「あえていうなら、好奇心のなせる業」

田原総一朗

2010.10.21 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
やってくるのは“当事者”。毎回1時間の真剣勝負

その番組は『激論! クロスファイア』(BS朝日)。田原総一朗司会の討論番組だ。毎回世間を賑わわせる話題を取り上げ、そのコアにいる人物を呼んで話を聞く。ときには噛み付く。放送は毎週土曜朝10時からの1時間。

収録も放送も1時間。つまりは編集なしで放送しているのだ。

「だって編集したらつまんないじゃない。だいたい僕は生番組が好きなんですよ。前の『サンデープロジェクト』も、『朝まで生テレビ!』も生。編集したら出てもらう人に失礼じゃない? この1時間は、まさに真剣勝負だと思ってるんです。しゃべったことは、基本、全部使う」

番組による恣意的な編集がないからゲストは安心して出演する。その代わりヘタなことはしゃべれない。呼ぶ側だって心してかからねば、何も得られない可能性もある。

緊張感あふれる1時間。真剣勝負というのは、つまりそういうことだ。

「あと、僕はね、もともとテレビ東京のディレクターだったこともあって、キャスターや司会というよりはディレクターのつもりで番組に取り組んでいます。テーマはもちろん、人選や構成に関してもアイデアを出します。それでスタッフと話し合って内容を決める」

田原さん、この番組の記者発表で政治を変えたいと発言していた。

「変えられる実感はありますよ。今日安倍さんにも言ったんだけど『自民党は民主党いじめてるだけじゃつまんないよ』って。国民はイライラしてるし中国はあざ笑ってる。『なるほど、日本に何をしてもいいんだな』って」

この日のテーマは尖閣諸島問題。ゲストの安倍さんは、対中外交に一家言ある人物。首相在任中の2006年10月に訪中し、胡錦濤国家主席、温家宝首相と会談。様々な分野で日中共通の利益を得られるよう協力し合う「戦略的互恵関係」に合意した。さらに次週には、9月末に突如訪中した民主党の細野豪志衆議院議員が登場。ゲストはまさに問題の当事者。16日の放送では、元名古屋高検検事長の宗像紀夫弁護士、元検察官の郷原信郎氏、魚沼昭氏らと検察の今後について論を交わした。

「とにかく“お客さん”に観てもらえないと意味がないですから。テーマにしても人選にしても、興味を持ってもらえるように。それで『この番組は面白いぞ』って思ってもらえればしめたもの。今度は逆に、この番組が取り上げるなら面白い話題に違いないと思ってくれるようになる」

取り上げるのは必ずしも新聞の一面に載る話題ばかりではない。

「僕はスタッフに、新聞は少なくとも朝日・毎日・読売・日経・産経の5紙は読みなさいって言うんです。紙面や扱いは、新聞によって全然違います。朝日でトップでも産経は二面かもしれない。日経が一面で扱う記事がほかの4紙には載ってもいないかもしれないから」

何が重要で、何がそうでないかは自分の見方を鍛えるほかはない。

「そこは日本の教育の一番の欠陥ですよね。小学校から大学まで“正解のある問題の解き方”は学ぶんです。でも社会で出合う問題は正解のないものばかり。これを解くには想像力を発揮せねばならない。でも、その力は何もないところからは生まれてこない。僕が考える想像力とは、いろんな人の意見を聞いて、それら自分の中で組み合わせて考える力。ちょうど雑誌の編集作業のようなものです。ただ、みんなが本音を話してくれるわけではない。聞き出す力も必要なんです」

それは相手の信頼を得ること。つまり、「いかに自分が裸になるか。それをいかに相手に認めてもらえるか、ということなんです」。

かつて、テレビでドキュメンタリーを作りながら得たやり方。

やりたいことだけ、やる。常識を疑う姿勢と好奇心

大学卒業後、新聞社とテレビ局約10社に落ち、岩波映画製作所に入社。科学映画を制作していると、東京12チャンネル(現・テレビ東京)が開局。入社したのは30歳のときだった。

とにかく破天荒。たとえば学生運動全盛の早稲田大学で、ピアニストの山下洋輔に、バリケード封鎖された講堂からグランドピアノを持ち出させて弾かせたり(暴動になるところを撮ろうとした)。あるいは花嫁が出席した男たちとセックスする結婚式に取材に行った際、お相手を指名され自ら務めたり(きちんと放送された)。ガンに冒された俳優が手術で右腕を失い、死ぬまでを追い、そのデスマスクを撮影したり…。

