「役になりきるなんて、あり得ないことです」

仲代達矢

2010.05.20 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
役を作り上げるのは、自らの中にあるもの

『春との旅』という映画で、老漁師の忠男を演じた。かつて北海道に莫大な富をもたらしたニシンの群来を夢見続けた男だ。孫娘の春に頼りきった2人暮らしの生活。だが春は失業し、東京での一人暮らしを望む。忠男は自らの受け入れ先を求めて、宮城県内に散らばったきょうだいたちの家を巡る旅に出る。おじいちゃんと孫娘のヒューマンドラマである…おじいちゃんを、“捨てる”ための。先々で忠男はきょうだいと衝突する。春にもわがまま言い放題。自己中心的で頑固で、だが、ときどきチャーミングなのだ。わがままさが無邪気に見える。なんでもない会話で、春とも心を通わせる。“一見頑固でどうしようもないが、実はかわいい”。そういうキャラクターに思えてくる。だが…。

「画面ではセリフを言ったり動いたりしていますが、基本的には“沈黙”が大事だと思うんですね。観てわかる部分はその役の、氷山の一角。人間は多面性を持っています。場所や状況に応じて、人のキャラクターなんて変わるものです。泣いたり笑ったりわめいたりしながら生きていく。そこをなんとか一本化するものですが、忠男はまったく一本化しきれないような人間だったんです。私はシナリオを読ませていただいて、そこが面白くて飛びついたんですね」

シナリオを読んだのは3年前。いままさにやりたい役だと感じた。

「若いころには、70過ぎの老人って、すべてを悟りきって丸く穏やかになってると思っていたんですが、自分がその年代になってみると、ちっとも枯れていない(笑)。忠男のあり方が不思議じゃないんです。逆に20代30代の青春の時代の方がよっぽど窮屈。こと俳優に関してですけど、“もっと売れなければ”とか“いい作品に出会わなければ”とか、制約がいっぱいあるんです。それが50過ぎ60過ぎると…“あきらめる”ようになるんです。“あきらめる”という言葉は、仏教用語では“明らかにする”というような意味だそうです。その意欲は、意外に老いてからの方があるんじゃないですかね。少なくとも僕は、そういう面ではまだ自分が意地汚いと思っています(笑)」

77歳。キャリアはおおよそ60年。160本以上の映画に出演し、舞台に立ち続ける名優。主宰する『無名塾』では、次世代の俳優を育成する。だが仲代さん、とてつもなく謙虚だ。俳優としての作法や考え方を語る場合、必ず「僕の場合は」と断りを入れる。俳優の世界を代表したような物言いをしない。それどころか「忠男という役を、自分が演じることができた理由」を自らに問うたりする。

「僕の母親がこのタイプの人でした(笑)。僕は7歳のときに親父を亡くしました。親父は42歳でした。戦争中に母1人子ども4人で、どうやって生きていくのか…でも母はまったく動ぜず。唯一子どもの健康だけを気にしてました。若死にした親父のことがあるので、僕らを絶対病気にすまいと。ちょっと勉強をすると『体に悪い』って叱られるし、僕は押し入れに隠れて勉強していました。少しでも成績が上がったら『病気になったらどうする』と通信簿を破くんです(笑)」

俳優になることを伝えたら、大喜びして「ギャラを全部ちょうだい」と宣い、舞台上の仲代さんを指し「うちの息子、男前でしょ」と周囲の観客にアピールした…そんな母上の血が、今回の演技に関わっているのではないかと、分析する。なるほど、“なりきる”のではなく、そこには仲代達矢が息づいている。

ごく普通の将来を夢見て、夢破れ、俳優に

子ども4人の母子家庭。ずっとずっと貧しかったという。高校は夜間部、ごはんを1食に減らしてまで劇場に足を運ぶほどの映画好きだったが、将来の夢はサラリーマン。

「非常におとなしい子だったので、俳優なんて全然! サラリーマンになって、子どもを3人作って、全員大学を出して定年退職する…そういう生活が夢だったんです。でも僕の学歴では正社員になれなかった。それで大井競馬場でアルバイトをしていたら、仲間が“仲代は顔がいいから、役者になったらどうだ”って(笑)。でもなり方がわからないんです」

海外の、とくにヨーロッパの俳優は、大学の演劇科出身などアカデミックな教育を受けた者がほとんどだったのだ。それは無理。ではオーディションは? 当時、各映画会社が専属のスターの発掘に躍起になっていたのだが、“いきなり華やかなスターはおれの性ではないな”とアクションを起こさなかった。そうしてぼんやりと月日が流れたある日。

