「俳優生活で初めてのことなんです」

藤田まこと

2008.02.28 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
志の高い映画である。映画であることを忘れる

映画『明日への遺言』の舞台は昭和23年。藤田まこと演じる元東海軍司令官・岡田資中将はB級戦犯として横浜地方裁判所の法廷にあった。名古屋空襲の際、捕虜になった38人の米軍機搭乗員を、正式な裁判を行わずに処刑した罪で。裁かれるのは、指揮をとった岡田中将と直接捕虜に手を下した15人を含む全19人。検察側の証人として喚問された東海軍元幹部たちの、手のひらを返した証言もあって、彼らは殺人の罪に問われる。

当の岡田中将は一貫して姿勢を変えなかった。まず、“米搭乗員は軍事施設だけでなく、無差別爆撃を行った戦争犯罪人であり、処刑は正当な処罰である”ということ。“部下たちも裁きの場にいるが、すべての責任は命令を発した自分にある”ということ。

元幹部たちとは真逆のスタンス。いかに占領下にあっても、米軍による無差別爆撃は一種の大量殺人であるという主張を曲げず、その一方で部下たちを命がけで守る…重い映画だ。

「小泉堯史監督が書いた映画の脚本は、ほとんど当時の法廷で岡田資中将が発言した記録どおりなんですね。たいがいの映画は脚色するもんだけど、今回は一切それがなかった。セリフではなく、99%が岡田資の発言なんです。これはちょっと参りましたな…」

引き受けるまでに相当悩んだという。

「実在の人物。でも時代劇の登場人物とはワケが違う。たった60年前ですから。しかも話すのはセリフじゃない。でも、だからこそ、最後まで日本人としての品格を忘れずに法廷で戦った岡田資中将の精神に、少しでも触れることができたらなと。そんな思いでした。けどね、“うまくやろう”とかは全然思わなかったなあ」

こんな役で、こんな演技をするのは長い俳優生活のなかでも初めての経験。あ、“出来高払い”もそうだった。

「大企業が後ろ盾してくれそうな話じゃないでしょ(笑)。いま、邦画が盛り上がってると言われてますけど、私、新聞で読んだんですよ。それは大きなタイアップ企画が当たっただけであって。“このままだと、日本の映画は衰退の一途だ”と書いてあった。おそらくこの映画は、テレビでどんどん宣伝してもらうには難しい作品ですよね」

なるほど“欲”なのかもしれない。“作りたい”という強烈な思いをコアに、多くの人々からの出資を得て実現した映画である。たまにはこんな作品が成功を収めないと、本当に“日本の映画は衰退の一途”をたどる可能性がある。

「まあこうして必死になって全国廻ってるわけです、足を使ってね(笑)」

…実はこの取材の後、いくつかの大きな企業が協讃についた。日本の映画の行く末も暗いばかりではないのだ。

流転。上昇下降。変わらず人生は激流

何だかすごい流転の人生なのだ。

もともと俳優だった父上のお供で旅回りの一座についたのが58年も前、高校1年生のとき。その後、歌手を目指して上京したり、前座歌手として旅回りしたり。その道中で、倒れた司会者のピンチヒッターを務め上げる。やがて声帯模写などもこなし、器用さから重宝されてギャラは数倍に! そんな20代前半のころ、戦後の上方漫才を代表する“爆笑王”、中田ダイマル・ラケットのダイマルから声がかかる。

ノリノリの若手を見初めたわけではない。そのまま司会を続けていては芸人としてダメになる、と諫めたのだ。

かくして藤田まこと、本格的に喜劇の道へ。結果、収入は10分の1に減ってしまったが、「端役でもちゃんと舞台で芝居がしたいと思ったんですな」。

テレビ出演もこれがきっかけ。24歳のとき、ダイ・ラケと森光子主演の『びっくり捕物帖』が最初。その後『スチャラカ社員』など、いくつかのコメディに出演。大阪をベースにまたもや活躍し始める。そして28歳のとき。

「ドラマはみんな生放送でね。僕はある番組の冒頭に製薬会社の生コマーシャルをやっていたんです。栄養ドリンクを飲んで、フレーズを言うだけなんですが、普通にやってもしょうがない。自分で考えていろんな人物になってやりましたな。そしたらあるとき広告代理店の人に“ええもん見せたるわ”って言われたんです。視聴率ですわ。僕のコマーシャルが流れている2分30秒の視聴率が三十何パーセントもあるんですよ。そのあとはがくーんと落ちていると。当時は視聴率なんて一般的ではなかったんです。だから私、初めてそのとき“人気”というものを具体的な数字で見た。“ひょっとしたら俺も、何とかなるなあ”と思いました」

