「バカヤローッ!!」

アントニオ猪木

2007.12.20 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
猪木自身が受け継ぎ、譲り渡したいゲノムとは

小さなパイを食い合うだけで、誰も新しい大きなパイを作ろうとはしなかったのだと、猪木は言う。

「業界全体に、策が見えていなかった。『ハッスル』はあるけど、俺とは方向性が違う。“本当はこういうものなんだよ”っていうことを見せておかなければ、線路から外れて脱線しっぱなしで、元に戻れなくなっていく。それが今のプロレス。IGFは俺の最後の恩返しなんです。もっと言えば、力道山という俺の師匠に対する思いというかね」

ゲノムとは、生物の持つ遺伝情報である。アントニオ猪木は、それを力道山から受け継いだことを自認している。戻るべき原点とはそこだ。たとえば「闘い」というスピリッツ。

「お客さんが本当は何を観たいかというと、ケンカなんですよ。べつにカードが早々に発表されていたところで切符が売れるわけじゃない。いまのプロレスが面白くないのは闘いがないから。おかしなパフォーマンスばっかりやっているから。お客のことを考えるのと、お客に媚びるのとは違うんだ」

ギリギリまで何も決めず、選手たちも緊張感を持ったまま、おまけに様々な遺恨を持ったままリングに上らせるという方式はそのためだ。

「もうひとつは力道山が戦後の日本に元気を与えたように、プロレスがみんなに元気をあげたい。いま日本からあらゆるものが世界に発信されているのに、プロレスだけは置いていかれている。もう一度大きくならなくてはいけない。俺は幸いにして力道山遺伝子を得て育ってきたから、いつも力道山がどこかで見ているような気がするんですよ。だから“これでいいのかよ?”って、自分と向き合うことができる」

ゲノムはいかに生成され現在に至りしか

「それは非常に困るんだよなあ」と猪木は言うけれど、実際、旗揚げ戦のなかでもっとも客席が盛り上がったのが、猪木自身がリングに立った瞬間だった。

自らの名を冠した、本人いわく「最後の団体」を立ち上げ、誰よりも注目を浴びる。なぜ猪木はこうなるのか。

「俺自身が格闘家でありながらプロデューサーだからですよ。真剣な闘いと見せ方を両立させることに絶対的な自信があったからね。俺と戦った選手は、テリー・ファンクもスタン・ハンセンも“対猪木戦がいちばん良かった”って言ってくれてるみたいだ。これはさ、言葉は悪いけどセックスみたいなもの。やった人間にしかわからないんだ」

そもそもは日の当たらないレスラーだった。14歳で家族とともにブラジルに移住。17歳のとき、砲丸投げの大会での優勝をきっかけに、たまたま遠征していた力道山にスカウトされて帰国、『日本プロレス』に入団。だが当時、注目されたのは元ジャイアンツの投手だった、ジャイアント馬場という選手だった。猪木は苦汁をなめながらも、力道山のしごきに耐えることで徐々に自信を得ていく。決定的だったのは、力道山の死後、21歳で体験したアメリカでの興行。

「そのつど契約してメインイベントをやるんです。強くて面白い選手には何度も声がかかる。逆に、いくらベルトをとっていても、客を寄せないチャンピオンは切られちゃうんだよね。ベルトそのものの重みが、巻いてる人間によって決まるわけ。これは命がけだよ」

約2年で帰国し、『日本プロレス』から独立した『東京プロレス』を設立。その旗揚げ興行でのジョニー・バレンタインとの一戦が、猪木プロレス完成の足がかりになったという。

「たぶん、蔵前国技館であれだけ座布団が舞ったことはないんじゃないかな。そこで俺の猪木という名前が一夜にして、表に出てくるようになるんですけどね。その前にセントルイスで相手の試合は観ていて、そのときはすごくがっかりした。全然ダメだったからね。だけど日本に来たら大違いでさ、向こうは必死だし、こっちも爪がはがれるし。やっぱり一発パチンってやられたら、腹が立つでしょ。なんだコノヤロー!! って。その気持ちで仕掛けていかなかったらダメだよね。それで燃えて来るやつは面白いじゃないですか。“くるなら来い”っていう自信があれば、それをしっかりと受けることができる。命の取り合いになってもやれるほど、絶対的に強くなければいけない。殺し合いの試合もいくつかあったけど、その域に達したエンターテインメントはすごいことができるんですよ」

