「僕にどんな使命が課せられたのか」

春風亭小朝

2010.07.15 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
自分のなすべきことをいつもそのつど考えて

「前座」は、師匠の家の雑用や身の回りの世話をし、寄席での様々な仕事をする身分。インターンみたいなものだ。そして「二ツ目」、「真打」に昇進すれば、押しも押されもせぬ師匠。 

幼いころから寄席に通い、中学時代には百二十席をマスター。『しろうと寄席』というテレビ番組でチャンピオン。スーパールーキーだった。だが、自由放任主義の師匠の下でも天狗にはならなかった。そのつど考えてきたからだ。

なにかを見たり指摘されたり感じたりしたとき、立ち止まる。どういう意味があるのか、なぜそういわれたか、感じた自分がどうするのが正しいのか。

お客として聴いていたときには「下手だ」と思っていたある落語家を、入門後に聴くと「実はうまい」とわかったとき…。プロフェッショナルとアマチュアの間には容易に越えられない大きな壁があることに気づいた。

芸には非常に厳しい柳朝師匠が、知り合いの芸人に「小朝くんってうまいね」と問われ「…うまいよ」とさりげなく返すのを聞いたとき…。「僕はこの道でやっていける」と確信し、自らにプロ意識を課したりする。

「だってプロの噺家で大先輩である師匠が“うまいよ”っていう言葉を使うには、それなりの重みがあるんですよ」

(休みがちだった)寄席の仕事も…。

「みなさんギリギリに来て仕事をするわけです。僕は行くとなると、3時間前。高座から誰もいない客席にしゃべって、1人で太鼓の稽古して、座布団敷いてお茶の準備して。自分用にお茶をいれて、ゆっくりと根多帳を見る。その寄席に出た噺家がこれまでやった演目が全部書かれているんです。それをじっくり調べて…そんな空気の吸い方が他の人とは違ったと思います。こういうところにこだわりがないと、根っこを下ろしていないと、ダメじゃないかな」

話が達者で目端が利いてルックスもよくて、前座時代は出演依頼の電話が引きも切らず。21歳で二ツ目に昇進したとき、レギュラー1本を残して電話はピタリと止まった。理由を考えた。

二ツ目になるとギャラは上がる。昇進まではいわば前座のトップの方、でも昇進後は二ツ目のペーペー。同じ“二ツ目料金”を払うならば、呼ぶ方だって“ベテランの二ツ目”の方が得だ…。

「二ツ目さんの先輩たちと闘っていかなきゃいけないわけですよ。となると、その中で“こいつを使いたい”と思ってもらわなきゃいけない。そこに気がついて、とりあえずの空白期間には、これまでできなかったことをやろうと。それで昔の名人上手のレコードとか、浪曲や講談などのレコードを聴きまくりました」

普通は二ツ目になると、知り合いの師匠の独演会や寄席に行って、声をかけてもらって仕事を得るものらしい。

「それがいやだったんです。カッコ悪くて(笑)。行けば仕事はあるんでしょうけど、行かなかった。ずっと家にいて最後には危なくなってね、自分で寄席へ電話して楽屋の“音”を聞かせてもらってました。ザワザワいうのを聞いて“ああ末廣亭だ~”って(笑)。真っ暗な海に船を漕ぎ出したようでした」

そうしてまた考えた。5カ月が過ぎ、切羽詰まってある答えに到達した。

「さすがになんとかしなきゃということになって…初の独演会を企画するんです。次の年の3月から2カ月に1度。開いてみたら超満員でした。会場の『本牧亭』の前に行列ができるんです。横のところには『鈴本』って寄席があって、そこに行く噺家たちはウワサするんですね。“なにこの行列?”“小朝が独演会やるんだって”って。それが2カ月にいっぺんだからだんだん楽屋の話題になるんです。“なんで小朝にこんな入るの?”“すごいねえ”って」

客席に配ったアンケートを回収してみると(このあたりも十分に“らしい”) “前座から注目してました”“あなたが二ツ目になるのを待ってました”。

「ありがたかったですねえ。ここで“行ける!”って感じになりました」

独演会の盛況をきっかけに、仕事も安泰。自分のあり方だけを考えていた、おそらく最後の瞬間だった。

真打に昇進するのは、この4年後。

落語界を憂い、変える。変わらぬよう努力する

1980年、ちょうど25歳のとき。先輩を36人抜いて真打昇進。ぼう然としたが、やはりこのときも考えた。

なぜ先輩たちを36人も抜いて、自分は真打に抜擢されたのか。

「僕にはやるべきことがあるはずだと。理事会で(立川)談志師匠や(三遊亭)圓楽師匠が“小朝を真打にしてはどうか”と提案してくれた。最終的に断を下すのが(柳家)小さん師匠です。小さん師匠がノーと言えばノー、でも師匠はゴーを出した。と同時に、つまりは責任を背負ったわけです。36人を抜く、ということは、落語協会が“こういう新商品を私たちは送り出しますがいかがですか”と世に問うことになるんだよなあ…と。僕としては、喜ぶよりもなによりも考えますよね、僕にどんな使命が課せられたのか」

