「いまがいちばん燃えたぎっている」

中曽根康弘

2008.07.10 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA
国家がたまっていく…戦争で目にした国民性

「私のなかに国家があるんだ」

その認識が、国会議員への足がかりとなった。東京帝大法学部卒業後、内務省を経て大日本帝国海軍経理学校に入り、海軍主計中尉として戦地へ赴くことになるのだが…。

「小さいとき…中学校ぐらいまでは、偉いのは県知事さんだと思っていたよ。当時は内務大臣が任命する官選知事で、いまのように選挙で選ばれる知事じゃなかった。国民や県民に接して仕事をする知事になりたかった…やっぱり、県でいちばん偉いのは知事さんだったから、心の隅っこにしまってあったのかもしれんね」

政治に携わりたいという気持ちが子どものころから続いていた。同じように、人の心をつかみ、くみ取ることも大切だと思い続けてきた。

たとえば旧制高校時代、寮の献立を決める炊事部の長だった。部は不人気だったが、県内の女子校に共同研究を持ちかけ、それを喧伝することで男子部員の募集に成功した。

「だいたい政治をやるについても、票をいただかなければ当選しないわけだから。“何をみなさんは欲しがっているのか”“それが国家を発展させるのにどう役に立つのか”、そして若い人たちに話をして、自分の代わりに中曽根を国会に入れようという気持ちになってもらう。“国家を発展させるために私(=中曽根)が必要だ”と。それを勉強したんだ」

で、海軍の話である。大学を出て半年で設営隊主計長に任命。2000人の徴用工員を率いて、輸送船に乗って、敵前上陸をする任務を拝命し、東南アジアに赴いた。

「徴用工員たちの履歴書を調べたんだね。なかには刑務所から出て来た連中もかなり多かった。どう動かしていいかわからなくてね。結局、いちばん暴れ者の親分をとっつかまえて、みんなの見本になるように、盃を交わして“俺の子分になれ”と(笑)」 

その後は、中曽根さんの自伝にも詳しいけれど、隊は悲劇に見舞われる。ボルネオ島のバリクパパンに向かう途中、僚艦4隻が撃沈。中曽根さんの船も、船尾第4ハッチが被弾し火災が発生する。闇のなか懐中電灯に照らし出されたのは、ちぎれた首、手足。地獄絵図。そのうち、例の“子分”が背負われて目の前に来た。

「『しっかりしろ!』って言ったら、『隊長すまねえ』と言ったね。それで戦死していった。こうした末端の人たちは純粋だった。そして本当に愛国心が強い。それが私の目を通して心のなかに収まっていった。私もその一員として国のために一生懸命やったつもりだった。そして私の体のなかに“国家がたまっていった”。それが90まで長生きさせている原動力なんだ」

戦後は、内務省に復帰。米軍との連絡将校となるが、「役人は頭を下げることしかできないんだ。アメリカは民主主義の国だから、国民を背景にした議員の立場でなければ交渉できない」と実感した。

46年に発布・施行されたGHQの公職追放令で、中曽根さんの選挙区の国会議員に欠員が出た。

「日本を、1日も早く占領政治から脱却させたかった。マッカーサー体制で作ったアメリカ的な社会構造ではなく、日本的な構造に切り替える。憲法改正がそのひとつだね。教育の改正もそうだね。それから科学技術の振興。戦争は科学技術で負けたと思っていたから」

議員になるべきタイミングだった。

総理大臣にはなった。が、まだまだ志あり

中曽根さんは、いまの若者に「志を立てなさい」と言う。50年ごろ、伊豆山に通った話をしてくれる。

「徳富蘇峰先生に教えを請いに行ったんだ。文化勲章受賞者の、戦前の大文豪だよ。戦争を激励したということで追放されて〈晩晴草堂〉という庵で蟄居されてたんだね。私は若い政治家として、その大文豪から日本に対する遺言を聞いておこうと思ったんだな。そのときに蘇峰さんが大きな字を書いてくれた。“志在天下”…志は天下にありという字なんだ。大きな志を持って政治をやりなさいと。個人的な利益や地域のことだけじゃなく、日本の運命を考える政治家にならなくちゃいかんと」

中曽根さん自身は、60年安保のあと、不惑を少し過ぎて総理の椅子を真剣に考え始めた。後にテレビ朝日社長となる、朝日新聞記者・三浦甲子二から「10年間、役職に就くな」と忠告されたという。「“俺の言うことを聞いたら総理にしてやるよ”って(笑)」。

