今月も暮らせてよかった

マギー司郎

2007.12.13 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 松尾 修(STUH)=写真 photography OSAMU M…
考えるヒマや余裕はなく、とにかく生きるだけ

生まれたのは61年前、茨城県の下館(現・筑西市)。9人きょうだいの7番目で、“貧乏の最果て”だったという。裕福な家庭が橋の下に投げ捨てるゴミから、まだ食べられそうなものを発掘。引っ込み思案で、格別に得意な科目もなく、よくいじめられていた。

著書では、生い立ちが語られる。中学を卒業後、16歳で家出。東京のキャバレーに住み込みで職を得て、同時に趣味でマジックを始める。師匠のマギー信沢に付くのが19歳。自ら電話帳で見つけたプロダクションに所属して、プロの道に入るのが20歳。この本、マギー司郎が苦労話をつづったものではない。

「だって親からもべつに何も期待されなかったからね。生きていくだけで精一杯だったから」

今日を生きて明日を生きて明後日を生きる。本能的に生きてきた人生の記録。きれいごとではない、メッセージは読者が自由に受け取ればよいのだ。

「過ぎ去ったことが、アレかな~、少しずつ自信みたいなものを与えてもらったのかもしれないです。ええ」

上を見ず、未来を夢見ず、淡々と。でもどこかにターニングポイントはある。たとえば16歳での家出。

「そんなに大変じゃないですよ~。ウチは9人きょうだいだし。一人が何をやっても大丈夫。ごはんを食えない時期もいっぱいあって、妹とかは栄養失調になっていましたし。イヤな言い方ですけど、いまよりもずっと人の命が安かった。東京に行くことなんて、なんの一大決心でもないですよ。単純に田舎の兄ちゃんが、憧れて行っただけ(笑)」

はたまた、プロのマジシャンの道を選んだとき。すでに東京での生活も経験し、憧れだけではうまくいかないこともわかっている状況である。さすがにここでは、一大決心が…。

「そんな深い意味はなくて(笑)。マジックを勉強していると、教室に行くたびにその日にやる道具を買うわけです。それがたまってきちゃう。その道具を見ているうちに“これをなんとか使えないかなあ”と思うわけです。それと教室の発表会が年に2回ぐらいあって。“なんか舞台っていいな~、これでごはんが食えたらなあ”って」

電話帳で見つけた巣鴨の『太陽芸能』は“仕事ができたら電報を打つ”ことを約束した。水商売に別れを告げ、新聞の勧誘をしていたところに、電報。

「京浜急行の生麦という駅にある、生麦ミュージック劇場に行きなさいと。ミュージック劇場だから、その…ライブハウスみたいなものかなって思ってました。ところが行ってみたら、ストリップ劇場だったんですよね~」

決心というより、やはりここでも流れのままに。その後約15年間、2万回におよぶストリップ劇場でのステージはそんなふうに始まったのだ。

1日4回、土・日は6回。大晦日も元日も休みなし。3年間休みなしで働いたこともあった。そして思った―。

「ああ、今月も暮らせてよかったな」

「とにかく生きるだけ」を少し快適にした結果

「カッコいいとか悪いとかじゃなくって、仕事をしないとお金をもらえないんです。お金をもらえないと生活できない。まずそれ。自分の夢とか目標は全然なくて。ひとつの公演が10日単位で、それが終わると次また別のところに呼ばれて10日間やる。絶対に休んじゃいけないし、遅れてもいけない。その積み重ねですよね」

4時間前入りは、このときのクセだ。そうして、単純作業のごとく公演をこなす日々のなかにも、芸人としてのプライドが顔を覗かせることもあった。

「ベッドショーというのがあって、僕が布団を敷くんですよ。その上でおねえさんたちがシモを見せるんです。僕はマジシャンで、次が自分の出番だから衣装を着て待機しているのに、布団敷きをしなくてはいけない。そのときだけは心の中に照れやつらさみたいなものがありましたね」

マギー司郎は、手先が少し不器用という以外は普通のマジシャンだった。

が、変化は緩やかに訪れる。

「このままずっとストリップ劇場やっていくのなら、70歳とかになったときにはキツイなと思ったんです。何しろ自分一人で荷物を運んで全国の巡業をしてましたからね。できるだけマジックの道具を減らすことはできないかなあって。それで時間をもたせるにはどうすればいいのだろうか」