新しい客層を開拓し、従来にない人々を寄席に連れてくること。ただしそこで心がけたのは、「あくまでもきちんと軸足を落語に置くこと」。決まりつつあった様々な仕事を整理するのがつらかった。だが、そこで、この後の活動する姿勢が決まったという。

「僕たちは“待たれている仕事”です。僕には妄想癖があるので、独演会のチケットを買ってくれた人の生活を、無人のホールの客席でアレコレ考えつつ、幸せだなあって思ったりして」 

前座の楽屋仕事のときとおんなじだ。違うのは、背負っているのが自分のキャリアだけではないという点。楽しみながら、自らのレベルアップがすなわち落語界の利益だと信じて独創的な興行を数多く成功させてきた。

『苦悩する落語』で、落語界の現状を世に問うたのは00年のことだった。

「一般の人に、というよりは関係者に警鐘を鳴らしたかったんです。考えないとまずいぞ、と。当時、落語界のことが話題になるのは誰かの病気か死亡の記事ぐらい。楽屋でも芸の話にならない。自分の憧れていた世界がどんどん下向きになっていた」

落語界の今を、落語界の人たちに自覚させる必要があったというのだ。

「僕の前の世代では、立川談志という師匠が落語界に風穴を開けました。今なら僕だろうと。上に重しがあって下が動けない状況だったので、コツコツコツコツ穴を開けていって風通しをよくする努力をしました。寄席のプログラムを工夫したり、地味で目立たないこともコツコツ。最初は全部“小朝だから許される”っていわれてたんですけど、徐々に若手が“僕らもやっていいんだ”ってなった。プロデュースの仕方さえ間違えなければお客は入るということを示したんです」

停滞する落語界に風穴を開け、03年には笑福亭鶴瓶、林家正蔵、春風亭昇太、立川志の輔、柳家花緑らと『六人の会』を結成。東西の壁も所属団体の壁も越えて、盛んに交流が行われるようになった。落語界の内部が変わり始め、世間的にも落語は認められている。

「でもね、僕が子どものころ客席から観ていて“いいなあ”と思った落語はなくなってしまいました。一口目は薄いんだけど、全部飲み終わったときにピターッと“ああおいしい”って思えるお椀みたいな落語…。今は一口目から味が際立たないといけない。タバスコやマヨネーズみたいな味。それは落語の味ではないんです。お芝居の味。あっちは音楽も照明も人数も使ってタバスコとマヨネーズなんだから、勝てっこないよね。時代に応じてタバスコやマヨネーズを使うのはいいんだけど、ちょっとだけ。いくらお客さんが好むからといって振り回されちゃダメですよ」

春風亭小朝は、25歳から落語界のネガティブな現状にアクションを起こしてきた。今、なにを目指すのだろうか。「昔とは逆の使命かもしれませんね。落語の根底、細かい部分、微妙な表現。マヨネーズかけちゃえばいいんだ! って思う流れに歯止めをかけたいですね。僕個人はね…ちょっといい状態(笑)。すべてが自由で面白い。落語に関しては深い部分を模索しているので大変ですけど、実はこれまで大昔の名人上手の何人かだけがクリアできた壁、僕の上にいる先輩たちも越えられなかった壁っていうのがあるんですが…その道筋が、遠いですけど“あ、アレだ!”っていう感じに見えてるんです」

1955年東京生まれ。70年春風亭柳朝に入門、80年真打昇進。落語界初の日本武道館公演など、常に新しい企画に挑み、大成功を収めている。近年は『六人の会』で、落語界の活性化・若手の育成に積極的に取り組み。現在の落語界を支える中心人物の一人。落語以外には自らプロデュースするクラシックの会や講演会で活躍している。オフィシャルブログはhttp://ameblo.jp/koasa-blog/

■編集後記

まさに25歳。ある落語会で池袋の『文芸座』にいたときだった。「母親から、師匠に電話するよう連絡があって、電話したんです。そしたらいきなり“あ、オマエ真打になるから、来年の春からな”って。びっくりして、“ありがとうございました”も言えずに、電話を切りました」。決して浮かれることはなかった。「36人抜きというのが、あまりにも異常事態でしたからね。なにか考えない方がおかしいんですよ」

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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