暗闇の中、自分なりに走っていけばよい

安藤忠雄

2007.11.22 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
緑化で日本の新たな…いや本来の魅力を世界に

約22時間後。大阪市北区、安藤忠雄建築研究所。特徴的なコンクリートの建物の1階奥。巨大なデスクには様々な資料が置かれ、動かすなと注意書きがされている。安藤忠雄の仕事場だ。

U2のボノの話になる。3年ほど前からラブコールを送られていたが、実際に会ったのは去年の11月。安藤が設計した茨木市の『光の教会』で「アメイジング・グレイス」を歌ったという。

「ウマいなあと思いました(笑)。ボノはアイルランドで美術館を作ろうとお金を集めていて。その後、私が講演会でアイルランドに行ったときに、彼の家に2日泊まったんです。ボノはアフリカ難民の救済や『RED』というエイズ撲滅運動を展開しています。そんななかで、我々が生きている地球は大丈夫かという話をしまして」

海の森のための募金の話になった。

「賛同してくれました。世界中にごみと産業廃棄物が多すぎて、もはや捨てるところがない。いま、大都市である東京が世界に“環境の問題を考えているんだ”とアピールすることには意味がある、と。東京は近郊も合わせて人口3000万人なんですが“この海の森、世界の巨大都市の見本になるだろう”って言い出しまして。ついには海の森の曲を作りたいと。彼がレコードを作ると世界で1000万枚売れるらしいんですね…。そこで思いました。だったら、日本から発信する海の森を世界中の人にサポートしてほしいと」

環境財団を運営するフランスのシラク前大統領に賛同を得、アップルのスティーブ・ジョブズ、ノーベル平和賞を受賞した「MOTTAINAI」のワンガリ・マータイに声を掛けた。

「こんな彼らにサポートしてもらうことで、世界に発信する力も強まる。日本は経済大国として知られてましたけど、それ以外の顔を見せることもできる。“面白い日本”と世界の人に思われるでしょう。今、日本は何にも世界に発信してないですからね。ものづくりと長寿ぐらい。そもそも日本人が長寿なのは好奇心が旺盛だからですよ。そんな日本人がどうしてできあがったかというと、話は江戸時代に遡る。文楽、歌舞伎、浮世絵…大衆が楽しんだものや美術工芸品などが、1800年代半ば以降の万国博覧会を通じてゴッホやモネ、ゴーギャンらに影響を与え、世界中に飛び火していった。フランク・ロイド・ライトという有名な建築家は1867年生まれなんですが、この人も日本文化に影響を受けてすごい浮世絵のコレクターとなった。そういう江戸末期の芸術はどこから出てきたかというと、四季折々の美しい自然環境からだったわけです」

かつて日本は“自然大国”だったのだ。いまはそれをまた取り戻し、世界にアピールしてゆくとき。

10年後にあるべき“緑の東京”は、そのまま2016年のオリンピック招致へとつながる。64年の東京オリンピックにおいて、丹下健三の設計した代々木体育館が世界中の度肝を抜き、日本の技術の象徴となったように、今度は“地球都市・東京”が美しい日本の姿を世界に訴えるのだ。

安藤忠雄は東京オリンピック招致委員会の理事も務めている。そもそも「地球はひとつだ」と考え始めたのは、65年、23歳のころだった。

体感しなくちゃ始まらない。自分の道以外行く意味はない

大学での専門的な教育を受けていない。高校2年生のときプロボクサーとしてデビューし、11試合戦っている。

「当時1回だけタイに遠征したことがあります。セコンドもマネージャーもいなくてアウェーだし、リングで打たれて死にそうになっても誰もタオルは投げてくれない。自分で考えて生きなきゃならないという強い気持ちを、このときに持った気がしますね」

10代の初めから建築に興味を持っていた。実家を、近所の大工さんとともに改装したのが始まり。大学に行くかわりに、19歳からの1年間は、大学の建築学科の授業で使われる類の本を読んでいた。

「毎日朝8時から翌朝4時までひたすら読むわけです。その1年間はどこへも出ないで。出たら負けだと思ってました。これを突破したら、自分なりに自信を持って生きていけると考えて実践したんです。22歳のときには、卒業旅行をするつもりで日本一周をする。そのときに、美しい日本の風景は見納めやと実感しました。これからどんどん発展していくと、きれいな風景はなくなるんだって…話は飛躍しますが、仕事において大切なことは構想力と実行力。毎日本を読み、考える。私たちには芸術家の部分もありますが、いろんな人たちの助けをもらって作る芸術なんですね。画家なんかは構想力があれば自分ひとりで描ける。建築家は構想したものを、誰かと共同で作り上げていかないとならない。それには実行していく意志が必要になってくる」

