政策」情報をしっかり身につけるという、3つの「コアになる強み」を意識するようになりました。コアになる強みというと、ひとつに絞るものと捉えがちですが、ひとつに限定しなくてもいいわけですし、3つ持っていれば心強いですよね。 どんな状況におかれたとしても、どれかひとつのコアを活かせればいいと、柔軟に考えることができるようになりました。

誰でも異動先では心機一転、新しい分野で全力投球することになり、過去の仕事と切り離して考えてしまいがちです。でも、私はこれまで経験してきた事を「自分の大事なレパートリー(技量を発揮できる領域)」として、切り捨てずにしつこくメンテナンスしていました。

ある程度自分のものとなった後のメンテナンスは、最初に身につける大変さよりはずっと楽。すでにその分野の素地や基礎知識があるので、新しい情報の上書きだけをしていけばいいのです。例えば「政策」であったら、あるデータの数値を、その時代に合った最新の数字に時々入れ替えておくとか、改正点だけをインプットする。ポストを離れると自分の元に集まらなくなる資料を、意識して集めるんですね。そうやって、私は女性政策についてフォローアップしていました。過去の仕事を潔く諦めてしまうと「私はもう、そのポストからは外れているのでわかりません」となるところも、メンテナンスを続けていれば、「それ、知っています」と答えることができます。

もちろん、異動先で取り組む仕事に90%はエネルギーを費やすわけですが、残りの10%でレパートリーを維持する努力を継続できるかどうか。それによって10年、20年後が大きく変わるのではないかと思います。

異動が多い職場では、本意でないとか、不向きと感じるポストもあてがわれます。やりたい仕事が回ってくるのは、3回に1回あるかないかくらい。むしろ私は「やりたい仕事ができたらラッキー」くらいの気構えで、与えられた仕事にベストを尽くすことを考えていました。

私の場合、48歳のときに、思いがけず埼玉県副知事に任命され、地方行政という全く未知の世界に出向することになりました。最初は「地方自治法も読んだことないんでしょ?」と言われましたが、馴染みがある青少年や婦人、高齢者問題といった分野に力を入れながら、少しずつ教えてもらってレパートリーを増やしていき、男女共同参画の進んだ県を目指して「世界女性未来会議」の開催や、女性職員たちの力を集結するネットワークづくりなど新しい試みにつなげていきました。

その後、女子大の発展に寄与してほしいとの依頼をいただき、2003年に昭和女子大学の理事となったのですが、このときが官僚から民間へと最も大きなキャリアの転機でした。それまではずっと、この事業は社会のためになるかという「大義名分」を最優先してきたのに、そんなことより大学が存続することが大事。実際に受験生が増えたという実績を出さなくてはなりません。価値観や文化が根本的に異なるんですよね。ですが、ここでもこれまで培ってきた自分の強みはどこかで活かせるはずだと考えていました。2009年に学長になってからは、新しい学科を新設したり、地域と連携して大学とは別のNPO法人をつくり、職員住宅を認証保育所にしてみたりと、公務員時代の子育て支援政策の知識という自分の強みとして活かして新しいものを生み出しています。

異動や出向などで仕事が変わると、強制的にレパートリーが増やされますよね。そういうときこそ、その人の創造性が試されると思うんです。新しい仕事と過去の経験やスキル、強みをいかに融合させるか。本当の創造性というのは、ゼロから何かを生み出すことではなく、そうやって過去に得たものの中から組み合わせて新しく創り出していくことではないでしょうか。

2006年に書いた34冊目の著書となる『女性の品格』が驚くほどベストセラーになって、たくさんの方に読んでもらうことができました。以前から、女性も社会で男性に負けずに勝ち組になろうといった風潮には反発を感じていたのです。みんながお金を儲けて、出世や権力を目指すわけじゃない。違った価値観を持ついろんな人たちが尊重されるのが、本当の意味でのダイバーシティです。目先のことで少し損をしたとしても、きちっと生きていくことの方が大事じゃないかとか、不完全なものでも愛おしんで育てていきましょうとか、そういう、人として当たり前に大切にすべきことを言いたかったのです。四半世紀もの間、いくら書いてもベストセラーにはほど遠くて、半ば諦めていたのですが、「書く」ことにこだわって努力を続けていれば、神様がご褒美をくださることがあるのだなと思いました(笑)。

これまでの自分の経験を振り返ってみて改めて思うのですが、20代は失敗を繰り返してもかまわないので、少しずつ「これが得意かも」という武器を見つけ、30代はそれを育てていく。そうやって自分の「コアになる強み」を仕込んでいく時期だと思います。「自分はこれならできる」ということが通用するようになるのは40代。また40代は、チームの責任者としてチームのメンバーを活躍させることも必要になってきます。それぞれの年齢によって期待されることも役割も違ってくるのです。私は20代が一番苦しいと思います。でも、若いときに、自分には何ができるのかと、試しては失敗することを繰り返すことが大切です。失敗しても諦めずに続けていくことで、未来は切り開けていくのだと思います。

※この記事は2009年12月24日にリクルートエージェント内に掲載されたものです

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