「とことんダメになればいい」

有田哲平

2008.03.27 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 高木昭仁=写真 photography AKIHITO TAKAGI
以下は制作のネタバレ。観てざわざわしたいなら

…次の見出しまで飛ばすべし。

「作中の僕は映画を撮りたい人です。スムースにことを運びたいのに、みんなはそうさせてくれないというのが基本。“その芸人さんがもっとものびのびできるのは何かな”って考えて、設定を決めました。岡田くん(ますだおかだ)は等身大で金に汚いヤツがいいなとか。ホリケン(ネプチューン)はフィックス(=固定)で画面にいるよりは、思いついたときに入ってくれる方がいいなとか。清水ミッちゃんはカメラにフレームインしてくる人だ…とか」

普段からよく知っている大好きな芸人ばかりだから、“最高”を出してもらうのに、あまり苦労はなかった。

「だいたい1人2時間ですね。撮影の前に1時間ほど打ち合わせをして、設定を伝えて、そのあとは台本なしのぶっつけ。カメラは60分回しっぱなしで、テープが切れたら終了。最初はね、15分ぐらい撮って5分ほど使って、それを10人分…すごく贅沢な50分を作ろうと思ってたんです。でも、とんでもないです。カメラがカチャッていうから“どうしました?”って聞いたら、“60分終わりました”って(笑)」

“芸人の性”がそうさせるのだ。普段してることをカメラに収めて、公開しただけという考え方もできる。

「お笑い芸人が楽屋に集まったら、いわゆるミニコントと呼ばれるものが始まるんですよね。誰かが急にスタッフという設定で入ってきて“オハヨウゴザイマス~、今日大丈夫ッスか?”みたいなところから勝手に始めて。芸人って結構みんなやってんですよ。ミニコントっていうわりには2~3時間やってることもあるし。これは芸人の数だけあるし、次はまた違う人のとか、今回の人の違うシチュエーションも観てみたいですねー」

何にも染まれず、芸人。そして“適当の地平”へ

有田哲平は現在37歳、実はもともとは社長令息。大型犬とドイツ車のある生活が普通だった。くりぃむしちゅーの相方・上田晋也は熊本県立済々黌高校の同級生。高校時代からふたりで『お笑いスター誕生』を観ながら“出てえなあ”なんてつぶやいていた。

上京するのは立教大学に入学するため。芸人とか何とかではなく、バラ色のトーキョー・ライフを目指した。

「でもなじめませんでした。入学式からすでに附属校出のヤツらがグループを作ってて、かわいい女の子はみんな取られてた。もうダメだ、と。そこから毎日1人で喫煙所ですよ。クラスのヤツは、ラクロスの棒とか持って“いこーぜ!”とか言ってんのに…」

そこで勉学に生きようと決意した。

「就職活動の時期になると、いまエンジョイしてるヤツらは絶対に困るはずだと思ったんです。それで僕は弁護士になろうと決意しました。ヤツらが“内定が取れねーよ”とか言ってるときに“ゴメンね~、オレは司法試験やってきたのよ~”って。でも参考書を見た瞬間に挫折しました」

そして運命のコンパは開催された。この夜、有田の人生は決まる。

「内輪ウケのイヤな感じのノリで。僕も頑張ってなんか言うんですけど、ウケない。そりゃそうですよ、空気作りも何にもできてないし、僕だって大して面白いことは言ってない。いい加減カチンと来てるところに、“有田くんって将来何すんの?”って聞かれて、つい言ったんです。“お笑い芸人でトップ取るから…マジで”みたいなことを、カッコつけて。そしたら“すげえサムイんですけど”って言われて」

思わず「芸人」を口にする。逆恨みだし、不純だ。遊びからも勉学からも見放されたところに、たまたまお笑いがあっただけなのだから。が、奇跡は起こるのである。まずコンパの場所が下北沢で、上田の家が久我山だったこと。上田自身も東京になじめずその日も家にいたこと。そして有田は上田邸に泊まりに行く。まさにその日、上田晋也が芸能事務所に履歴書を書いたのだ。

「それで僕も一緒に書いたんです。あまりにドラマチックですけど、実話。あの日僕が行かなかったら、アイツは今ごろピンですけどね(笑)」

ふたりは大学2年生のときに、コント山口君と竹田君の付き人になり、海砂利水魚という名を与えられる。最初はツッコミ。ボケに転じたのは1年後。

有田には、“芸人はかくあるべし”という理想像があった。家庭が貧しく、苦しい生活のなかで上を目指すこと。この型に自分を当てはめようとした。仕送りを自ら断り、大学3年生のときに大学の中退を報告したら、「感謝されました。オヤジがやっていた会社が潰れて、わが家は借金まみれで大変なことになってたみたいだったんです」。

