「がんばれよ!」ではなく「がんばろうぜ!」

宮本浩次

2007.11.29 THU

ロングインタビュー


石原たきび=文 text TAKIBI ISHIHARA 稲田 平=写真 photography PEY INADA スチーム=…
20歳そこそこでデビューとにかく楽しかった

ここで、彼らの歴史を簡単に振り返ってみよう。ギター・石森敏行、ベース・高緑成治、ドラム・冨永義之、そしてギター・ボーカルが宮本浩次。宮本自身は小学生時代、NHKの合唱団に所属。音楽鑑賞といえば家にあったクラシックのレコードを聴く、そんな子どもだった。

「昔から人前に出るのが好きで。学級委員に自分で立候補しちゃったり、給食の時間に演説したりしてました」

やがて宮本は、中学の同級生だった石森、冨永とバンドを組み、のちに冨永の高校の同級生、高緑が加入した

「石君(石森)とトミ(冨永)は中1ぐらいからスタジオに入ってやってましたね。僕は中3の終わりぐらいに誘われて入った感じです」

プロデビューのきっかけは86年。CBSソニー主催の新人発掘コンテストでの入賞だった。

「当時まだ19歳で、そこから1~2年後に最初のレコード会社と契約したのかな。そうそう、山中湖で合宿練習があったんですよ。13時に来いって言われたんだけど、僕ら前日の夜中に行っちゃって。真冬で気温も氷点下なもんだから、たき火しようかって。(高緑)成ちゃんは実家がお風呂屋だったから火つけるのうまいんだよね。あのころはとにかく楽しかったなあ」

その後、彼らは年間1枚のペースでアルバムをリリース、順調にキャリアを重ねていく。玄人受けするバンドカラーは、石野卓球、スピッツの草野マサムネ、ウルフルズのトータス松本ら“同業者”もファンだと公言するほどの輝きを放つ一方で、一般的な知名度はまだまだ低かった。また、同時に「拍手をした客に“うるせえ!”と毒づいた」「テレビのバラエティ番組で歌い終わるとマイクを投げ捨てて帰った」など、数々の伝説も残している。

「もともとデビューが早かったから、勢いというか若さというか、そういうのだけはあって。今思えば粋がってたんでしょうかねえ。コンサートなんかで人が一生懸命歌ってるのに客席でしゃべってるやつとか見ると、もうありえないなと。イベントに呼ばれてもステージでスポンサーの悪口言ったり。だんだん声がかからなくなりましたよ。まあ、当たり前ですよね」

失恋の大きな痛手とレコード会社との契約切れ

空回りする焦りに、プライベートでの“事件”がさらに拍車をかける。

「25歳のころ、3年間つきあってた彼女にふられたんですよ。その喪失感が、もうすごくて。3分おきに彼女に電話して『俺のどこが気に入らねえんだ』みたいな(笑)。とにかく、当時はプライドが高かったし、ふられるっていうのが初めての経験だったんで、びっくりしました」

ショックからは1年以上立ち直れず、その年はコンサートもほとんどできなかったという。4枚目のアルバム『生活』から次の『エレファントカシマシ5』まで少し空いているのには、こうした“事情”もあったのだ。

ともあれ、セールスの不振もあり、ついに94年、デビューから7年間在籍したレコード会社との契約を切られる。普通なら、ここでバンド解散の危機が訪れるところだが…。

「メンバーのうち2人は結婚してたんですが、誰も辞めるって言わないんですよ(笑)。僕以外はもともとバイトしてましたし」

しかし、さすがに危機感を抱いた宮本はデモテープ持参で単身レコード会社を回る。同時に下北沢のライブハウスなどで、地道に演奏も続けた。出演情報を必死で探して見に来てくれるファンの存在がずいぶん励みになったという。このころ作った曲のひとつ、『四月の風』にはこんな歌詞がある。「何かが起こりそうな気がする 毎日そんな気がしてる」。そして、地道な活動は実を結ぶ。“何か”が起こったのだ。96年、エレファントカシマシは、1年半の雌伏期間を経て、再びメジャーレコード会社から声をかけられる。

「マジメにやってれば、ちゃんと観ていてくれる人がいるんだなあって。以前と比べて想像を絶する契約金を提示されて舞い上がっちゃいましたよ。といっても、まあふつうの会社員の人の初任給ぐらいなんですが」

