「自分でアクションを起こさないといけない時期かな」

田中裕二

2010.02.04 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
コンビでネタをやり続けてきたわけ

ネタ作りのやり方は昔から変わらないという。太田家に集まり、最近のニュースや流行などを書きだしたメモを見ながら、使えるかどうか仕分けし、そんななかでふとしゃべり始める。

「とりあえずつまんなくても、適当にやってみて吟味するんです。たとえば“海老蔵・真央ちゃんびっくりしましたね”“あー、エビちゃん?”“エビちゃんじゃないよ”…みたいに。そういうのを僕がバーッとメモって、使えそうなら、どういうフリで、どういうボケにしてどうツッコむかを、ちゃんとやりながら決めていくんですね」

絶やすことなくネタを作り、発表し続けているのはなぜだろう。

「爆笑問題は、素人でも出られるライブのゴングショーみたいなコーナーから始めました。そこでまずネタ見せして、それから毎月そのライブに出るためにネタ作りをやると。それから事務所に入って、テレビの仕事と並行してライブはある…というぐらいの状況ですよね。それですぐ売れかけて事務所をやめたりして、2~3年のあいだは仕事がない時期があったんですけど、そのときでもライブだけは欠かさず出てたんですね。仕事がそれしかないし、それをやめちゃうとただの一般人、という状況でしたから。そんななかで、いまのタイタンという事務所が立ち上がって。そのきっかけとなったのも、NHKの新人演芸大賞と『GAHAHAキング』。どちらもネタで勝負するものでした。いろんなことがネタから始まってきたわけですよ」

だが特別にこだわっているわけではない。10年ほど前からは、「まあやめても不思議ではない感じ」になっていたという。

「この『タイタンライブ』が大きかったですね。立派な事務所だったらべつですけど、当時うちには爆笑問題以外に出演者が2組ぐらいしかいなくて(笑)。それで僕らが出ないことは考えられなかった。で、そのままやめるきっかけがまったくなくて…強い意志を持って“俺たち、ネタはやらない主義だよ!”ってことがないかぎり、やめることがないんです。そのままきた、というのが一番わかりやすい説明かな」

ただ、とくに年末年始、TVのネタ番組に出演し、実感したと言う。

「“ネタちゃんとやってるね”“相変わらず面白いね”って言われて、それは気分がいいので。なんかちょっとカッコいいし、ネタやっててよかったなと」

停滞と再生の裏側で田中が思っていたこと

子どものころの憧れはプロ野球選手。『ザ・ベストテン』に感化され、高校生のときには久米 宏みたいなアナウンサーになりたかった。“6大学を経て局アナ”を目指すが、一浪の後、入学したのは日大藝術学部演劇学科。太田と知り合ったのもこのとき。放送学科に落ちたことで、アナウンサーへの道は消えたことを確信する。

「局アナは無理でも、深夜にラジオ番組をやれるような人になりたいなと、漠然と思ってました。僕は2年でやめちゃうんですけど、要はみんな大学で出会いを求めてたんじゃないかな。劇団が生まれたり、“先輩が映画を撮ってるから出てみるか?”とか声がかかったり。ちょい役でドラマに出てる子役あがりの俳優がいたり。僕らが入ったとき、4年に三谷幸喜さんがいたんですよね。で、まさに東京サンシャインボーイズの人気が出始めてるころで…」

ぼんやりと芸能界とつながっているような環境だった。強いモチベーションがなくても「なんとかなるだろ」という感覚は根付いていったのだ。

「なんにも考えてないっていうのが一番近いんだけど(笑)。どうにかなんねえかな、ダメだったらバイトするかっていうぐらいのキモチでしたね」

翌年、太田が中退。まあ、大学に籍があろうがなかろうが、交流はあったらしい。後輩からの頼みで、ショーパブでコントをしようとしてみたり、大学祭のステージの司会をしたり。23歳のときに、太田に誘われて爆笑問題を結成するのも、そうした小さな個人的プロジェクトのひとつ。そもそもの目的は、渡辺正行が今も主催する『ラ・ママ新人コント大会』への出演だった。

