「作品は時代のポラロイド」

リュック・ベッソン

2010.07.01 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
暗い時代だからこそ明るく軽い活劇を

今回ベッソンが撮ったのは『アデル/ファラオと復活の秘薬』という作品。主人公のアデルは女性ジャーナリストだ。不思議な現象と秘宝を追いかけて世界を旅し、冒険をまとめた本はベストセラー! アグレッシブで自分勝手で思いこみが激しくヘビースモーカーで笑いのセンスに長けていて…総合すると、ものすごくサバサバした女友だちみたいなキャラ。しかもガタイがよくて美人。そんな彼女がある目的のために、エジプト・王家の谷からミイラを持ち帰り、なぜか甦った翼竜が飛び回る20世紀初頭のパリで大冒険。原作はフランスの有名なコミックだ。

「原作者のタルディは時代考証も綿密で、1911年のパリがしっかり描かれているし、当時にして非常に賢明で野心的な女性を主人公に設定して、政治的な要素も作品に入れ込んでいる」

実際のコミックは、ちょっと『タンタン』似な感じである。

「いやいやタンタンとは全然違う違う。あれは完全に子ども向けだもの(笑)。アデルはもちろん、いつも彼女の邪魔をするマッドサイエンティストのデュールヴー、動けばつねにコメディ的状況が生まれてしまうカポニ警部など、この作品の登場人物が大好きだった。でも若いころには映画化なんて考えてもいなかったよ」

初めて読んだのは30年以上前、映画化を思い立ったのは10年ほど前。精力的に映画を作り始めたころだった。当時手がけていたのが『TAXi2』(00)。その3年後には『TAXi3』(03)を公開。この2作の間に『WASABI』『YAMAKASI』『キス・オブ・ザ・ドラゴン』『トランスポーター』『ミシェル・ヴァイヨン』を、その後にも『アルティメット』『リボルバー』『ダニー・ザ・ドッグ』『トランスポーター2』、同じく『3』、『TAXi4』『96時間』…。

すべてプロデュース作品だ。同様に、アデルも当初は脚本のみ書いて「誰かにあげるつもりだった」と言う。

「でもどうやら入れ込み過ぎてしまったんだね。そうなると人にあげるのが惜しくなる(笑)。『アデル』にはユーモアとか冒険とかいろいろな要素が入っているけど、もともとそれらは “細い線”でしかなかった。仮に誰かにこのまま渡したら、そこはぼんやりしたままだったろう。自分の“感性を入れる”ことで太い線を描き出すことができたと思う。もちろん逆の場合もあって、たとえば『96時間』。あれはピエール・モレル監督がやったからあそこまでうまくいったんじゃないかな」

元CIA工作員が誘拐された娘を助けるためパリを縦横無尽。様々なアクションで無敵ぶりでを見せつけるサービス満点な作品である。右に並んだ作品たちをよく見てみると、いずれもスピードと稚気とアクションとドタバタにあふれた“ベッソン印”。しかも『アデル』は他人に譲ることなく“オレの感性”で撮り上げた一作なのだ!

「この何年か、経済危機だったり不況だったり…暗いニュースしか聞こえてこない。そんなときに暗い映画を作りたくないし、観たいとも思わないでしょ? だから僕は明るく楽しい映画を作りたい。まるっきり明るくなくても、映画を作るときの“つまみ”をちょっと軽く明るい方向に変えて。といっても目盛りを真逆にするわけじゃないよ。真っ暗で重厚なドラマをピンク色の娯楽にしたわけではないからね」

経験を積んで得た基本。知らずに超えていた一線

59年、パリに生まれ、ダイビングインストラクターの両親の元、7歳から海に潜り始めた。両親と同じ道を志すが、17歳のとき潜水中に事故に遭い、二度と潜れなくなってしまう。映画に進むのはここからだ。この年初めての脚本を書き、18歳のとき仲間たちと別の作品を撮る。様々な映画を貪るように観て、スタジオで撮影を見学し、現場に潜り込んで仕事をするようになった。並行して脚本を書き、80年にはあるミュージシャンのビデオクリップ(といっても16mmフィルムだけど)を演出。助監督として経験を積みつつ、81年にはエリック・セラ、ジャン・レノとともに12分の短編『最後から2番目の男』を監督。この作品をベースにした『最後の戦い』で、83年度アヴォリアッツ国際ファンタスティック映画祭で審査員特別賞と批評家賞を受賞。