65年、23歳。日本で外国への旅行が解禁。アルバイトで貯めた金を持って横浜からナホトカ行きの船に乗った。

「シベリア鉄道に乗ってモスクワからフィンランドへ。ヨーロッパを一周してマルセイユにたどり着いたときには6カ月ぐらいかかってましたね」

マルセイユでは敬愛するル・コルビュジエの設計したユニテ・ダビタシオン(集合住宅)に毎日のように通った。

「夢に出てくるかと思うぐらいに(笑)。それから結局セネガルに行って、ケープタウンからボンべイ、インド、スリランカ、マレーシアへ行き、フィリピン、タイ…行き着く先で考えるわけです、次はどこへ行こうかと。私のような学歴も何もない人間が、充実して楽しく生きるにはどうすればいいのか。ヨーロッパにいたころ、水平線を毎日眺めながら、地球はひとつなんだなあということを自分の体で感じました」

当たり前だ。でも重要なのは“自分の体で感じ”た部分。



そこに行かなければ、知ってるつもりではいても感じられない。

「当時、建築を志す人間はヨーロッパのパルテノンの神殿を見なければならないと言われて見にいきました。感動しなかった。20代の終わりには、東京でフランク・ロイド・ライトの建てた帝国ホテルを見ました。あの関東大震災の日にオープンしたんですが、ほとんど被害を受けなくて。ところがその建築の良さもわからなかった。でも何度も出向いて見ているうちに“なるほどな”と思えるようになったんです。ずいぶん時間がかかりました」

“そんなもんだよ”と笑う。

「20代なんて、暗闇の中。そこを自分なりに走っていけばいい。怖いことはないよ。失敗したとしても、殺されるわけじゃないし、やり直しはきくんだから。他人を面白がらせるには、勇気のある行動が必要。他人ができることをやってもしょうがない。“本当にできるの?”っていうことをやらなきゃ」

28歳で、安藤忠雄建築研究所を設立。既存の事務所に入るでなく、またもや一人でゼロから。

「やっぱり、人生は自分なりの面白さを探していかないと。そうすれば、必ず世界が見えてくる。そういう気持ちでいると、私のように学歴も社会基盤もない人間に仕事をさせてくれる人が出てくるわけ」

最初の仕事は長屋の密集地の小さな個人宅だった。そこから、今日、世界各国でいくつも同時進行する安藤プロジェクトは始まった。

「東京がいま、初めて面白いことをしようとしてるな、と私は思うんです。日本のイマジネーションに対して世界が注目してくれるチャンス。結局20代は、やっぱり直球勝負でいかないと」

1941年、大阪生まれ。東京大学名誉教授。10代より建築に興味を持ち、独学。プロボクサーを経て、20代半ばで世界を放浪。28歳で安藤忠雄建築研究所を設立。おもに個人住宅を手がける。住吉の長屋で日本建築学会賞を受賞。世界的にも評価が高く、97年に東京大学教授に就任する以前に、イェール大学、コロンビア大学、ハーバード大学で客員教授を歴任。主な作品に、直島コンテンポラリーアートミュージアム(香川県)、FABRICA(イタリア)、淡路夢舞台(兵庫県)、ピューリッツァー美術館(アメリカ)、表参道ヒルズ(東京都)、21_21 DESIGN SIGHT(東京都港区)など。また「海の森」に先駆けて、瀬戸内海一帯にオリーブを植樹する「瀬戸内オリーブ基金」を中坊公平らとともに展開。

■編集後記

事務所を設立しても仕事がこない日々。空き地に自分なりのプランを夢想したりしていた。個人宅からスタート、34歳のとき、神戸・北野の『ローズガーデン』を設計。周囲の環境と連続性のある建築、でありながら街に刺激を与える建築を標榜した。これは一貫して、いまも安藤建築にあるテーマである。「私はあちこちでケンカを売ってきたようなもんだったなあ。でもそんな気持ちを20代に築いておかないと、40歳ぐらいでもう力がなくなってしまうと思うよ」

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
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