「喜劇人生50年」

伊東四朗

2008.06.05 THU

ロングインタビュー


藤井たかの(steam)=文 text TAKANO FUJII 稲田 平=写真 photography PEY INADA
主役を引き立たせる脇役に喜びを感じる

「今のお父さんはみんな優し過ぎるもんね。逆にあたしの父親なんか、口よりも手の方が先に出る。お箸の持ち方ひとつで、お膳の向こう側から手を伸ばしてバーンってぶちましたから。叩かれるとよく覚えますね」

役の話である。映画『築地魚河岸三代目』は、エリートサラリーマンの赤木旬太郎(大沢たかお)が、会社を辞めて恋人の明日香(田中麗奈)の家業である築地市場の仲卸店「魚辰」の三代目を目指すストーリーだ。玄人の真剣勝負の厳しさに、戸惑いながらも成長していく赤木。そんな赤木を言葉少なに厳しい目で見守るのが、「魚辰」の二代目・徳三郎だ。

「これ二代目になってますけど、おそらく店は築地の前、日本橋に市場があった時代からつながってるんじゃないかなと。自然と江戸弁も出てくるし、江戸気質というものが身に付いた人なんだろう、そう思って演じましたけど」

本人も東京の下谷区(現在の台東区)の出身で、役が板についている。親友役である鮨屋の主人(柄本 明)とのやりとりも風情がある。

「あたしはこの関係がとても好きでね。子どものころから何十年も一緒にいて、同じところで遊び、勉強し、仕事をしている。お互い離れがたい仲のくせして、ふたりきりだと妙に照れくさい」

相手の目を見ず、将棋を介して仲直りする。不器用な男の姿である。徳三郎をはじめ、魚辰の大黒柱で目利きの達人 英二(伊原剛志)や、威勢がよく短気な雅(マギー)など、アクの強い名脇役が顔を揃える。彼らがいるからこそ、赤木が世話焼きな“築地の男”になる瞬間がグッとくるのだ。

「あたしは、もともといつかは主役にと思ってこの世界に入ったわけじゃない。脇役として主役を、また作品を引き立てる。そういうことに喜びを感じる」

実は、役者になるつもりもなかった…。

25歳でものにならなければ見切りをつけて辞めよう

子どものころから父親や兄に連れられて、歌舞伎やエノケン(榎本健一)の舞台を見に行くことはあった。しかし、役者になる気持ちはなく、高校を卒業してサラリーマンを目指すが…。

「10社以上受けましたが、ぜーんぶ落ちましたから(笑)」

やむなく、早稲田大学で牛乳を売るアルバイトを始め、時間を見つけては歌舞伎を観て、ストリップ劇場に通った。目当てはヌードではなく…いや、それもあったけれど、ショーの合間に行われる軽演劇。当時、新宿や浅草などのストリップ劇場では渥美 清や由利 徹、南 利明、石井 均といった、後の大物喜劇人が出演していた。いつしか楽屋にも顔を出すように。

「石井 均さんに『新しい一座を作るから出てみるか』って誘われたんです。同じとき、生協で正社員にならないかって話をいただいて。ふと、“俺は牛乳の蓋を開けつつ一生を終えるのか”と思って。21歳のときですね」

舞台を選んだ。初めての役は公衆便所からジッパーを上げながら去るだけ。

「誘ってくれたんで、とりあえずやってみよう。軽い気持ちですよ。25歳でものにならなかったら、見切りをつけて辞めようと思ってましたから」

24歳のときに石井 均の一座は解散した。その少し前から、夜にキャバレーの仕事を始めていた。

「キャバレーってのが、また変な世界でね。こともなげに、『えー、今晩は新宿の店が10時、次の赤羽の店が10時でお願いします』って言うんですよ。おんなじ時間じゃないですか。『そこはほら、神出鬼没で』って(笑)。新宿は少し早く入って、赤羽はちょっと遅れてごめんなさいって。それでも間に合うわけがない。時代劇のコントをやってましたから衣装着たまま電車に乗って、化粧したまんま」

無茶な仕事でも誠意を持って臨んだ。でも、さすがにへこんだことも…。

「夏のオバケのコントで、懐中電灯で顔を照らし棒の先にアルコールしみ込ませて火の玉つくって、客席をまわってたんです。そしたら、『お前伊藤(本名)じゃないか』って同級生に会ったんです。突然声変えて『違うぞ』なんてごまかして。こっちはバカやってるってのに、向こうは飲んでる。ひどい格差(笑)」

結局25歳になっても食えなかった。転職も考えクルマの免許も取ったが…。

「その時点でもうほかのことができなくなっていたんです。喜劇の面白さにどっぷりハマっていました」

その後、一緒にキャバレーの仕事をしていた三波伸介、戸塚睦夫と「ぐうたらトリオ」を結成。26歳のときに「てんぷくトリオ」に改名した。昭和38年、テレビ演芸ブームの夜明けが近づいていた。

ボサボサ頭にダリ風の髭電線音頭で大ブレイク!

