「挑戦と継承」

五木ひろし

2010.10.07 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
目標はアジアのエルビス。ラスベガスへの挑戦

プロデビューは17歳。二度の改名を経てもヒットに恵まれなかった。五木ひろしという名を得て、「よこはま・たそがれ」が大ヒットするのは23歳。再起を懸けてチャレンジしたオーディション番組を勝ち抜いた結果である。

25歳といえば、「夜空」でレコード大賞を初受賞した年。五木さん、まさにノリにノっている時代である。

「このころに、五木ひろしというアーティストの方向性を、スタッフやプロデューサーが打ち出してくれたんです。それが“挑戦と継承”というテーマでした。“継承”はさっきも触れましたが、座長公演。これはある意味、日本の歌の世界の伝統です。と同時に、これは27歳の時からなんですが、 世界への“挑戦”を開始しました」

舞台はアメリカ、ラスベガス。世界のショービジネスの中心地。

「3年連続でコンサートを行いました。僕自身、アメリカにすごくあこがれていたんです。どちらかというと僕、洋楽が大好きでしたから。そのプロジェクトで、僕はアジア版プレスリーとして売り出されたんです。公演をしたのはヒルトンホテル」

当時ラスベガスでは、アーティストごとに会場が決まっていた。フランク・シナトラは『シーザースパレス』、ディーン・マーチンは『MGM』。『ヒルトンホテル』はもちろんプレスリー。

「ラスベガスのショーの会場って、とてつもなく大きいんですよ。僕のやったところでキャパは1800ほど(笑)。当時、世界のトップのアーティストが長期公演をするのがベガスの目玉だったんです。シナトラもプレスリーもそこでなきゃ観られないという…そんな本場のショーを見慣れた、目の肥えたお客さんたちに受け入れてもらうべく、莫大なお金をかけてやりましたよ。セットを日本で作って船便で何カ月もかけて運んで。ともすれば世界デビューというところまでの構想はあったんです」

アメリカデビューには至らなかったが、この3年間がエンターティナーとしてのターニングポイントとなったのである。

「日本語と英語の違い、音楽のあり方の違い、ステージでのパフォーマンスの違い…本当にカルチャーショックでした。勉強にもなりました」

お膳立ては周囲がしてくれた。だが吸収したのは五木さん本人。

「たとえば当時日本にディナーショーという形はほとんどありませんでした。でもベガスは全部がディナーショー。これが今後日本でも確立していくだろうと、まだ日本では誰もやっていないころから始めて。僕は今、毎年『東京プリンスホテル』というところでディナーショーをやっているんですが、今年でもう31年になります」

繰り返すが、当時の五木ひろし、日本においては押しも押されもせぬトップスターである。あえてアメリカに活路を見いだす必然性はなかった。

「そうですね、ヒット曲も連発してましたし(笑)。それをおいてアメリカに行くことで、非難も浴びましたよ。そういうリスクも実はあったんですが、それよりも僕がその後得ることになったメリットの方がはるかに大きかったんですね」

五木ひろしはアメリカに行くことで、自らの進むべき道を確信し、エンターティナーとしてのあり方を自覚することになる。そして30代最後に、その後の人生の指針となる、ある強烈なコメントを残すことになるのだ。

音楽こそが天職なり。30代に得た思いに向かって

「僕は、家にラジオしかない時代からありとあらゆる音楽が好きでした。僕の頭の中には、五十数年前に聴いたラジオから流れてきた曲から、その後の洋楽・流行歌・童謡・民謡…いろんな音楽が入っています。それはきっと僕の財産になってると思うんです」

五木ひろしを語る時、今でこそ“演歌の”という冠が付くが、その昔、たとえばベガスに挑戦していたころは、まったく違っていた。

「ジャンルはなかったですね。“歌謡曲”の中に、演歌の流れをくむ人もポップスの人もフォークの人もいて。当時の歌番組のタイトルはほとんど『歌謡××』でしたから(笑)。区分けされるようになったのはこの20年ぐらいじゃないでしょうか」

