「プロローグだけでは終わらせない」

温水洋一

2008.07.17 THU

ロングインタビュー


兵藤育子=文 text IKUKO HYODO 稲田 平=写真 photography PEY INADA スチーム=編集 e…
役者としてのプロローグ。本編はなかなか始まらず

役者人生のプロローグは、高校3年生の4月に始まった。当時好きだった子に勧められて演劇部に入部。後輩に手取り足取り教えてもらいながら、芝居の面白さにどっぷりハマった。奇しくも世の中は演劇ブーム。浪人、大学時代は、「東京乾電池」や「夢の遊眠社」など人気の舞台に足繁く通った。

「気がついたら就職について考えなければいけない時期になっていて、リクルートスーツも買ったんです。でもサークルを引退したらもうお芝居ができなくなると思ったら、もう少しやっていたくて。そんな頃に大人計画に出会ったんです。でもプロの役者を目指すつもりはまったくなく、ただお芝居が好きだからずっと続けられればいいという気持ちだけでした」

卒業を待たずに愛知から上京し、旗揚げ直前の大人計画に入団したのは24歳のときだった。

「当時、メンバーは5人くらいしかいませんでしたし、半年に1回しか公演がなかったので、それ以外はずっとアルバイトをしていました。公演の2カ月くらい前から集まって稽古をして、終わるとみんなバイト生活に戻る。最初の2年はそんな感じでしたね」

誰もが想像しうる貧乏な劇団員のイメージを地で行く生活だったのだろう。「劇団員に限らず25歳くらいのときは、みんな貧乏ですよね」と今でこそ昔を懐かしみながら開き直って言えるものの、劇団員の貧乏っぷりは、やはり徹底している。

「家賃を滞納して、大家さんに部屋のドアを紙で糊付けされ、封印されてしまったんです。でも部屋の中にある衣装がどうしても必要だったので、夜中にトイレの小窓から忍び込みました。下北沢の住宅地だったのですが、泥棒に間違えられるんじゃないかと思って、気が気じゃなくて」

仮に目撃者がいたら、10人中10人が泥棒と思うだろう。そんなにハラハラするならばやめればよいものを、トイレを玄関にした生活はその後も何日か続いた。最終的には大家さんが根負けして、5カ月の滞納分を3カ月に値引きしてくれたのだが。居たたまれずに引き払ったその部屋は、家賃2万5000円の風呂なし物件だった。

「生活は苦しかったけど、やっぱりお芝居は面白くて。お客さんの動員が少しずつ増えて、公演期間も最初は3日間だけだったのが、1週間、2週間と長くなっていく過渡期でした。舞台を観に来た人が声をかけてくださって、ほかの仕事につながったりなど、人間関係もどんどん広がっていきました」

声をかけてもらったオーディションに合格して、演技でお金がもらえるのかと、しみじみ驚いた。

「でもやっぱり職業としては全然考えていなかったし、履歴書にも“俳優”とは恥ずかしくて書けなかった」

劇団とアルバイトを両立させながら、合間に舞い込んできた仕事に飛びつく日々。悪くはないが、最高でもなかったのだろう。30歳で大人計画を離れることを決意する。

「大人計画に6年間いて、阿部サダヲくんやクドカン(宮藤官九郎)など若い人もたくさん入ってきて、初期の頃とは状況も変わりつつありました。ずっといても居場所はあったのでしょうけど、僕自身が舞台以外にも興味を持つようになったんです。かと言って、次はこれをやるぞ!っていう意気込みがあるわけでもなく、大決断という感じではなかったんですけど」

大人計画を辞めてはみたものの、年に数えるほどしか仕事はなかったし、年収は200万円にも達しなかった。

「でも役者を辞めようと思ったことは、はっきり言ってなかったですね。劇団を辞めて事務所に入っていない時期もありましたが、それまでのつながりでVシネの仕事やテレビのちょい役をもらったりして。変質者の役とかも大好きだったから、喜んでやってました」

32歳までアルバイトを続けていたが、やがて履歴書などの職業欄が「フリーター」から「俳優」へと変わる。

「確定申告のときも、この年収で俳優はないだろうって思ったりしたんですけど、そう書いておいたほうが手続き上、安心かなと思って」という、消極的かつ謙虚な理由からだったが。

先のことは考えられない。ただし、笑いは別

長すぎるプロローグといえるだろう。断続的に来ていた仕事が、舞台からドラマ、映画、CM、バラエティ番組というふうに、あれよあれよと転がりだしたのは、36歳のときだった。

「今44歳ですけど、ようやく年齢が見た目に追いついてきた気がします。でも年齢を言うと、まだまだ驚かれますけど(笑)。最近は台本をもらってキャストを見ると、年齢的に上から数えたほうが早い場合が多いんですよ。一方で20代の頃の舞台を映像で見ると、こんなキレた演技を今は絶対にできないなあと思います。なんであんなに尖った目をしてたんだろうって」

年齢を重ねて失ったものもあるが、獲得できたものもある。若い頃より演技の引き出しは増えたが、過去の引き出しにしまっているものが、今の時代にそのまま使えるわけではないことも、もちろん知っている。

「20代のとき、10年後の自分がどうなっているかなんて想像もつかなかったし、今だってせいぜい1年先の予定しか立てられないんです。だからこんなふうになってみたいとか、こんなふうにありたいという理想は、昔からほとんど思い描いたことがないですね。ただし、笑いに関してはちょっと別。笑いって、年とともに感覚が一番ずれてくるような気がするんですよ。だからそれだけはいつまで経っても、若い人が面白いと言ってくれるようなものをやりたいと思っています」

役者を辞めていたら何をしていたかと聞くと、「上京後にアルバイトをやらせてもらっていた親戚の中華料理屋さんで、鍋を振っていたと思う」と、極めて現実的な答えが。しかし彼にとってお芝居を辞めるという選択肢は、あまりにも非現実的だったに違いない。

「好きで始めて、さらにそれが自分に合っていて楽しかったら、とことんやればいつかは形になるような気がします。好きだったら諦めることを考えずに、飽きない限り続ければいい」

続けていれば、本編はいつか必ず始まるのだ。

1964年、宮崎県出身。88年、大人計画に入団し、94年に退団するまで主要作品に参加。その後、遊園地再生事業団、村松利史プロデュース、竹中直人の会などに参加。94年、映画『119』の出演をきっかけに映像の世界に活動の場を広げる。98年に安齋 肇、村松利史らとともにオフィス「ワン・ツゥ・スリー」を設立。2000年より、大堀こういちと「O.N.アベックホームラン」というユニットを結成し公演を重ねている。主な舞台作品に『七人くらいの兵士』(00年)、『彦馬がゆく』(02年)、『12人の優しい日本人』(05年)など。映画代表作に『愛を乞うひと』(98年)、『七人の弔』(05年)、『ダメジン』(06年)など。08年4月には、初の主演映画『伊藤の話』が公開された。DVD『ザ・プロローグ ぬくみ~ず7』がポニーキャニオンより7月25日に発売。

■編集後記

人と会うことが誰よりも好きだった。お金がないくせに、飲みに誘われると断れなかった。「『温水だったら来るよね』と誘われて、行ってみると『やっぱり温水しか来なかった!』と言われていました。バブルの頃だったので、誰がお金を払っているのかわからなかったし、僕が払ったことは一度もないです」。飲みの席でいろんな話をしていると、ヒントが生まれ、人とのつながりが広がった。「チャンスと思って出かけてはいなかったけれど、いろんなチャンスがあった」。

兵藤育子=文
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稲田 平=写真
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