ストリップ劇場ではマジックは添え物で、寝ているお客さんも多かった。

「“寝たお客を起こさない芸”もあるなあと思ってたんです。モノを見せたり笑わせるだけじゃなくて、安らいでもらうことが究極なのかな~って」

そこで、劇場を巡業しながら徐々にオリジナルな芸風を開花させていくことになる。芸風というか、職業上のコツとか知恵みたいなものだけれど。

「とにかく穏便に終わるように(笑)。舞台の上をちょこちょこ移動して起きている人の前にだけ行ってやったりしてね。退屈させてはいけないので謝りながら(笑)。たとえば、楽屋にあった新聞とか雑誌を持って行って“これから25分やらせていただきますけど、退屈だったらこれを読んでください”って。その方が、見ているお客さんもラクかな~と思って」

おしゃべりマジックは誕生した。

マギー司郎いわく、最初にウケたのは、32歳のとき。その2年後、知り合いの芸能事務所のツテで『お笑いスター誕生』に出演する。18歳だった貴明&憲武(後のとんねるず)が挑戦し、ウッチャンナンチャンがグランプリを獲った勝ち抜き形式のテレビ番組だ。

「オーディションに行ってみたら、“こんな人見たことないよ”って。僕はどうやら無防備だったようです。ストリップで時間をもたせるためにやってただけだから。テレビなんて初めてで。出て行って普通にしゃべってたらみんな笑うんです。僕の後ろに誰かが立ってて、僕がしゃべってるあいだに何かしてると思ってました(笑)」

縦縞のハンカチを横縞に替え、ペプシコーラをコカ・コーラに替え、「茨城県の○○市でウケたネタなんだけどね」…インチキを交えつつ、謝りながらやるマジックのスタイルは斬新だった。世間の腰を砕けさせ、マギー司郎は7週を勝ち抜いた。

「頭が相当疲れていたんですね~(笑)。なんか、ネタの経緯を考えるのがどうでもよくなって、とりあえず帳尻だけあわせる…そんな発想だったんでしょうね。僕は何も考えてないんですよ。面白いんだかなんだかわかんなくてねえ(笑)」

ストリップ劇場にはこの番組の少し前ぐらいまで出ていた。全国巡業の日々に抱いた「今月も暮らせてよかった」という思いはいまも変わらない。

「芸事って、算数ではないんです。“これが芸だ”という最終的な解答がない。それを一生探りながら終わっちゃうんでしょうね。だから到達するということはないと思うんです。そんなこと考えてると自信なんて持てない。いずれにせよ生きていかなきゃならないでしょ。とにかく普通に生きられて、人に迷惑をかけなかったらいいな~という感じですよね。誉められればうれしいし、おいしいものを食べられればおいしいんだけど。僕は自然の流れのまま任せて行っちゃうんで、たぶん疲れないんですよね。性格なのかもしれないけど、“絶対こうしたい”とかは、あんまりないんですよ~」

そうそう、本のタイトルは『生きてるだけでだいたいOK』である。

1946年茨城県生まれ。16歳で上京、水商売のアルバイトをするかたわら、趣味で始めたマジックに没頭し、19歳のときにマギー信沢に弟子入り。20歳からプロのマジシャンとして活動を始める。以来十数年のあいだにストリップ劇場でこなしたステージの数、約2万! 80年、とんねるずやウッチャンナンチャンを輩出した『お笑いスター誕生!!』に出演、7週を勝ち抜く。以来、仕事の場をテレビに移す。81年、82年「日本放送演芸大賞ホープ賞」受賞。もともとは正統派マジシャンだったが、ストリップ劇場での経験から編み出したおしゃべりマジックで独自の道を行く。また門下に9人の弟子を抱える大師匠でもあるが、弟子との接し方のポリシーは「フィフティー・フィフティー」。『生きてるだけでだいたいOK』は講談社から1365円で発売中。

■編集後記

マギー信沢に弟子入りしたのが、この世界に入るきっかけのきっかけ。「うちの師匠は、舞台だけじゃなくて浅草のマジックショップでディーラーっていうのをやっていて。実演販売する人ですよね。そこに道具を見に行ったりしているうちに、カバン持ちとして付いていくようになったのが始まりですね」。ここでも一大決心というよりは、なんとなくのフェード・イン。意外にも弟子時代は短く、この1年後には、プロとしてデビュー。ストリップ劇場の巡業が始まることになる。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
松尾 修(STUH)=写真
photography OSAMU MATSUO

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