また、「こっちは一回痛い目に遭ってるから、新しいところでは他のアーティストたちがやってることを全部やりたいと思った」という言葉通り、外部のプロデューサーを招き、タイアップを受け入れ、メディアへの露出も積極的にこなした。

「メンバー以外と曲を作ったことがなかったから、とにかく新鮮だった」と言う一方で、できた曲に対して「この音は俺が考えるロックじゃない」と感じたこともあったらしい。

しかし、彼の迷いをよそにCDの売り上げは伸びる。とくに、97年にフジテレビのドラマ主題歌として発売された『今宵の月のように』は70万枚を超える大ヒットに。バンドは軌道に乗り、99年の東芝EMI移籍後も、宮本は音楽活動と並行して雑誌の連載を持ち、テレビドラマにも出演。世間の認知度は飛躍的に上がっていった。

「メンバーから信頼を得ちゃって。それまで彼らには、『絶対売れるから』って言ってたんですよ(笑)」

きちんと届くものを妥協しないで歌に乗せて

そして今年、ユニバーサルミュージックに移籍。ここで宮本は、また新たな経験をする。

「今回のプロデューサーはレコーディング現場で“宮本くん、今の演奏で宇宙が見えたよ!”“さあ、こんどは宇宙の先を見せてくれ!”って、いやホントにそういうことを言う人で」

宮本がうれしそうに笑う。他にもバンドメンバーを含めたスタッフが毎日会議室に集合、どういう曲を作るかというところから、何をシングルカットするかまで熱心に意見を交わした。

「今までやったことないから新鮮で。僕自身、この年になって妙な気位の高さがなくなったせいか、プロデューサーや宣伝の人たちみんなが、それぞれの持ち場でプロとして全力で働いてることもわかるようになりましたね」

話を「俺たちの明日」に戻そう。

「完成したものをメンバー4人で聞いたとき、サウンド的なものを含め、胸を張って自分たちの中で歴史的な1枚だなと思った」というニューシングルは、こんな状況下で生まれた。彼は歌詞の中で自身の過去をこう振り返る。「10代 憎しみと愛入り交じった目で世間を罵り」「20代 悲しみを知って目を背けたくって町を彷徨い歩き」「30代 愛する人のためのこの命だってことに あぁ 気付いたな」。そして、40代になった現在の彼からのメッセージこそが「がんばろうぜ!」なのだろう。

「歌詞を作ってるときは、自然にいろんな人の顔が浮かんでくる」と宮本は言う。「最初の胃弱の話じゃないけど、肩の力が抜ける年代になって思うのは、職業や立場こそ違えど、共通の“何か”を抱えている人たちに届けたいということ。表現としてきちんと届くものを、妥協しないで歌に乗せて、なるべく言い訳のないように。今はそういう心境です。まあ、歌うぐらいしかほかにやることねえしなあっていうのもありますけどね(笑)」

1966年東京都生まれ。81年、中学時代にクラスメートとバンド「エレファントカシマシ」を結成し、ギター・ボーカルを担当。愛称は「ミヤジ」。独特の歌唱スタイルと音楽の世界観から、業界の内外に熱狂的なファンを持つ。現在までに16枚のアルバム、34枚のシングルCDをリリース。90年に初めて行われた日比谷野外音楽堂でのコンサートは、以来毎年恒例の風物詩となっている。趣味は散歩と読書。とくに永井荷風、森鴎外ら明治~大正期の作家に傾倒。著書に『明日に向かって歩け!』(集英社)、『宮本浩次随筆集「東京の空」』(ロッキング・オン)などがある。

■編集後記

25歳ごろ実家を出て、一人暮らしを始める。失恋のショックもあり、「毎日アパートの前のガードレールに座って一人で星空を眺めてましたね。両親がうるさいから家を出たはずなのに、こんなに寂しいものかと思った」という状態だった。また、7枚のアルバムをリリースした時点でレコード会社との契約が切られる。当時28歳。1年半の“浪人時代”は音楽活動以外では中国語講座と「ドラクエ」に費やす。新しいレコード会社と契約、やがてブレイクするまでの雌伏の時期である。

石原たきび=文
text TAKIBI ISHIHARA
稲田 平=写真
photography PEY INADA
スチーム=編集
editorial steam

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