結局『東京プロレス』は3カ月で破綻し、猪木は『日本プロレス』に出戻ることになるが、馬場と並ぶメインイベンターへと成長していた。

そして自ら『新日本プロレス』を立ち上げたのは、29歳のとき。

「若さのエネルギーでね、それこそいろんなところから資金を調達しなけりゃならなかったし、切符も手売りした。ちょうど、今とおなじような感じだよね(笑)。毎日チャレンジしていることが―歳をとった分、俺にも“もういいや”ってあきらめている細胞がいっぱいあるんですが―その細胞にね、ビンタを入れることになる。興行を持続させるのは厳しいものです。ちょっと気を抜けばしぼんでゆく風船に、新しいアイデアと闘いという空気を次々送り込むことを繰り返すしかない」

たとえばそれが異種格闘技。76年には柔道無差別級金メダリストのウイリエム・ルスカ、モハメッド・アリ、レスリングのアクラム・ペールワンとの闘いを実現。今日では当たり前の、ジャンルを越えた対戦も、当時は驚異だった。山師のようにも見られたが、これが格闘界のパイを大きくし、総合格闘技の実質的ルーツとなる。

そして89年には、参議院議員選に当選、史上初のレスラー出身国会議員となる。政治家として湾岸戦争直前のイラクで『平和の祭典』を開催、在留していた日本人の解放に成功。

だが結局猪木はプロレスに戻った。選手としての引退を迎えるまでそれから8年を要し、さらにプロデューサーとしては、今、新団体で旋風を巻き起こそうとしている。

「俺なんてめちゃくちゃ運がいいと思いますよ。力道山がわざわざ地球の裏側に迎えにきてくれて、そこから始まったんだからね。いろんなところで俺は“みなさんは運がいいですか?”って聞くんだけど、ちょこっとしか手を挙げないよ。挙げない人は、もうその時点で悪い人生を選択しているわけですよ。だから“俺は運がいいんだ!”って、そこから始めれば…元気があれば運もついてくるはずなんだよ」

そして、傍らのマネージャー氏にアイコンタクト。バッグの中から試験管やら冊子が飛び出してきた。カナダの泥から油を抽出するオイルサンドの話に、エクアドルの沈没船からお宝を引き上げているサルべージ王、ロバート・マークスとのコラボの話。サンゴを“植樹”するプロジェクトの話…。

「ひょっとしたらね、俺が死んで50年ぐらい経ったら、猪木はすごいやつだったって、言われるかもしれない(笑)」

リングにおける闘いの方は、きっとIGFで後継者が誕生するであろう。その一方で、こうした様々な新発想・新事業もまさにイノキゲノム。こっちの方の後継者は…。

「探さないとなあ(笑)やっぱりおもしれーことしていきたいし」

1943年横浜市生まれ。中学生のときにブラジルに移住、17歳で力道山にスカウトされ、日本プロレスに入団する。21歳から2年間、アメリカで武者修業。帰国後、23歳のとき、東京プロレスに参加。29歳で新日本プロレスを旗揚げする。力道山からの“闘魂”を伝承したことを自認し、ストロングスタイルのプロレスを追求。「いつ何時誰の挑戦でも受ける」という旗印の下、76年には、ウイリエム・ルスカ、モハメッド・アリ、アクラム・ペールワンらとの異種格闘技戦のリングに立ち、今日の総合格闘技のルーツを築く。同時に1970年代後半からのプロレス黄金時代の立役者となる。89年には参院選に出馬し、見事当選。以降、世界を視野に入れた様々な活動に拍車がかかる。98年にプロレスを引退。IGFは猪木が立ち上げた4つめの団体。12月20日には有明コロシアムIGF『GENOME2』を開催。なお、IGF DVDボックスはポニーキャニオンより発売中。

■編集後記

ジョニー・バレンタイン戦が23歳。すぐ『日本プロレス』に戻ることになったが、これ以降、猪木はビッグネームとなり、馬場とのタッグで人気を博す。当時『日本プロレス』を中継していたのは日本テレビだったが、テレビ朝日が参入。3年後、日テレは馬場戦、テレ朝は猪木・坂口戦を中心に放映するという体制が始まる。結果的にこのとき、猪木と馬場の新団体設立の布石が打たれたことになる。実際に猪木が『新日本プロレス』を立ち上げるのは、さらに3年後のこと。

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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