「飛び立ったら必ず帰ってくること」

押井 守

2008.05.08 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
積極的な決断なきまま成り行きでアニメの仕事に

基本スタンスは「成り行きに抵抗しないこと」だという。大学時代は8ミリやら16ミリ映画を撮りまくっていた。映画を観ては「そのシーンの自分なりの撮り方を考えていた」。でも、6年かけて卒業してから得た仕事はラジオのディレクター。誰から何の教えも受けず引き継ぎもなく、いきなり番組を作らされるはめに。8カ月で疲れ果ててリタイヤ、小さな会社で事務の仕事をするようになる。べつに事務を志していたわけではなかった。

「まあ落ち着いたら、脚本でも書こうと思ってたんだけど。当時25歳でもう結婚していて。奥さんも働いてる手前、家でゴロゴロもしてられないんで。9時~5時だけど実働2~3時間の圧倒的にヒマな職場だったね。本読んでメシ食って、時間が余ったら『ガッチャマン』の再放送観たりエキスパンダーで体鍛えたりしてた(笑)」

ヒマさの極みに苛まれ、きちんとした一生の仕事を決めるべし、と美術教師になることを決意する。

「それしか資格がなかったからなんだけど。それで映画もあきらめようと。ところが面白いもので、人生のほうが僕を往生させてくれなかった。願書を預けておいた友だちが出し忘れてさ、来年までまたないといけなくなった。でもさすがにもう1年、事務仕事をするのはちょっとキツかった」

どうしようかと国分寺を歩いていたら、ある募集の貼り紙が目に入った。タツノコプロと書いてあった。

「あ、知ってる、『ガッチャマン』のところだ、と。で、受けてみたら受かっちゃった。これが26歳のとき。やってみたら向いてることがわかった」

実際に「向いてる」と言われた。入社3週間で演出家になり、3年で監督になることもできた。しかも飽きない。「自分は、いろんな人間を集めて旗をふったり説得したりして何かを作ることが好きだったんだね。アニメーションの世界って基本的に人手不足だから、やれる人間にはどこまでも仕事をさせる。手を挙げれば挙げるだけ仕事が来た。忙しさのあまり逃げたこともあるんだけど基本、楽しかったよ」

80年、29歳のときスタジオぴえろに移籍。翌年『うる星やつら』のチーフディレクターに抜擢。劇場版の『うる星やつら オンリー・ユー』(83年)、第2作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(84年)などを手がけ、監督としても認知されてゆく。

うまくやればまた新たな仕事を任され、それをまたうまくやって次…今日、押井 守が掲げる監督の勝利条件の雛形は、ほぼ最初からあった。

「自分が決めるわけではない。周りの人間が望む通りのことをやってみせるとね、突然視界が広がるということを、偶然にも学んじゃったんだよね。だから、やりたいことじゃなくて、向いていると言われたことをやってきた。僕は最初はギャグで売っていた監督だったけど、それはみんながおもしろがってくれたから。評価を実現しないと、次に飛べないこともわかっていたし。頼まれた条件のなかで、自分が何をやれるのかを考えて実践してきたんだけど…」

85年、フリーになって撮ったアヴァンギャルドな一作『天使のたまご』で壮絶な墜落事故を起こす。

限られた燃料と時間で絶対に行って帰ってくる

「宮(崎駿)さんが言ってたけど、特攻隊と一緒だったって。やるときに誰も説得しなかったし、わからないやつは放っておいてもいいと。そうして客を乗せたまま思い切り高いところまで行って、でも客はそんなつもりで乗ったわけじゃなくて…そもそも運航すること自体が間違いだったんだよ。ただし、高高度飛行記録は作った。そういう自負はいまでもある。非常に素晴らしいものを作ったんだという自信はある。だけど、まっさかさまに落ちた」

映画をきちんと着地させられない“危険なパイロット”の烙印を押され、3年ほど干されたと言う。アニメーションの仕事はなく、自ら作った企画書の山に埋もれながら確信した。

「当然だけど、飛行機は飛び上がったらちゃんと帰って来るもんだ、と。何をしてもいいけど、最終的には原っぱだろうが滑走路だろうが、見事に着地してみせることを学んだね」

88年OVA『機動警察パトレイバー』を手がけ、翌年その劇場版で完全復活。

「選り好みしなかったら、ひさびさにでかい飛行機を操縦するチャンスが来たんだね。で、やってみたら、操縦桿は前よりもはるかに軽かった。知らないうちにスキルが上がってた(笑)」

ジャンボジェットを無事降ろせることを証明して見せたのだ。

「飛びたつまではみんな面倒みてくれる。でもそれ以降が監督独自の世界なんです。ときには夜間飛行をやらなきゃならない。台風のなかでも飛ばなきゃいけない。しかも、帰る方法は誰も教えてくれないし、管制官…プロデューサーの言うことを聞いていたら墜落する可能性もある。望む滑走路に進入できないケースもある。そこが監督のおもしろいところでもある」

世界を席巻した『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』に、日本のアニメ史上初めてカンヌ映画祭のコンペティションに出品された『イノセンス』しかり、復活以降“成り行きの守”は“世界の押井”へと変貌してきた。が、相変わらず小さな作品にも嬉々として関わっている。

「僕はたぶんね、監督としては珍しく、軽飛行機からヘリコプターからジャンボまで、かなり手広く操縦してきた人間なんだと思う。普通はジャンボのパイロットになったら、軽飛行機にはもう乗らないんだけどね(笑)。僕はいまでも、あらゆる機体を操縦することが…つまりは演出すること自体が好きなんだと思う。それで、いまはもう絶対にどこかに降りることに関しては自信を持っている。いい気流のときはどんどん高く上がって、ダメなときは低空飛行で安全に運転。それもこれも次に飛びたいから。そうしてやってきたら、結果的にいま、結構自由気ままに飛行機に乗れるようになったんだよなあ(笑)」

1951年東京都生まれ。東京学芸大学教育学部美術教育学科卒業後、ラジオディレクター、会社員を経て26歳のときタツノコプロへ。『タイムボカン』シリーズなどの演出を手がけ、29歳のときスタジオぴえろへ。『うる星やつら』のチーフディレクターを務め、劇場版2作“オンリー・ユー”“ビューティフル・ドリーマー”を監督。代表作に『機動警察パトレイバー』『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』『アヴァロン』など。04年『イノセンス』で日本SF大賞を受賞。次回作は8月公開、飛行機乗りを主人公にした大作アニメーション『スカイ・クロラ』。『真・女立喰師列伝』DVDは3枚組ボックスセット(初回限定)とスタンダード・エディションが発売中。

■編集後記

タツノコプロでの演出デビュー作は『一発貫太くん』。『タイムボカン』シリーズも数多く担当した。「入社1年くらいで、常時7~8本は担当してましたよ」。26歳でのキャリアのスタートは遅い方だが、社会人経験や結婚など、他の同僚よりも成熟していたことがプラスに働いた。ラジオでの“無”からのディレクター経験は、演出への近道にもなったという。アニメの世界に入って7年ほどでフリーランスに。このころが「もっとも食えなかった時代」だという。

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