佐藤内閣で運輸大臣になるのは、それから7年後の話だ。

「その間に“中曽根マシン”を作ったんだ。『メイキング・オブ・ザ・プレジデント1960』という、ケネディを大統領にする戦略を書いた本が出て、今の読売の渡邉恒雄とか、当時新聞記者だった日本テレビの氏家齊一郎とか、東大教授の佐藤誠三郎とか、京大教授の高坂正堯みたいな先生や財界の若手で勉強会を作って読んだんだ。『ケネディマシンを作ってケネディは大統領になったのならば、われわれは中曽根マシンを作らなきゃな』と。この勉強会がのちに中曽根マシンになるんです」

こうした、いわば雌伏の時は、政治家ならずとも必要だと言う。

「各々には各々の人生計画があるでしょう。能力もあるし、環境もある。そういうなかにあって、自分で計画を立てること。それに向かって、ハシゴを自分で作って登っていくことだね。でも、ぼやぼやしていると外されたりすることもある(笑)」

中曽根さんは64歳で首相になる。立てた志に対してきちんと責任を取ったのだ。幼いころ「知事さんのようなエライ人になる」と考えたときから一貫しているのかもしれない。

「いまはみんな欲が小さいね。社会環境がそうさせているんだろうけども、昔はやっぱり青天井でね、爽やかな風景に千の風が吹いていたよ(笑)。だからみんな、大凧、小凧を揚げられたんだ。いまの社会では、千の風が十の風になっちゃってるよ。大空がなくなって小空になっている。そういう社会になったし、そういう環境を自分で作っている。それをぶち破る力がない。要するに小生に甘んずるということだな。大野心家になれということ。25歳? まだ若いんだから、遅くない。矯正はきく」

何しろ90歳である。しかも、事前にアドバイスされた「はっきり大きな声で」なんて不要。

「いまが人生でもっとも燃えたぎっている」と、でかい声で言う。

「国家とは、人民の願いという意味なんだね。私のなかにはそれがずっとある。いまがいちばん燃えたぎっている。なぜかというとね―」

中曽根さんは言う。敗戦後、日本は一心不乱に復興を目指し、東京オリンピックのころには戦前のレベルにまで盛り返した。そして中曽根内閣時代の85年に、GNPを引き上げ、米英と対等につきあえるまでになった。90年代以降はずっと下降ラインを描いていたのを、02年、小泉内閣がストップをかけた。

「5年止めることができた。でも、小泉内閣は、私がやったような政治の本道―たとえば財政とか行革とか、教育―ではなくて、道路と郵政をやっただけだ。どちらかと言えばはじっこのことだ。それを劇場政治として面白くやったんだな。俺に言わせれば印象派の政治だ(笑)。それが終わって、安倍内閣が憲法や教育の改正という本道に戻そうとした。ところが病気で倒れちゃって、福田内閣になって、まだ、下降が続いている。いまはどん底を這っているね。だから、もう一度なんとか上昇ラインに日本を持っていきたい。そして安心してからあの世に行きたいと思っているんだ。いまは日本がいちばんの下降ラインにある不幸なときだけども、私のなかのものはいままで以上に燃えているんだ」

1918年、群馬県生まれ。東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、内務省入省。海軍主計中尉に任官し、設営隊主計長として戦地に赴く。47年、第23回衆議院議員選挙で初当選。以来、03年まで連続20回当選。59年、第2次岸改造内閣の科学技術庁長官に。いわゆる雌伏の時に入るのは、この後。66年、中曽根派を結成。67年、第2次佐藤内閣に運輸大臣として入閣。以降、防衛庁長官、通商産業大臣などを歴任し、82年、第71代内閣総理大臣に就任。国鉄、電電公社、専売公社を民営化する。以来5年間の長期政権を実現。97年、大勲位菊花大綬章を受章。03年、国会議員を引退する。

■編集後記

「私が東京帝大の法学部を目指した当時は戦争前で、大政翼賛会というのができて、政党が解消されたのですが、それを牛耳っていたのが内務省の役人だったんだね。そういう情勢から内務省だと思っていたんだ。東京帝国大学法学部に入らないと、高等文官試験になかなか合格できない状況だったから。ある意味、計画性を持って立てたハシゴを上がっていったということですね。ただ、実は高等学校の3年生までは歴史学が好きだったから、学者になれとも言われていたね」

武田篤典(steam)=文
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サコカメラ=写真
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