昭和40年代に演芸ブームが巻き起こり、テレビの出演が増えてきた。28歳でバラエティ番組『九ちゃん!』のレギュラーに抜擢、『てなもんや三度笠』など公園コメディにも出演した。そして、コメディアン伊東四朗の名を世に知らしめたのが、昭和51年の『みごろ! たべごろ! 笑いごろ!!』。小松政夫との名コンビが生まれ、さらに…。

「プロデューサーに、『電線軍団を作りたいから、伊東さんはその団長になってください』って頼まれて。追いつめられてサーカスの団長みたいなコスチュームを考えて、誰だかわからないように名前もベンジャミン伊東にして」

バカバカし過ぎてすぐに終わると思っていたが…まさかの大ブレイク! 「電線音頭」はボサボサ頭にダリ風の髭、キンキラコスチュームでお茶の間に強烈なインパクトを与えた。特に目が完全にイッちゃってて、ダリのシュルレアリスムとまで評されたことも。

以後、白子のりやタフマンのCM、『おしん』の父親役などにも抜擢され、俳優としても活躍の場を広げる。生真面目だけど、どこかとぼけた感じ、そんな魅力が引き出されていく。その背景には歌も踊りもなんでもこなす、喜劇で揉まれたことが大きい。

「これも持論なんですけど、喜劇のなかには芝居の大切なことが全部詰まってると思うんです。これから役者を目指す人は一度は喜劇をやった方がいい。それも舞台を」

テレビや映画と違って舞台には目の前に客がいる。それも毎回違う客が。

「舞台は勝ち負けがはっきりわかるんです。喜劇は同じセリフ言うのも、同じようにやってたらダメで、お客さんによって毎回ニュアンスが変わる。だから、“間”ってのは、役者が作るんじゃなくて、お客さんが作るんです」

お客がセリフを聞き、理解して、飲み込んだ後に次のセリフを言う。「もちろんゼロコンマ何秒の世界ですが」、ウケるもスベるもそのタイミング次第だ。

「上手くいったときは、舞台の上で“やった! これだ”って思い、密かにガッツポーズ。まぁ、この歳になったら、喜劇はやらなきゃやらないでいいんですが、やっていないと刺激を受けない。結局あたしはスタートが喜劇だから、喜劇だけは忘れまいって気持ちがあるんですね」

渥美 清や由利 徹亡き後、軽演劇で揉まれた生粋の喜劇役者は伊東四朗ただひとり。“最後の喜劇人”として、今でも三宅裕司や小倉久寛らと喜劇の舞台に立つ。たとえそれがハードでも…。

「仕事によって大変だとかね、そういうことは言っちゃいけない。私は言いたくないですね。好きでやってる仕事ですから、大変だってのは“粋”じゃない。野暮でしょうね」

1937年6月15日、東京都生まれ。58年、浅草の松竹演芸場でデビュー。61年に三波伸介、戸塚睦夫と「ぐうたらトリオ」を結成、63年に「てんぷくトリオ」に改名。76年に『みごろ! たべごろ! 笑いごろ!!』(NETテレビ・現テレビ朝日)で電線音頭のベンジャミン伊東で大ブレイク。以後、白子のりやタフマンのユニークなCMをはじめ、『おしん』(NHK)、『笑ゥせぇるすまん』(テレビ朝日)などに出演し、役者として活躍の場を広げる。現在、『脳内エステ IQサプリ』 (フジテレビ)、ラジオ『伊東四朗 吉田照美 親父熱愛』(文化放送)などに出演。芸歴50年を迎えた今でも、ルーツである喜劇の舞台を大切にしている。6月15日まで、伊東四朗一座~帰ってきた座長奮闘公演~『喜劇 俺たちに品格はない』を下北沢本多劇場で上演。6月7日からは『築地魚河岸三代目』が上映。

■編集後記

21~24歳まで石井 均の一座に所属。「25歳までに食えなかったら辞めよう」と、がむしゃらな日々。「盆も正月もない日が400日以上続きました。毎日夢中でやってるしかないから、不安だとか思う暇はなかったですね」。一座が解散した後、三波伸介と戸塚睦夫とぐうたらトリオを結成。「これもいい加減でね。三波・戸塚・伊東トリオじゃ司会者が名前を覚えられない。なんでもいいってんで、“ぐうたらトリオ”」。26歳のときにてんぷくトリオに改名。トリオブームが巻き起こる直前のことである。

藤井たかの(steam)=文
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稲田 平=写真
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