「生涯現役」

藤波辰爾

2010.12.16 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
ファンだった。楽しみだった。それが“人生”になった

もとは大分県の片田舎に住む一ファンだった。中学時代の部活は陸上部。

人と争うことが嫌いな穏和な性格で、陸上を選んだ理由もそれ。にもかかわらず、プロレスにはワクワクした。

(プロレスラーになったら、海外に行くこともできるのかな?)

何もない田舎の片隅にいながら、(中略)海外をサーキットしている自分の姿を、しばしば夢想したものだった(自伝『未完のレジェンド』より)

たぶん最初は、プロレスは、何か華やかなところに自分を置くための手段だったのだ。それでも藤波少年はどっぷりハマった。中学卒業後に一度就職しながら、矢も楯もたまらず暴走。

別府温泉に、けがの治療で滞在していた北沢幹之選手を訪ねたことで、夢への扉が開くのだが、このときの行動がスゴイ。「北沢選手が別府にいる」という情報だけで、一軒一軒旅館を訪ね歩いて、行き当たったというのだから。「思いこんだらブワーッと行っちゃう。格闘技経験はないし、ケンカはコワイし(笑)、カラダも大きな方ではない。プロレスラーになれる要素、ゼロですよね。ただ、なりたかったんですね」

“なりたい”と思いこんでしまった。

17歳で、「日本プロレス」でデビューするが、団体が分裂。付き人をしていたアントニオ猪木が立ち上げた「新日本プロレス」に迷わず参加。24歳のとき、NY・マディソン・スクエア・ガーデンでWWWFタイトルを奪取。以降、若きスターとなり、30歳のときに大量の選手離脱で団体が危機を迎えたときにも残留して屋台骨を支えた。35歳のときには、ビッグバン・ベイダーとの闘いで腰を痛め、椎間板ヘルニアで1年3カ月間の欠場を経験。

師匠といっていいアントニオ猪木に引導を渡そうとした。プロレスに部屋制を導入しようとしたこともあった。が、40年間一度も「やめたい」と思ったことはないらしい。

「なぜなのかな。答えられればいいんだけど…それだけプロレスというものが…自分の中で“そのもの”になってしまったんですよね。切り離せないもの。『なぜ息をし続けるのか?』と問われても答えられないでしょ? 一番考え込んだのは、1年半のブランクの時期。普通レスラーの休場は、よほどけががひどくて半年程度。1年半だったら引退ですよ。でも頭の中にプロレス以外のことが、浮かびすらしなかった。“死にたい”とは思ったけど、プロレスをやめる選択肢はなかった」

単に「なんかプロレスってドキドキする」だけだったのに。

「僕の人生で一番長く時間を過ごしているのが、このプロレス界なんです。そこでいろんな人に出会って、背中を押してもらった。なかでもアントニオ猪木という人を、もっとも長い間身近で見てきたわけです。親であり学校の先生であり、人生の師匠である…僕の中でプロレスに対する思いが膨らんできたのは、猪木さんの影響が非常に大きいんですよね」

師であり象徴であり。でも今なお一ファン

「たとえば猪木さんは控え室を出た瞬間から闘う顔になった。リング上で一番いいところを見せるのはもちろん、入場シーンでもお客さんは心をつかまれた。あのタイミングで“レスラーの顔”になるレスラーを僕は知りません」

もちろんそうした一瞬の心構えだけではなく「“巌流島”しかり、“平和の祭典”しかり」。前者は観客を入れずに実際に巌流島で行ったマサ斎藤との一騎打ち。後者は北朝鮮に乗り込み、現地で打ったプロレス興行だ。

「そこから僕も自然と考えるようになりました。猪木さんみたいに派手なことじゃないけど(笑)。“こんな選手とこういう場所でやれたら”とか、“こんな組織を作ったら他団体とか他業種と絡むことができるんじゃないか”とか。何かしらの課題を見つけようとしてしまうんですね。プロレスラーである以上、試合は続けていける。でもいつしかものたりなくなってくるんです。単に試合をやるだけではなく、ゾクゾク感がほしくなってくる」

全盛期で年間最大250~260試合。ただ闘っていても日々は過ぎる。それに身を任せ、コンディションを整えて淡々とリングに上がるのもプロ。だが藤波はそうしなかったのだ。

また、プロレス界において一度も挫折したことがないというのも(間接的には)アントニオ猪木のおかげ。18歳のころ、猪木の付き人としてタンザニアでの仕事に同行した経験ゆえだ。