一介のサラリーマンが、よくも自分の判断で成し得たものだ。

「サラリーマンじゃなくて、ディレクターだと思ってたから。毎回真剣勝負で番組を作るのが仕事。よく言うんだけど、番組を作るうえで大切なことが3つあって。まず『視聴率をとること』、そして『話題になること』、最後に『スポンサーが落ちないこと』。僕はむしろ自分でつかまえてきてたけどね。これらをきちんと押えてたんだから、局と対立するわけないでしょ(笑)。ただ、常識から相当外れてたことは事実」

常識を見据えながら踏み外すのか、そもそも常識がなかったのか。

「僕は常識を全部疑うんです。あらゆる常識は怪しいと思ってる」

太平洋戦争が始まったのが小学校1年生、終戦が5年生の夏休みだった。5年の1学期に「この戦争は欧米の侵略からアジアの国々を独立させるのが目的」と言ってた先生が、2学期には「日本の侵略戦争です。かかわったリーダーたちは悪い人たちなので死刑になって当然です」と言ったのだという。

「こんなの、疑わざるを得ないでしょ。偉い人が大きな声で言うことは信じちゃいけないって思うしかないでしょ。それが僕の原点ですね」

60年当時、東京12チャンネルは最後発のテレビ局だった。“普通の番組”や“真っ当なドキュメンタリー”はNHKやら日本テレビやらがどしどし作っていた。

「既存の局が絶対作れない番組をやろうと思ってたんですよ。僕は“いい番組”を作りたかった。いい番組が何かというと、ほかの誰も作れない番組。それは今も変わりません。そういう意味では『激論! クロスファイア』は、ほかの局にはない番組と思う。自信を持って言える」

ともあれ、田原総一朗がディレクターとしてブレイクしたのは、東京12チャンネル時代に数々の“いい番組”を制作したがゆえだった。

そこにはべつにイデオロギーはなく、社会正義を振りかざしたわけでなく「ただやりたいことをやっただけ。何も狙ってないんですよ。あえていうなら、好奇心のなせる業」。

─好奇心。

「うん、僕は自分が才能のない人間だと思っているんです。唯一、僕に取り柄があるとすれば、好奇心が強いこと。いまだになんにでも好奇心を持ってしまう。番組を作ったり、ものを書いたりするのが僕の仕事ですけど、それに生かせるかどうかは関係なく、最初は純粋な好奇心。雑誌を見たり新聞を読んだりしては“なんだこれ?”って思って。できうる限り、その一次情報にあたる」

10月に出演した『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで』で “特技”を問われ「電話」と答えた田原さんは、出演者たちから笑われた。いわく、「そんなん特技ちゃうやん!」と。でも十分に特技なのだ。

「1日に30回とか40回とかかけてるね。細野さんが中国に行った。何をしにいったんだと。即、細野さんに電話ですよ」

それが好奇心を満たすとともにビジネスにつながる。仕事することが最高に楽しい。1年間に休みはたった1日、1月2日のみ。

「だって必要ないんだもん。仕事を休んでやるようなことはないから。結局、原稿書いたりするしね」

野望を聞いたら困った顔をした。「もっと面白いことが見つかればやるでしょうね。でも…今十分面白いことやってるんだけどね」

1934年、滋賀県彦根市生まれ。高校卒業後上京。日本交通公社に入社し、1年後に早稲田大学第二文学部に入学。作家の夢破れ、ジャーナリストを目指すため、早稲田大学第一文学部史学科に再入学。卒業後、岩波映画製作所入社。64年に東京12チャンネル(現:テレビ東京)の開局に伴い入社。『ドキュメンタリー青春』『ドキュメンタリーナウ!』などの番組を手がけ、77年に退社。以降フリー。『朝まで生テレビ!』(87年~)、『サンデープロジェクト』(89~10年)などの番組を立ち上げ、現在は『激論! クロスファイア』に出演。公式ウェブサイトはwww.taharasoichiro.com/

■編集後記

本当は作家志望だった。上京。日本交通公社で働きながら早稲田の二部に入った。そこで出合った2作が人生を変えた。「茅場町の小さな本屋さんで、石原慎太郎『太陽の季節』入荷の短冊を見て立ち読みしたの。僕は古い私小説を写経のように書き写してた。石原さんは弟のことを見事に書いた。参ったね。ヤラレタ!と思ったね。しばらくしたら、大江健三郎が『飼育』で芥川賞を取った。それで僕は作家をあきらめた。ジャーナリストを目指したのは、作家に似た仕事だったから」

武田篤典(steam)=文
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