そして両親は離婚、父上は他界。

「僕は普通にいい暮らしをさせてもらってたけど、期せずして自分でやっていかなくちゃならなくなったんです。顔色が変わったって先輩たちに言われました。“ここからだぞ”って」

一皮むけた。25歳のころには、名も知られ、いくつかのレギュラー番組も抱えていた。『ボキャブラ天国』に参加したときも、レギュラーが1本増えたという程度の意識だった。

「ホントは誰よりも笑いを取りたいのに、前に出て行くヤツらを邪道だと言って、クールを決め込んでました」

彼らのキャッチコピーは「邪悪なお兄さん」。有田は、緻密な〈ボケ・マエストロ〉たらんとしていた。時折、切れ味鋭いボケを発し、あとはニヒルに微笑んでいる。が…「思いつかなかったから、黙ってただけ」。

不幸を糧にプロ意識を身につけた。が、まだブレイクではなかった。最大の転機は00年、29歳のとき。

“ボキャ天”終了後、多くの芸人たちがブレイクするなか、海砂利水魚は微妙に中堅っぽい位置を保持していた。そんな折、有田は、萩本欽一が演出する東八郎十三回忌公演に出演する。

「それは大衆演劇的な舞台で、実はあまり乗り気じゃなかった。台本は東MAXなんですが、“そんなベタじゃなくて!”って戦ってたんですが、途中から面倒になってふざけるようになったんです。オレだけ毎回ヘンなテンションで。普通に“おじゃまします”でいいところを、“オジャアァシメアアアアア~ッス!”とか言って、ひたすら稽古場でのウケを狙ってました。あるとき萩本さんの前でのリハーサルで、普通のやり方に戻したんです。こんなの本番でやるつもりないですから。そしたら“ダメだ有田くん、ちゃんとさっきのをやりなさい”って。“あれは楽屋オチなんで”ってお断りしたら、萩本さんが言いました。“キミはもともと適当な人間なんだから、真面目に考えてやると魅力なくなるよ”」

結局、本番もふざけたまま。まったくウケなかった。が、30分が過ぎたころ空気が変わったという。

「徐々に浸透していって、最後には“オマエだけだな、おいしかったのは”って言われてました。いろんな関係者の方が楽屋に来てくれて“よかったよ”と。それでレギュラーが何本か決まったりもしたんです。要は受け手のことを考えないといけないんですよね。そのときは何のギャグも言ってません。でも観た人が面白いと思ってくれた。僕はボケ至上主義でした。面白いボケがあれば言う。なければ黙ってる…それって何なんだろうって思いましたよ」

次のある収録ではオープニングから“おでぃえいえいーっす!”。

「MCの方がすぐに絡んでくれました。やっぱりねグワーッと、むちゃくちゃにまで振り切った方がいいです。中途半端じゃダメですよ。このままでいいんだろうかって思うようなことがあったら、だましだましではなく、とことんダメになればいい。会社に行かない。動かない。ひたすら食う。根っから“最悪だ!”って思うまで行き切ってしまわないと、何も起きない。完全にダメ人間になって初めて、新しい世界が見えてくると思いますよ」

1971年2月3日、熊本県生まれ。くりぃむしちゅーのボケ担当(デビュー当時はツッコミ)。高校卒業後、大学進学のため上京。立教大学2年のとき、上田晋也と海砂利水魚を結成。コント山口君と竹田君の付き人としてキャリアをスタート。94年ごろから徐々にレギュラー番組を獲得。『タモリのボキャブラ天国』では、「ブレイクし損なった」という発言もあるが、3代目グランドチャンピオンに輝いている。00年『新・ウンナンの気分は上々』にて、罰ゲームでくりぃむしちゅーに改名。4月より『くりぃむナントカ』 (テレビ朝日系)が水曜日19:00~に昇格。新番組『大御所ジャパン!』(TBSテレビ系)がスタート。単独では『むちゃぶり!』(TBSテレビ)に出演中。初監督・主演DVD『特典映像』は3月26日発売。3枚組ボックスセットは9990円

■編集後記

ホントにクールなフリをしていました、と笑う。「ボケがポンポン出てたなら、もっとしゃべってたと思う。今にして思えばしゃべりながら思い浮かぶタイプだったんですよ。学生時代がそうでした」。職業になった途端、なめられてはいけないと思うようになった。「テレビに出るにあたって、先輩たちの番組にはダメだと決めてました。そこに出たら、負けになるから(笑)。そんなしょうもないプライドとか戦略とか、どうでもいいんですよね。呼ばれたら“ハーイ!”。また呼んでほしいからがんばる、それだけなのに(笑)」

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
高木昭仁=写真
photography AKIHITO TAKAGI

関連キーワード

注目記事ピックアップ

 

編集部ピックアップPR

ブレイクフォト