「山あり谷あり」

小錦八十吉

2010.06.17 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
ひたすら上を目指して、それが閉ざされるとき

「だって僕の育ったハワイはみんな大らかだもん。周りの人たちがみんなかかわり合って生活していて、近所の子どもなんか普通に叱ったしね。親とかおじいさんおばあさんのことは尊敬していた。日本がちょっとシャイなんだよ」

言われてみればなるほど。人間関係はそもそもこんなふうだったのだ。

5歳から聖歌隊で歌い、中学でサックスを習う。次いでトランペットやトロンボーン、ドラムを独学でマスター。

「音楽は大好きだったよ。僕は10人兄弟の下から2人目だったから、子どものころから兄貴たちの影響で、ファンク系の曲はよく聴いたね。ファンカデリックとかジョージ・クリントン…『ドスコイ・ダンシング』も、そういう意味ではとっても好きなジャンルの曲」

ハワイにいたころの夢はミュージシャンか法律家。だが、相撲の方が彼を選んだ。ハワイ出身の力士・高見山が、帰郷中にサリーを“発見”したのだ。

「相撲のことは全然知らなかった。でもこれだけはわかった…“稽古することが僕の仕事なんだ!”って。稽古すれば強くなって番付が上がって給料も上がる。するとハワイの家族を助けられる。こんなシンプルな仕組みはないと思った。そしてやっていくうちにだんだん相撲が好きになっていった」

1982年七月場所で初土俵。順調に番付を上げた。2年後の九月場所では、前頭6枚目で横綱・千代の富士、隆の里から金星を上げ、十一月場所では関脇に昇進。300kg近い巨体が醸し出す風格と、強烈にプッシュしまくる相撲は、それまでにないものだった。

実はこのころ、「ドスコイ・ダンシング」が発売される予定だったらしい。

「レコーディングをして、たしかミキシングまでいってたのかな。そこでなぜか“出してはいけない”と言われた。“ワーオ! 自分の声でCDが出せるんだ!”っていう喜びはあったけど、当時は協会に“ダメ”と言われれば“ダメ”だったからね(笑)」

87年五月場所後には、外国出身力士として初の大関となる。2年目に骨折したヒザや4年目に痛めた肩とつきあいつつ、89年十一月場所で幕内初優勝。横綱を射程圏内に置いた。そして、91 年十一月場所:13勝2敗(優勝)、92年一月場所:12勝3敗、三月場所:13勝2敗(優勝)という成績を挙げる。これに劣る戦績で横綱になった力士もいた。だが小錦は、なれなかった。

「周りが決めることなんですよ。僕がナンボがんばっても向こうがダメだと言えばダメだし、それに対して僕が何かを言える立場ではないことは理解してたけど、つらかった…」

「横綱昇進できないのは人種差別のせいである」という記事が出て、激しいバッシングを受けた。

「大きな問題になって僕は対応できなくなった。ハワイのお母さんに電話して“僕、自殺する”って言ったぐらい。でも、ハワイのみんなに弱いところを見せたくないから、国に帰ることもできなくて…。やめることも考えられなかった。それまでの十何年を何のためにがんばったんだっていう、すごく複雑な気持ちだったね」

稽古して強くなって勝ち続けると番付が上がって給料も上がる。とてもシンプルな仕組みだったはずなのに、単純に勝ち星が足りないのか、あるいはどれだけ強くなっても強さこそ全て、ではないのか…。

「気持ちを戻すのに時間がかかったよ。考えをちょっと変えようと思った。できるだけ長く相撲を取れるようにがんばろうって。これがままならないんだね。だって私のなかの半分は依然として上に行きたがっていたから。それをなだめるのに3場所か4場所かかったね。大関からも陥落して、ようやく“気楽に行こう、納得できるまで相撲を取り続けよう”って切り替えることができた。最後の3~4年は、とにかく幕内にどれだけ留まれるかを考えてた」

