「いずれ鍵を開ける箱が」

倉本 聰

2010.01.21 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
昔の夢を見据えているか。忘れてしまってはいないか

“塾”の仲間だった女性と結婚した、現在売れっ子俳優の男。出演作は高視聴率を取り、高級外車を乗り回している。でも女は、離婚届を残して男の元を去る。物語はそこから始まる。
「“あのころあなたは燃えていた”というふうな惹句が付くのかな。誰しもそうだと思うんですよね、社会に出ると流されて、自分より上司の意見が大事になって、暮らしの軸足が本来とはまったく違うところに置かれちゃうようになってきて。僕がシナリオライターになったのは20代なんですが、僕の場合は、最初に自分がやりたいことを箱にしまって鍵をかけて封印しちゃおうと決めたんです。自分がまずシナリオ技術者として、どんな注文にも応じられる能力を身につけようと。そういう職人になったときに初めて鍵を開けて“自分の初心”を取り出そうというふうに思ってたんですね」
いわば、自分の初心の在処に関して非常に意識的だったのだ。
「僕は社会に流されてる人を醜いとは思わないし、軽蔑もしません。むしろ当たり前だと思うんですね。ただ、そのときに頭の片隅ででも、自分にはいずれ鍵を開ける箱があるということぐらいは覚えていた方がいいんじゃないかって気がするんですよね」
自分で箱にしまった事柄が実現しないことだってある。必ず叶う、なんて甘っちょろいことは言わない。
「相当な時間が要ると思います。それだけじゃなく、修業が要りますよね」