「いまは国立公園になってるから動物も保護されてるけど、40年ほど前だから、密猟も盛んで。あちこちに牙だけ取られた象の死骸があるんですよ。それをハゲタカやハイエナが食い散らしている状況。そこでテントで野宿(笑)」

周囲にはハンターが護衛についてくれた。安心? とんでもない! そうしないと危険なエリアということだ。

「槍持った原住民はいるし、夜中、木の上でギャンギャンホーホーと謎の動物の鳴き声はするし(笑)。そこに20日間。しかも最後の3日間は猪木さん、『仕事が入った』って帰っちゃうし。帰りは僕ひとりでした。タンザニアの密林からナイロビに出て、インドのボンベイ、バンコック、香港をまわって。英語も満足にしゃべれないのに、それでも帰ってこられるんですからね(笑)。このときの経験が、自分の中でもすごく自信になってます」

格闘技的なハードな訓練とかではなく(もちろんそうしたものもあったのだろうが)、なんとまあ! タンザニアからの“はじめてのおつかい”が、その後の藤波辰爾を支えたのだ。

「うん(笑)。落ち込んだときも、どんなときも、まあなんとかなると。“行けばわかるさ”と思ってるから」

カリスマであり師匠である。でも崇拝だけでなく、一方で同業者として越えていかねばならない存在だった。

34歳の藤波辰爾は、10歳上でありながらメインの座に君臨し続けるアントニオ猪木に改革を訴えた。俗に「飛龍革命」とよばれるできごとだ。

著書には、猪木の肩の荷をおろさせたかったとある…。それは真実。だが。

「反面でひとつ正直なところ、ジェラシーもありました。猪木さんに取って代わりたいっていう…レスラーなら誰しも猪木さんになりたいんですよ。あともうひとつ、『老いてくれるな!』という自分の寂しさもあったんですね」

ファンであり、崇拝し、憎み、嫉妬し、ぶつかり合った。またいまは落ち着いて影響を語ることができるという。

アントニオ猪木は98年、55歳で引退。藤波辰爾は06年、新日本プロレスを離れ、現在「ドラディション」を運営している。猪木が引退した年齢よりもふたつ年上になってしまった。

「僕のいまの闘いのテーマは、自分がいままでやってきた動きをどこまで見せることが可能なのか。来年1月10日に長州力とやるんですが、彼は一緒に時代を築いてきたレスラー。“顔見世”でも興行としては成立するでしょう。…でも、リングに上がると、収まりがつかないでしょうね。いまでもリングでは自分が中心でいたいという気持ちがある。まだレスラーとしての欲がみなぎっちゃうんですよね」

だからいまとなっては、かつてのアントニオ猪木の気持ちがよくわかる。

「ときどき別の僕がでてきて『もういいんじゃないか』って言い出すんです。とくに時間をもてあましてるとき。何かに向かって動いているときに、そういう影はちらつかないんですよ。だからもう、最初に打ち上げ花火をぽーんと上げてしまう…これも猪木さんのおっしゃってたことなんだけど(笑)、“これをこのタイミングでやったらこんな影響があるから、結果こうなるんじゃないか”とか考えるより、まずやる。やれば、それに応じてやるべきことが決まっていく。正直、僕にとって全盛期は過去のこと。でもリングに上がるんです、プロレスに対する“思い”は、昔から変わってないから」

1953年、大分県生まれ。中学卒業後、70年、日本プロレスに入門。翌年、北沢幹之戦でデビュー。72年、新日本プロレス旗揚げに参加。75年からドイツ~アメリカをサーキット。78年、WWWFジュニア王座を獲得し凱旋帰国。ドラゴン・ブームを巻き起こす。81年、ヘビー級に転向すると、翌年にはWWFインターナショナルヘビー級王座を獲得。85年、IWGPリーグ戦でアントニオ猪木から初勝利。89年7月から椎間板ヘルニアのため、1年3カ月にわたるリハビリを経験する。99年~04年まで新日本プロレス社長。06年に退団、「無我」設立をへて現「ドラディション」のトップとして活躍中。

■編集後記

いま、ネガティブな考えにとらわれたとき、藤波辰爾は「動く」という。「眠れずに外に出たり…といっても飲みに行くわけじゃないですよ(笑)。その辺を走ってみる。あるいは昔の試合のビデオを観る。『もうそのぐらいでいいんじゃないか』って言い張る、別の自分を振り払うんですね」。実は昔からそうだったという。「世田谷の道場にいたころには、夜中じゅうトレーニング(笑)。住宅街なのに迷惑なことです」。なるほど、藤波辰爾のプロレスへの思いは変わっていないのだ。

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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