「“ずっとこれでいこう”ということではなくて。太田は太田で劇団に入って芝居をやってやめたり。俺もマキノ雅弘監督の演技塾に入ってやめたり。何をどうしていいやらっていう状況だったんです。爆笑問題はいろんなことやってるうちのひとつでしかなかった」

すぐ大手プロダクションと契約、レギュラー番組を持ち「“へー”って。成り行き上こういうことになったけれど“へー”って(笑)。“芸能人ってこんなにすぐなれるんだ?”みたいな」。

90年、25歳で事務所をやめた。仕事も目に見えて減った。

「ミニストップのバイトに復帰したのが26~27歳でしたね。俺もなんでなのかはわからないんですが、このまま終わる気がまったくしてなかった。自信というより思い込みなのかなあ。“まあなんとかなりそう”っていう感覚。全然、悲愴感はなかったですね」

先のことを考えて思い悩まず! 子どものころからそうだったらしい。

「そういう性格だったのと、あと、とにかく太田の才能には自信があった。まあ、大丈夫だろうと(笑)」

93年、NHK新人演芸大賞を受賞。それをきっかけに太田 光夫人の太田光代がタイタンを設立。翌年には『GAHAHAキング爆笑王決定戦』をストレートで10週勝ち抜き、『タモリのSUPERボキャブラ天国』に出演。この時点で、爆笑問題はすでに5年ほどのキャリアがあったが、積極的にネタバトル番組などに取り組んでいった。

今日の礎となった時期だ。

「ボキャブラは、出ることが決まってから知りました。いまだにどんな番組に出るのかを知るのは最後ですね。だって事前に知ってても、俺よりも社長なり太田なりの判断の方が信用できるので。口出しはしないようにしています。1人で出るドラマとか映画とかも、全部決まってから知ります」

少なくともオファーの段階で迷うことはない。いつも既定事項として目の前に置かれるわけだから。

「もちろん“わー、これ厳しいなあ大丈夫かなあ”っていうときもあるけど、とりあえずやってみたら、そういう仕事の方が楽しかったり評価がいいこともあって。『モンスターズ・インク』の声優なんて完全にそうですね。あれ、俺にまかされてたら、断ってます(笑)」

気づけば歌番組の司会もしていたし、ラジオの深夜放送も担当している。そんなふうにして、だいたいの夢は叶ってしまったと言う。

「僕はホントに言われるがままにやってきただけ。これじゃイカンとも思いつつ…あっ、いや、軽く思うぐらいで(笑)。僕、離婚したでしょ。太田にも映画を作る話が出てきていて、来年とか再来年とか…まだわかりませんけど、そっちにかかりっきりになるとしたら、そのときにはなんか自分でひとつぐらいアクションを起こさないといけないのかな。ようやくそんな時期に来てるかなという気がしつつありますね。きっとこの1~2年でね、なんかありますね。また直感ですけどね」

人生をノーガードで進んでいく。でも平気。それがおそらく、田中裕二の強烈な能力のひとつに違いないのだ。

1965年、東京都中野区生まれ。日本大学藝術学部演劇学科で太田 光と知り合い、88年爆笑問題を結成。ニュース、風俗、芸能、政治などをを鋭く斬る漫才で幅広い支持を得る。『爆笑問題のニッポンの教養』(NHK)、『クイズ雑学王』(テレビ朝日)、『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中』(日本テレビ)など、メイン番組多数。田中個人としてはディズニー映画『モンスターズ・インク』のマイク役や、『感染列島』『MR.BRAIN』(TBS)などの俳優業も活発。『新・三銃士』(NHK)ではナレーションを務める。第2回「田中裕二の野球部」が3月5日(金)に阿佐ヶ谷LoftAにて開催

■編集後記

再ブレイクのきっかけのひとつとなった“ボキャブラ”に出演し始めたときが29歳。ネタは田中が考えていた。主義主張としてイヤな仕事も好きな仕事もあまりない。ただ例外的にラジオは「仕事の感じがしない」くらい楽しい。23~24歳からハマリ始めた競馬の連載も楽しい。好きだった野球も、最近『田中裕二の野球部』としてライブ化。自宅でだべっていたシーズンの展望なんかを、後輩がライブハウスに持ち込んだものだけど。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
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