「脚本に書いてあることを言えばいいんです」

柄本 明

2010.05.06 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
役者は果たして生業かテーゼとアンチテーゼ

ベンガル、綾田俊樹らと劇団東京乾電池を立ち上げて、来年で35周年。自分たちのことを“アマチュア劇団”と呼んでいる。

「自分たちでホン(脚本)を見つけてきて、あるいは作って、小屋借りてお客さん呼んで…スポンサーが付くわけではなくて、そういうリスクを全部持って好きなようにやってるからですね」

そして、“アマチュア”という定義に関して、さっきの「脚本に書いてあることを言う」のと少し似た話。

「“学芸会”になればいいと思うんです。子どもたちの学芸会って、感動するでしょ。なぜかと考えると、社会というものをわれわれは生きてきて、その過程でいろいろな線引きを覚えていく。これはよい、これはそうじゃないって。それをするようになるのは当たり前のことだし、べつに悪いことじゃないんだけど…」

大人の分別みたいなものが、子どもの持つ、わけのわかんない感覚を封印してしまうのかもしれない。

「子どもの描く絵を、大人はもう描けないよね。そういうところを僕らは35年も、やってるんでしょうね(笑)」

演劇をやろうと思ったのは19歳のとき。就職した会社の先輩に連れていかれた早稲田小劇場に衝撃を受けた。“志した”というより“このまま会社員なのか?”の思いが強まり退職。

「あれになりたい、これになりたいっていうのは、だいたい“青春の誤解”なんですよ。全共闘、学生運動のころにアングラ芝居が台頭してきて、そんな芝居をたまたま観たんですよね。ガキですよね。バカだからさ(笑)、そういう世界がカッコよく見えた」

劇団を経てNHKの大道具のアルバイト。まあまあ性に合った。そのバイトで行った『自由劇場』で、主宰の串田和美に声をかけられる。25歳にして、本格的に舞台に立つのである!

「本格的も何もないですよ。お金が入るわけじゃないですし(笑)。われわれの時代には、“役者で食える”ことを気にするような風潮はなかったなあ。食うのはバイトで。芝居自体がお金を生む仕事であるとは考えていませんでした。舞台があって、そこから映像のお仕事がくるようになって、ようやく“経済”が生まれてくるという」

自由劇場の舞台に立つようになり、75年には年間8作に出演。だが「なんか違う」のだ。そして76年には自由劇場を退団。東京乾電池の結成と相成る。“笑い”を中心に据えた劇団だった。

「伝統芸能みたいな、いわゆる“旧劇”というものがあります。それに対して新劇が生まれる。さらにアングラが生まれ、そこからわれわれみたいな、お笑いが生まれる…つまり、先にあるテーゼに対して、下の人間はアンチテーゼを打ち出したいんですよね。歴史はそういうふうに流れてますよね」

“残酷な客”へのリベンジ。面白いことは自分で決める

結成からおおよそ2年で、集客は着実に伸びた。笑いをベースにした東京乾電池の舞台は、人気を不動のものにする。だが、柄本 明は「お客さんは残酷だと思った」と言うのである。

「こっちはバカが勢いでやっているのに、お客さんが過剰に面白がる。舞台に出ただけで笑うんです。“あ、これでは俺たちすぐダメになるな”と。自分たちがやっていることを自分たちで面白がれることが大切なのに、そこをお客さんにさらわれてるみたいな。観に来てくれるのはありがたいんだけど、“そんなにウケるようなことやってないのに”って…」

61歳の柄本が言うと、とても説得力がある。でも当時は30歳そこそこ。心地よくはなかったのだろうか。

「人間なんて弱いものだから、その場その場で舞い上がったりもするけど、野放図になることはなかったですね。売れようが売れまいが、それは大した問題ではないよ…って僕はそういうふうに考えたいの(笑)」