現に五木さんが20代で歌った「待っている女」はサイケデリックな匂いがするし、「ふるさと」などはフォークっぽい。どんな曲も大好きだったし、何を歌ってもよかったのだ。だが。

「もともと洋楽が大好きで、アメリカにも挑戦したわけですけど、それによって一層“日本”を意識するようになったんです。僕は、演歌や日本の歌の歴史を大切にしようと考えています。アメリカでの3年間の経験が、僕に日本の歌の価値を教えてくれたから。“日本にはこれしかない!”ということが、20代の終わりに理解できたんです。それは“内側”を向くということではなくて、日本の歌手として世界に羽ばたきたいなら、演歌しかないんだっていうこと。それを若いころに信念として持つことができたのが、大きかったと思います」

つまり、アメリカへの“挑戦”が日本の歌を“継承”することへの気づきとなったのだ。かくして、己の道に自覚的になった五木さん。

「39歳の時、ある取材で歌手人生を振り返っての感慨を尋ねられて…忘れもしません、僕、こんなふうに答えてるんですよ。『パーフェクトでした』って。これはなかなか言えないでしょ(笑)。でも実際、パーフェクトだったんですよ。当時のパーフェクトな五木ひろしのいた場所に、60代の僕が向かって行ってるんですね。これから先、60代を終える時に同じ質問を受けて『パーフェクトでした』と言えると最高なんですけどね。今は、目標をそこに合わせて精進あるのみ、ですね」

昨年には「日本の『粋』と『情』を歌う」アルバムとアメリカンポップス&スタンダード、シャンソンとイタリアン・ポップスを集めたカバーアルバムを同時発売(余談だが、これまでリリースしたアルバムは250枚以上)。

「僕は歌で歴史を継承していきたい。先輩方の歌をアルバムにするのはもちろん、自分の曲もカバーしています。今のシングル『おしろい花』なんて30年も前の曲ですしね。僕は今、自分が過去に触れてきたものを消化して整理したいと思っているんです。そうしてまたジャンルの壁を取っ払って、1人のアーティストとして、自分のできることを見つめてみたい。時がたてば古いものも新しくなります。温故知新、今また新しく知る思いで去年から今年にかけて活動しています」

余裕が見える。先のアルバムに関して、昨年は『コットンクラブ』で、今年は『ビルボードライブ大阪』で、ロックやジャズも含めたライブも大成功した。

「チャップリンにこんな名言があります。『芸とはゆとりなり』。ゆとりを持ってやることが見る人に安心感を与え、信頼を得ることができる。若い時には難しいでしょう。ある程度の年齢とキャリアがないとできない。ただこれって、ストイックに見える人より、一層ストイックでないとできないことだと思うんですよね。そこは突き抜けた世界なんだと思います」

1948年、福井県生まれ。64年、「第15回コロムビア全国歌謡コンクール」で優勝。プロ歌手としてデビュー。幾度も改名し、71年五木ひろしとして「よこはま・たそがれ」が大ヒット。以来おおよそ40年にわたり、歌謡界のトップとして活躍。04年3月には、日生劇場ライブコンサートで「第54回芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)」を受賞。07年11月には紫綬褒章を受章。9月末には五木ひろしとしての40年のキャリアから年1枚ずつセレクトした4枚組の『五木ひろし1971~2010 ベスト40』をリリースしたばかり。なお明治座10月公演の詳細はwww.meijiza.co.jp/まで

■編集後記

東京・名古屋・大阪でのそれぞれ1カ月の劇場公演に加え、全国でのコンサートツアーを含めて、ステージに立つのは年間約300回。この40年そうだという。「全然休みたいとは思いませんね(笑)。僕は歌が大好きですし、コンサートの構成・演出も、作曲も編曲も演奏も大好き。びっくりするぐらいスタジオに入ってますよ。もの作りのプロセスがたまらないんですよね。想像しにくいと思いますけど、僕、本当に音楽人なんです」

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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