先輩が熱く語る!俺たちのR22時代

荻原次晴「甘え上手を心がけて」

2015.02.26 THU


おぎわら・つぎはる 1969年群馬県生まれ。93年、早稲田大学卒業。双子の兄・健司氏とともにスキー・ノルディック複合で活躍、98年の長野冬季五輪で個人6位、団体5 位に入賞。引退後はウィンタースポーツ普及をライフワークに、スポーツキャスターを務めるほか、講演など幅広く活動。日本ノルディックフィットネス協会アンバサダー 撮影/小島マサヒロ
語り草となった、ソチ冬季五輪生中継での“男泣き”。20年ぶりのスキー・ノルディック複合のメダル獲得に感極まったスポーツキャスター・荻原次晴さんの涙は、同競技への深い愛と思いの結晶だった。脳裏に浮かんだのは、双子の兄・健司氏とともに世界の強豪と熱き戦いを繰り広げた現役時代の日々。時は1990年代前半、R22世代が生まれたころのことだ。

「健司とは母の胎内から大学まで、まさしくずっと一緒でした。ただ、研究熱心だった僕は大学に5年間通ったので…(笑)、健司の方が1年早く会社に入っているんですよ。卒業後の進路として北海道の企業も選択肢にあったんですが、考えた結果、健司と同じく北野建設にお世話になろうと決めました」

当時、健司氏はアルベールビル五輪の金メダリストとして、すでに脚光を浴びていた。その兄と比較されることへの抵抗が少なからずあった、と若き日を振り返る。

「でも、長野で行われる冬季五輪の表彰台を目標にしていたので、地元の企業であり、競技に対する理解も深い北野建設に所属して活動するのがベストだろう、という結論にいたりました。健司の在籍にかかわらず、僕自身は選手として最良の選択をしたと思っています」

かくして就職し、“社会人”としての振る舞いを学んでいった。だが、社の活動はスキー部の練習に比重が置かれていた。

「新人研修もあって、名刺交換の仕方など社会人としての常識を教わりました。スキー部は当時、会社のテニスコートの管理が仕事で、朝8時にコートへ“出社”するんです。一応、朝礼もありましたが、服装がジャージなので、会社員という感覚ではなかったですね(笑)」 

その世間とズレていた日常に、違和感がなかったわけではない。

「3歳からスキーを始めて、ずっと好きで打ち込んできたら、大学にも進めて就職まですることができた。でも、周りの人たちは受験や就活の壁を乗り越え、仕事をする中で社会に揉まれて、人として成長していく。一方、自分は大人になりきれていないし、健司のように第一線で活躍するアスリートになれる保証もなかったので、漠然とした不安を感じていました」

荻原さんにとって、真の「社会人デビュー」は就職から5年の歳月を経た後といえそうだ。当時に思いを馳せながら、白い歯をこぼす。

「同じ会社員でも、現役アスリートは“社会人”とは違います。社会と接点を持ってつながっている人、という定義が当てはまらないですから。周りから守られて大切にされますし、名刺交換をすることも、まずない。そう考えると、僕が真の意味で社会人として一歩を踏み出したのは、現役引退後ですね。でも、そのころ同期入社の面々はスーツが板につき、貫禄や風格が出て…さらに先へと進んでいました」

社会人デビューは遅かったが、だからこそ知り得たこともある。

「選手時代から『明るく楽しく』がモットー。いい雰囲気で臨めば調子も上向く、と思っているので。今の仕事でも極力、自分から現場の空気を良くしようと心がけています。そして、甘え上手であること。楽しく仕事をしている人間には思わず手を貸したくなるから…やはり明るさが大事かなと。そんな思いを日々、強めています」
(平田真人)

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