現役を退くのは97年、33歳のとき。

自分で全部責任を負える!やりたいことを次々と

「何をやるかは決めてなかった。でもやめた途端にCMの仕事が来たの。現役のころはCMとかダメって言われてたんだけど、引退したら“どうぞ”だって(笑)。それで軽い気持ちで受けたらだんだん仕事が入ってきた。そのときですね、“相撲界に残るかどうか”って考え始めたの。現役のころは、言ってみれば僕は社員で、社長の言うことを『ハイ!』って聞いてきたけど、親方になると株主みたいなものなんだよね。となると僕は文句ばっかり言ってケンカになるだろうって思ったの。“そうか、これから自分でやることは自分で決められるんだ”ってわかった瞬間に、相撲界を離れることを決めた。やめてみて初めて、自分が自分らしく立てることに気づいたんだ。がんばって何でもやってみて、ダメだったら自分の責任。成功したら自分の報酬になる」

小錦は97年から基金を立ち上げ、ハワイの子どもたちを日本に招待している。ハワイ以外の世界を見せることで、子どもたちの視野を広げたいという思いから。ハワイに豪邸を建てたのも同様。「がんばれば、ここまでいけるかも」という夢を子どもたちに与えたいから。

「でも、なんかもうとりあえずほしいものもないから満足っていう考え方はコワイね。ものじゃなくて、考え方。人を助けること。親に何かをしてあげること。寄付したり何かを贈ったりすること。僕だって、一日も早く親にいい暮らしをさせてあげたいと思ったから、なんにも知らない日本でがんばることができた。人間は、ずっとずっと周りにあわせて成長していくんだ」

小錦は変わり続けている。

たとえば、カラダ。体重は一時300kgを超え、命にかかわると言われた。胃の縮小手術と、余った皮膚の切除でおおよそ半分にまで減った。

「普通のイスに座れるし、立って歌えるようになったし。今日の撮影場所だって、前のカラダなら行ってない(笑)。歩けなかったもん。よかったら『ありがとう千絵』読んでみてください(笑)」

その壮絶な減量の過程は、本1冊分語ることがある。というか本になっている。千絵さん、とは奥さまの名。

「この27年の間でつらいことやケガを乗り越えることで強くなってこられた、と僕は思ってる。僕は精神的に強いという自負がある。何でもガマンできた。でもそれは今プラスにはならないね。僕がガマンするのを見越して、最近は奥さんが勝手に病院予約してる(笑)」

彼女との生活も、人生の大きな転換点。しかもさらに新しいポイントも…。

「うん、そろそろ子どもがほしいね。あのカラダのときは、育てるのに不安があったけれど、今なら大丈夫! いつでもおっぱいあげられる(笑)」

そして「『ドスコイ・ダンシング』という曲で生まれ変わりたい」という。そう、この曲から“小錦八十吉”として芸能活動を展開していくのだ。

人生は山あり谷あり。涙をこらえてくじけずいけば、夜明けはくる。そんなふうに『ドスコイ・ダンシング』は歌う、シンプルだ。が、この25年で、小錦には、よりリアルな歌となった。

「ホント、僕の人生そのもの。こうやっていいことも悪いことも踏まえて、生まれ変わりたいね…でも1年後に、展望を聞かれたらたぶん変わってる。きっと次の目標が生まれてると思う」

1963年、ハワイ州ナナクリ生まれ。82年、高砂部屋入門。最高位:大関・幕内成績:649勝・大関在位:39場所。97年に引退後、タレント、ミュージシャンとして活躍。都民文化栄誉賞やベストジーニストにも輝く。KONISHIKIとして、本格的ハワイアンのアルバムを多数リリース。7月7日にはベストアルバムも発売予定。25年越しの新曲「ドスコイ・ダンシング」はすぎもとまさとによる楽曲にして“小錦八十吉”としての活動の狼煙でもある。オフィシャルブログはhttp://ameblo.jp/konishiki-power/

■編集後記

力士になって2年目に肩を痛めた。減量で初めてMRIに入ることができた。すると腱が断裂していたことが判明。20年以上も放置されていたのだ。4年目にはヒザを骨折。痛風に糖尿も併発していた。「肩はね、今も寝転ぶと痛い。目玉のなかも2回ぐらい切れてるし、歯もボロボロ。細かくくだけた破片が歯ぐきの中に入ってるんだね」。力士とはかくも過酷な職業なのだ。「じっくりメンテナンスしながらやってくよ」

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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