鍵を掛け、開けるまでの長い時間と修業の話

大学時代にプロのシナリオライターとしてデビューしていたが、早くに父上を亡くしていて、家計のためにニッポン放送に就職。ラジオ番組を作りつつ、並行してシナリオも続けた。
「テレビ局がどんどん開局していく時代で、ラジオは斜陽だったんですよ。だからアナーキーだったんですね。スポンサーが付かない時間がいっぱいあって、われわれ若いディレクターが勝手に作っていいような風潮があって。いろいろ実験ができたんです」
たとえば当時、売り出し中の寺山修司と、彼の恋人だった九条映子たちとともに作ったラジオドラマ。設定だけを決め、あとは恋人たちの即興に任せた、斬新な半ドキュメンタリー作品だった。いま日々の仕事によって夢を見失ってゆく若者とは、若干状況が違う。
「ニッポン放送にいたころは、鍵を掛けては開け、掛けては開けってやってたんでしょうね。真面目な会社で真面目な社会人だったら、あんなに鍵は開けてられないだろうなと思いますよ」
28歳で独立。こっそりやっていたシナリオの仕事が多忙になり、“こっそりの継続”が困難になったためだ。
が、実は「箱にしまって鍵を掛ける」を本格的に実践し始めたのは、このときだったと言う。せっかく“業務”の頸木を逃れ、自由になれたのに、ストイックに職人を目指したのは…。
「会社を辞めるのに、清水の舞台から飛び降りるような気分があったんですね。おふくろと妹を抱えてたし。一方で臆病なんですよ。小心の裏返しで“まず実力を持たねば”ということになったんじゃないかな」
アニメの脚本に主題歌の作詞、青春ドラマに歴史ドラマ、時代劇、ホームドラマ…まさにあらゆる注文に応え、「30代になるころに売れ始めて、ピークは30代後半でしたね。今とは比べものにならないくらい(笑)」。
箱に鍵を掛け、やりたいことは封印してきたつもりだったが、ときどき開けてはテレビ局と衝突したという。それが決定的になったのが、74年のNHK大河ドラマ『勝海舟』だった。
「鍵を年中開けたくなっちゃったっていうことかな、NHKと衝突して北海道に来たんです。普通の人はそういうときには開けないですよね。で、忘れちゃうっていう、そこなんですよ」
脚本家の仕事は、書いて終わりではなく、演出部分にまで深く関わるべきであるというスタンスが、制作側と激しくぶつかり合ったのだ。“衝突して北海道へ”とは、とても短絡的な表現だけど、事実らしい。頭が真っ白になって、気づけば北海道にいた。
そのまま札幌で2年半。
「ホントに“無頼”というにちかい、メチャクチャな暮らしをしてたんですね。毎晩ひとりでススキノへ飲みに行って、いろんな人たちと知り合いになりました。ヤクザから、トルコの社長からホステスさんから銀行の支店長から、幅広くいろんな人と。カウンターで隣り合った人と話をするじゃないですか。そのなかですごい“受信”ができたんです。それまで東京で僕が付き合っていたのは全部業界の人間ばっかりだったと気がついたんですね。あんな利害関係のある人間としか付き合わずに、どうしてものが書けたんだろうかと、猛反省したんです」
ススキノの飲み屋での板前さんとの対話から、名作『前略 おふくろ様』が生まれた。シャンソン酒場で「アリベデルチ札幌」という曲を聴き、涙するホステスの姿を見て、「人間の気持ちをきちんとつかもう」と決意した。
「札幌には単身赴任者が多くて、ススキノの女性と付き合ったりすることも多いんですよね。それで男が栄転して東京に戻るときに歌われるのがその歌なんです。聴いてるホステスの気持ちを思うと涙が出てくるんですね。勉強させられました」
そして、富良野へ。
「札幌は都会ですけど、それでも四季がはっきりとあるんですよね。東京には四季がなかったことをそこで実感しました。それでどうせなら、一番四季がはっきりとあるところで暮らしたい、と思って北海道中探して回って、富良野に到達したんです。会社を辞めてライター生活があって、売れてきて自分の中でのバブリーな時代があり、ちやほやされてナマイキになって傲慢になって、この世界でいけると思ったときにケンカして札幌へ来て。鍵を掛けた箱のことで北海道に来たのに、ようやく鍵のことを思い出して開けてみたのは、富良野に来てひとりになってからでしたね」
4年後、『北の国から』が始まった。46歳、専業のライターになってから、おおよそ20年が立とうとしていた。
「時間は必要でしたねえ」と、絞り出すように言う。ライターとして箱の鍵を開けるにはもちろん。『富良野塾』にとっても。今年で閉塾し『富良野グループ』というプロ集団に変わる。
「技術者としようやく育ってきた連中がいるんです。昼間は農業をしてるんですが、ちゃんと地に足がついた生活をしていて、きちんとした芝居で人を感動させられるだろうと。彼らと芝居を作っていこうと思っています」
『谷は眠っていた』の登場人物たちが作り上げた『富良野塾』の建物は、閉塾後どうなるか、まだ決まっていない。「僕は原野に戻したいぐらいのつもりです。朽ちていくものを無理して維持する意味はないと思うんです。来たい、しがみつきたいっていう人間がいるならただでくれてやるけれど、意志がないのに無理して商売に転用したりするのは僕の気質ではないから。自然に戻しちゃうのが一番自然なんじゃないかなという気分ですね」

1935年、東京生まれ。東京大学在学中、シナリオライターとしてデビュー。卒業後、ニッポン放送に入社。28歳で独立。あらゆるジャンルのシナリオを手がけ、一躍売れっ子に。74年より札幌へ移住、76年より富良野に。84年、俳優とシナリオライターを目指す若者のための『富良野塾』を開塾。地元を拠点に、数々の作品を発表。『北の国から』『前略おふくろ様』『昨日、悲別で』『優しい時間』『風のガーデン』など作品多数。富良野塾は今年閉塾、富良野グループへと発展し、『谷は眠っていた』を3月10日~16日、天王洲銀河劇場にて公演。問:トゥモローハウス tel:03-5456-9155

■編集後記

札幌こそが視野を広げた時代だった。倉本さん「同窓生と会うべき」と言う。「それも小学校のときの。どっぷりと社会に浸る前の自分にトリップすることができるじゃないですか。自分の存在の座標軸が、もともと社会に出る前の自分にあるとすれば、それを振り返ることができるでしょう。鍵は開けなくても、社会に出て大人になってどういう人間になりたかったのかが見えてくると思いますね。ただ、箱にしまうべき夢を、そもそも若い人が持っているのかどうかに、少し疑問はあります」

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
photography PEY INADA

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