『笑っていいとも!』の前身番組である『笑ってる場合ですよ!』に出演、先に述べた映画初出演もこのころ。気持ちとは裏腹にステイタスはグングン上がっていったのだ。だが、柄本 明の劇団には、岩松 了がいた。ファッション化を危惧する柄本と同じ思いを抱き、2人は「いつかお客がシーンとするような芝居を作ろう」と決意する。86年、本多劇場で上演された『お茶と説教』という作品がそれ。きわめて“静かな演劇”であった。

「お客さんがだんだん、潮が引いてくみたいに、ヒュ~ッと引いていくんですね(笑)。初日、シーンとしてくるんですよ。でも見てる人は見てるよね。お客は減るけど、こっちは本当に面白いことができた。岩松 了は天才ですよね。そんなことができたのも、いわゆる商業舞台じゃないから。アマチュア劇団だから。やっぱり自分たちで面白いって思うことがベースですよね。もちろん売れた方がいいし、たくさんお客さんにも来てもらいたい。だけど、“これをやることでお客が来る”なんてのはわからない」

かつて、役者の仕事はお金を生み出すものではなかった。こだわりもしなかった。今も変わらないのだろうか。「…今は考えてるけど(笑)生活しなくちゃいけないんだから。この仕事がなけりゃほかの仕事をするでしょうし。しょうがないよね、だって神様がそんなふうに作ったんだもん。メシ食わないと死んじゃうっていうふうにね」

と、デスクの上に置かれたR25を手に取る。ロング・インタビューは志村けん。そうそう、柄本 明は『バカ殿』で共演しているのだ。

「志村けんさんの、スポーツ紙のインタビュー記事を読んだんですよ。“もしこのお仕事をやっていなかったら何をしていたと思いますか?”っていう質問に、志村さん、なんて答えたと思います? “そんな根性でやってません”。これには僕は驚がくしましたね。ホントに…冷や汗が出てきました」

だが、柄本 明もほかのナニカではなく、俳優を続けているのだ。

「今はテーゼのない時代だから、アンチテーゼが生まれ得ない。われわれが生きていくには、つねに何かに対する批評が必要だから、むずかしいよね…。でも、こと演劇に関しては、やってないホンがいくらでもある。新しくなくったっていっぱいある。僕の劇団はどうせアマチュア演劇なんだもの(笑)。好きでできるんだもの。ただお客さんは…来ないねえ(笑)。毎月、新宿のゴールデン街劇場っていうところで芝居やってんですけどねえ。まあでも、来ないよね…来なきゃ来ないでべつにいいんだけどね」

1948年東京都生まれ。高校卒業後、就職した会社を辞め、19歳のとき金子信雄主宰の劇団『マールイ』に参加。25歳のとき『自由劇場』に参加。俳優としてデビュー。『マクベス12』をはじめ多くの舞台を経験。76年に退団、『劇団東京乾電池』を結成する。たちまちブレイク、TVバラエティー『笑ってる場合ですよ!』で全国的認知度を得る。映画は79年の『気分を出してもう一度』で初出演。98年には『カンゾー先生』で報知映画賞最優秀主演男優賞や日本アカデミー賞最優秀主演男優賞などを受賞。公開待機作に仲代達矢主演の『春との旅』など。デビュー作のときの助監督を務めたのが滝田洋二郎。彼の監督作『おくりびと』の舞台版に出演する。 www.okuribito.jp/

■編集後記

19歳で仕事を辞めて入った劇団には、後輩に松田優作と本田博太郎がいた。25歳のとき、自由劇場で声をかけられて行った稽古先は麻布アクターズジム。ベンガル、岩松了、綾田俊樹、高田純次、イッセー尾形らが、一緒に稽古をしていたのだ。当時、柄本 明の耳にやたら入ってきたのが「佐藤B作」という名前。自由劇場を脱退し、『東京ヴォードビルショー』の舞台に立っていた佐藤の姿を見て、驚がく。ここで笑いをエネルギーにした演劇に目覚めるのである。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA

稲田 平=写真
photography PEY INADA

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