このとき24歳。芸術性と斬新な視点を持ったSF作品を紡ぎ出すベッソンは、フランス映画界の寵児となった。

「でも…制作でも現場でもいろんなトラブルに見舞われたよ。若くて経験の浅いときには、それらに対処するのに8割ぐらいの時間を注がねばならなかった。でも今は多くを簡単に解決することができる。8割ぐらいの時間を俳優の演技の精度を高めたり演出に使ったりできるようになったね。でも“楽しい”とかではなく、本来、映画作りってこうあってしかるべきなんだよ。今にしてようやく映画作りの基本に近づいてきている気がするね」

キャリアの最初から独立独歩。誰かに頼るどころか、自らのプロダクションで作品をコントロールしてきた。そして“自分の感性を入れたい”作品だけをわがままに撮ってきた。

『グラン・ブルー』(88)では、よく知っていたけれど失われた少年時代の夢を取り上げた。『ニキータ』(90)や『レオン』(94)については「当時のフランスは、ブルジョワや保守層が力を持っていた社会だったんだ。30歳ぐらいの若者の僕としては、そんな社会に蹴りを入れたいような気分でいっぱいだった。そうして暴力的な、だけども美しく悲しいキャラクターを描いた」。さらに海をあきらめたころに書いた初めての脚本は、その後『フィフス・エレメント』(97)となる。

「まだ、全然“達していない”感じだったね。観返すことはほとんどないなあ…たまにテレビの再放送で目に入るぐらい(笑)。でももちろん嫌いじゃない。どの映画にも、そのときの自分の精神状態や描きたいテーマがちゃんと入っているから。作品は時代のポラロイドみたいなもの。観ると当時の自分の気持ちがわかる。もちろん今、同じような映画を作れと言われても作ることはできないし、“今ならこうするのに”って後悔することもない。誰にだって長髪でベルボトムのジーンズをはいていた過去はあるはず。でも、その自分を否定しはしないでしょ? あのころは、それでよかったんだから」

“達した”時期を尋ねると、即答。99年、『ジャンヌ・ダルク』のとき。

「なぜかはわからない。あのとき僕はボールを持ったサッカー選手のメッシのような感覚になれた。何も恐いものがなくて、何でもできる気分。エキストラが2000人いて、カメラが12~13台あって“明日はダスティン・ホフマンが撮影に来るぞ!”…緊張なんかしない。もちろんうれしいし興奮もしているんだけど、何の不安もなくて、どこか一線を越えたような感覚。現場も、作品全体も“自分のもの”になっているんだと感じることができた。あのとき初めて、映画を作るとはどういうことなのかを理解したんだと思う」

ジャンヌだけでなく、リュックにも神の啓示があったのか、積んできた経験が見せた高みだったのか…。

が、はっきりさせておかねばならないことがひとつ。数年前、彼は確か引退宣言をしていたはずだ。

「撤回!(笑) でも、自分が表現したいことがなくなってたのは事実だった。みんなに対して正直でいたいと思ってるから、当時の素直な気持ちを言ったんだ。映画の世界に入ってちょうど30年ぐらいで、やりたいことはひとまずやりつくしていた。現場に行っても全然興奮しなかったし。そういうサイクルだったのかもしれない。奥さんもそんな感じじゃない? ずっと一緒にいて慣れてくると、“2週間ぐらいどっかに行ってくれないかなあ”って思う。そうすると帰ってきたときに“ああ、よく帰ってきた! うれしい!”みたいな気持ちになるでしょ(笑)。それで、今回の『アデル』の現場はずーっとずーっと楽しかったよ!」

1959年3月18日、フランス/パリ生まれ。17歳で高校を中退後、映画の世界へ。助監督などを経て映画製作会社を設立。83年に発表した『最後の戦い』がアヴォリアッツ国際ファンタスティック映画祭で審査員特別賞と批評家賞を受賞。88年の『グラン・ブルー』で映画ファンの注目を浴びる。『ニキータ』『レオン』などで世界的監督としての名声を得る一方で、プロデューサーとしても多岐にわたるジャンルの作品を制作。01年には映画制作会社「ヨーロッパ・コープ」を設立。若手監督や俳優の育成にも努める。最新作『アデル/ファラオと復活の秘薬』は5年ぶりの実写映画。公式サイトはhttp://adele.asmik-ace.co.jp

■編集後記

『ニキータ』を監督したのは30歳のころ。以前は、この作品がブレイクスルーポイントであるという旨の発言をしていた。それを尋ねたところ……「むーそんなこと言ってたのかなあ、もう20年も前の話だからなあ」と笑うのであった。『ニキータ』で“掃除屋”を演じたジャン・レノが「掃除屋主演の映画を!」とオーダーして生まれたのが『レオン』。ベッソンいわく「不況が終わってまた社会が明るくなれば、みんなをノックアウトするような作品を撮るよ」だとか。

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