プチ・ブレイクだ。そして主演の話が舞い込む。ディレクターの澤田隆治は新番組の出演に際して、藤田まことにとんでもない条件を出した。

「各局でいろいろやっていたことを、全部断ってこいと。“主演がよその番組で脇だったら示しがつかない”とかで。それだけのギャラをくれるのかと思っていたら、普通の1本分やった(笑)」

それが『てなもんや三度笠』。のちに関西で最高視聴率64.8パーセントをたたき出すお化け番組である。

「僕は当時、関西でいちばん後発だったので、関西の先輩諸氏は番組に出てくれなかったんですね。東京のコメディアンがどんどん出てくれたんです」

この番組はお笑いの東西交流のルーツとなった。しかも大阪制作としては異例の東京ネットを獲得。「…ということになると、東京のプロダクションが、売り出したい歌手をどんどん送り込んできて、セリフを言わす、歌を歌わす」。 それがまた新鮮で人気はうなぎ上り…。

「やりながらも思ってましたね。まあ、これがずーっと続くことはないな、と」

“てなもんや”は栄養分の最後の一滴まで絞り尽くして、6年で終了。またもや全国、旅から旅へ。キャバレーを回ってコントをすることになった。

焦りはあるようなないような…昔の生活に戻っただけ。意外と生活にも困らない。でもテレビもまたやりたい。

「土日しか仕事がなかったから、平日は下手の横好きでゴルフばっかやっとったんです(笑)。まあ、その間に芝居を観に行ったり。あー、本はこのときにいちばんよく読みましたね。ふと2週間ぐらい時間が空くとブロードウェイに行ってミュージカルやらストレートプレイやら観て、その4年間はかけずり回っていましたよ」

では“その4年間”とは一体何か。『てなもんや三度笠』終了から『必殺仕置人』放送開始までの期間である。昭和47年、必殺シリーズの第2弾として始まったこのドラマに、藤田まこと演じる中村主水が初登場するのである。

「“必殺(仕置人)”では鍛えられましたな(笑)。深作(欣二)さん、工藤(栄一)さん、大映の三隅(研次)監督に手取り足取り、芝居ということを教わりました」

53歳のときにはブロードウェイで惚れ込んだミュージカル『その男ゾルバ』を日本に持ってきて自ら主演。酷評されるも、カナダツアーに出ていたオリジナルの舞台に密着して4年後に再演、芸術選奨文部大臣賞で見事にリベンジ。60歳のときには30億円もの借金に見舞われるが、とにかく働いて完済。

「芸能界というのは、今日はあるけど明日はないような世界です。僕はとにかくなんでもやろうと思ってきた。なんでもやって、もうひとつ上の段階へ上がっていこうと。いま、パンツ一丁で出てる芸人さんがいるけど、僕もああいう芸人でした。パンツ一丁でやってたのと違いますよ(笑)。そういう段階があったんです。それで早くズボンをはこうと必死だった。そして次は上着を着、ネクタイを締められるようになる。1段ずつ上ってきた感覚ですよね。もう、つねに地道に上がっていくしかないわけでね」

それはまだ終わっていない。今回の映画の演じ方に関して、全国を回るキャラバンについて、たしかにこう言ったのだ。藤田まこと、74歳。旅回りの一座の雑用係も含めると、芸歴58年。

「こんなことは初めてです」

1933年東京都生まれ。京都育ち。高校1年生のとき、旅回りの一座について回って以来芸能界入り。歌手、司会者、声帯模写の芸人などを経て、24歳でテレビデビュー。テレビの初主演は29歳のとき。『てなもんや三度笠』のあんかけの時次郎で一気にブレイク。小休止の後、39歳のとき、必殺シリーズ第2弾『必殺仕置人』に中村主水として登場。96年の映画『必殺! 主水死す』で一旦退場したが、昨年のスペシャルで元締めとして復活を遂げた。またスペシャルドラマ『京都殺人案内』は79年からシリーズ30作が現在も継続中。映画『明日への遺言』は上の“必殺!~”以来の主演。歴史的名演である。3月1日より全国ロードショー。

■編集後記

『てなもんや三度笠』は29歳から35歳まで関わった作品だった。人気は意外と簡単に落ちてしまった。最終回の数カ月後に、藤田まことは番組の脚本家・香川登志緒に会った。「“あんかけの時次郎という役が僕の中から抜けてしもうたんですわ”って言ったら、先生、“あれはみんなでキミの中へ押し込んだ役やからな、それでええんや”って。そう言われてすごくうれしかったなあ。それでよかったんや、また自分の中に新しい役入れなアカンなあと思ったんです…」。

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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