「俳優座という新劇団が養成所をやるというポスターが、劇場の表に出ていたんです。“これでアカデミックな演技の教育を受けられる!”と思って、そこでようやく自分と俳優の道とが結びついたんです」

5倍の競争率を勝ち抜き、合格。

「3年間、パチンコ屋さんに住み込みながら辛うじて通いきりました。その後、これはきっと神様が僕に“20歳までに”与えた苦難なんだろうな、と思いました。子どものころも、10代も、想像もつかないような貧乏をしたもんですからね(笑)。でもそれ以降、俳優としては、運にも恵まれて順調に来られました」

養成所からは2人が劇団に残り、すぐにイプセンの『幽霊』という舞台で初主演を果たすのである。

「俳優になろうと本気で思ったあたりが最初の転機でしたね」

『幽霊』に主演したことで、新しい転機への歯車は動き始めていた。この舞台を見た女優の月丘夢路が夫の映画監督・井上梅次に声をかけ、映画デビューへつながるのだ。養成所在籍時代に、黒澤 明の『七人の侍』にセリフなしの役で出演しているが、今度は準主役。映画『火の鳥』だ。

「ちょうどそのころ、映画会社が新人を探しにあちこちの新劇団を回っていました。当時は“面通し”って呼んでましたが、オーディション。実は9回ぐらい落ちてました(笑)」

映画会社は日活。その後、一軒家の新築を条件に専属を打診される。契約すると他社の作品には出られないルールだ。ちなみに同期は石原裕次郎。スターへの道が開く瞬間…。

「家を蹴っ飛ばしちゃいました(笑)。ちょうどそのころ結婚したんですが、“好きなようにしなさい”って言ってくれたのを幸いに(笑)」

これもまた、ひとつの転機。もう安定は求めていなかった。

「そこは進化したんでしょうね。まだ僕には力が足りないと思っていたし、専属になると、ある映画がヒットすると同じような役が続けてくることになるでしょう。イメージを定着させた方が、スターになりやすいから。スターになると、今度はイメージを壊せないので、いろいろな役ができなくなりますよね」

背中を押した奥さまは、女優でシナリオライターで演出家の宮崎恭子。若い俳優たちを指導する『無名塾』を主宰したパートナーであった。

「一緒に同じ物作りをしてきた女房を、14年前にガンで亡くしました。これも転機だったですね。僕には、忠男さんみたいに意気地のないところがありまして。1人ではどうしたってやっていけないなという状況に陥ったんです。でも周りが助けてくれて、なんとか今までやっております」

最近、出演作をときどきDVDで観るという。

「俳優のタイプって、大きく2つに分けられますね。ひとつの役柄をズーッと深めていくタイプ。そして、いろんな役をどんどんやっていきたいタイプ。ぼくは後者を願い、生きてきました。ホント、ずいぶん違う役をやってきたなあと思います。全然違う状況を与えられて、正義漢から悪漢から…思ったよりいろんなことをやってきたなと。シナリオをいただく、今回ならば忠男という役と仲代との間の共通点を探し、シナリオを読んだときに“あ、こういう画が観たい”と思う。そうして役を自分のものにしてきた…といっても、こんな年になっても、まだよく自分でわからないんですけどね(笑)」

1932年、東京生まれ。52年、俳優座養成所に入所。55年に劇団員となり、舞台『幽霊』でデビュー。56年には映画『火の鳥』で準主役に抜擢。59年、映画『人間の條件』で主演。同じ小林小林正樹監督作『黒い河』『切腹』などにも出演。また『用心棒』『椿三十郎』『影武者』『乱』など、黒澤明監督作品にも多数出演。75年には俳優を育成する『無名塾』を宮崎恭子と主宰。同じ年、舞台『令嬢ジュリー』『どん底』で芸術選文部大臣賞、毎日芸術賞を受賞。フランス芸術文化勲章シュバリエ、紫綬褒章、文化功労者など受章歴多数。5月29日公開『座頭市』にも出演している。『春との旅』は5月22日(土)より新宿バルト9、丸の内TOEI(2)ほか全国ロードショー。公式ウェブサイトはhttp://haru-tabi.com/

■編集後記

19歳で俳優座の試験を受けたとき…。「朗読は読めない、ひざは震える、スタニスラフスキーとは? 何もわかりません(笑)。落ちたなと思って、結果発表を見に行かなかったら二次試験の知らせが来ました。これまたうまくいかなくて。でも合格したんです。あとで話を聞いたら“下手でもなんでもデカイのを採ること!”っていうのがその年の方針だったんですって(笑)。それが幸いして…今も俳優の世界にいるわけです(笑)」。身長は178cmだ。

武田篤典(steam)=文
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