「柔道が好きでしょうがない、それだけ」

井上康生

2008.07.24 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
強くなるのは自分、戦うのはひとりではない

井上康生が柔道を始めたのは、5歳のとき。わずか8カ月後には宮崎県のチャンピオンに輝いている。

「勝ったときって、なんとも言えない快感がありますからね。きっと、そういう部分にとりつかれたんでしょう」

その後25年間、柔道を続けたモチベーションはとてもシンプルだった。

「とにかく僕は柔道が好きでしょうがなかったんです」

「周りの方に支えられているという実感がずっとありました」

「柔道で強くなることだけを考えてきたんです」

元宮崎県警の警察官で、柔道五段であった父上の明氏は、幼少期から康生を苛烈に指導した…といえば、まるで星一徹のようだが、そうではない。

「無理やりやらされたことはなかったですね。自分自身が好きでしょうがなかった。柔道が強くなりたくてしょうがなかった。それを察してくれたんです。いまにして思うと、すごく恥ずかしいんですけど、小学4年か5年のときに『僕は柔道のために生まれてきたんだ。僕を強くしてください』って親父に言ってますからね(笑)」

父上から学んだのは「攻める柔道」と伝家の宝刀・内股。小学5・6年と中学2・3年で全国優勝を果たし、その名をとどろかせる。そして、小6のときの優勝インタビューのエピソードがステキなのだ。目標を尋ねられ「オリンピックに出場すること」と答えた康生。インタビューが終わってもグズグズしていることに明氏が気づいた。どうやら本心ではなかったらしく、テレビのスタッフに無理を言って撮り直し。

「オリンピックで金メダルを取りたいって言いたかったんです。ただ、出るだけじゃなくて。それはその何年も前から言ってたことなんですけど」

その後、康生は203の連勝記録を誇る山下泰裕のいる東海大学を目指し、一人親元を離れて付属の東海大相模高校に進学する。

全国を制し、柔道の有力校からスカウトされる実力もある選手である。が、柔道にプロはない。純粋な職業にはなり得ない。そのあたりの折り合いは、どうつけていたのだろう。

「あんまり考えなかったですね(笑)。僕自身まずはやっぱり強くなること。全日本で、世界選手権で、オリンピックで優勝したいんだっていう思いだけしかありませんでした。実は小学生のときに相撲部屋からスカウトされたこともあったんですよ。いろんな方に『相撲の方がお金になるよー』って言われたんですけど、なんでこんなに柔道が好きなオレにそんなこと言うかなーって(笑)。ただ単に僕は、『強くなりたい』を追求してきただけだったんです」

憧れの山下泰裕以来、高校生としては21年ぶりに全日本柔道選手権出場を果たし、20歳のときにはバンコクアジア大会で、オール一本勝ちで優勝。

でも、決して華々しいことばかりではなかった。翌年の嘉納杯では3位に終わり、続く全日本選抜体重別選手権、全日本選手権でも1本負けを喫する。そして同じ年・母上のかず子さんをくも膜下出血で亡くすのである。

その年の秋、バーミンガムで行われた世界柔道選手権で優勝、00年シドニーオリンピックでオール一本勝ちの金メダル、01年には全日本柔道選手権大会で優勝。男子100kg級の三冠を得たとき、井上康生は23歳だった。シドニーでの表彰式、母上の遺影を掲げた姿は記憶に残っている人も多いだろう。

「『お前の人生はドラマチックにできてるなあ』って、よく言われました。でももちろん“母親が亡くなったことでドラマを作ろうなんて思わねえよ”っていう反発心もありましたし。負けたりケガを負ったことが逆に金メダルにつながった部分は確かにあったかもしれませんが、その時期その時期は、こんなに苦しいことはないって思って生きてきたんです」

連覇のかかった04年のアテネオリンピックでは4回戦敗退。翌年の嘉納杯では右大胸筋断裂の大けがを負った。同じ年、長兄の将明さんを32歳の若さで亡くしている。

「神さまががもしいるなら恨みました。神さまなんていないと思いました。でもそれを僕自身は乗り越えて戦ってきたという自負はある。僕だけの力じゃなくて、周りが僕を支えてくれたんです。みんなが感動を覚えてくれて共感してくれて、応援してくれました。それに関しては……僕の人生にはいろんなことがあるのだけれど、本当によかったなと。がんばってきた甲斐があったなと思いました」

「強くなりたい」と「支えてくれた人に感謝」は、康生の中では等価なのだ。

支えられてきたから、今の自分があるのだ

井上康生は、今年4月29日、北京オリンピックの最終選考会である全日本選手権に出場するも、準々決勝で敗退。正式に引退を発表した。

昨年4月に『情熱大陸』というテレビ番組が井上康生を取り上げたとき、クライマックスとなった全日本選抜体重別選手権で彼は3位に終わった。そして「ハッピーエンドで終わればよかったんですが」とスタッフに謝った。

「僕自身は激しく強く悔しかったんです。でも、それは自分のなかに持っていればいいこと。テレビに携わって期待してくれてた人たちには、心底申し訳ないなって思ったんです。今回、北京に行けなかったのもものすごく悔しいんですよ。でも、一方ではみんなを北京に連れて行けなくて申し訳ないと思う自分もいるんですよね」

一流のアスリートは往々にして独善的であるケースが多い。康生だって「もっとわがままに生きろ」とさんざん言われ、ときには葛藤したと言う。

「でもその5秒後ぐらいには“それはオレの生き方じゃないな”って(笑)。自分自身が柔道が好きで強くなりたいっていう気持ちと、周りに支えられて生きてるんだっていう思いが両方、僕だなって思っていて。ただそれを貫いてきただけだったんですね」

もちろん勝ちにはこだわるけれど、自分らしい柔道ができなければ意味がない。ある意味では、他人にとやかく言われる以上にきちんとわがままだったのかもしれない。

自分らしい柔道とは、攻めて攻めて攻めること。そして最後の試合は、ラスト10秒あまりで繰り出した内股をすかされ、逆に押さえ込まれて終了。

「僕の必殺技ですよ。必殺技は、何個もできるものではないです。父から伝授されたこの内股で、日本を、世界を取ってきたんです。あのときも投げるつもりで一本取るつもりで、力込めてかけていった。それをすかされた。技に誇りと思い入れはありましたね」

そして今。まずは北京オリンピック代表合宿に先輩的立場で参加。来年早々には2年間の予定で、コーチ学習得のため英国留学が決まっている。ゆくゆくは指導者である。

引退会見で康生は3つの目標を掲げた。(1)「柔道に恩返しし、社会に貢献する」(2)「家族を幸せにする」(3)「みなさまに愛される井上康生である」。(1)は、現役時代は勝つことが即ち柔道界への恩返しだった。それを違った形で行うということ。(2)は、家庭をないがしろしたわけではないが、一層かえりみようという決意表明。そして、問題は(3)である。

「4月29日に感じたんです。会場に入ったときにすごい歓声をいただきました。試合が終わって負けて礼をしたときに、またすごい声をいただいた。閉会式が終わって会場を去るときにも多くの人が待っていてくれてすごい声援をいただいた。そのときに心底、柔道家・井上康生は愛されていたんだなという思いを実感したんです。これからもいろんな活動をしていきます。指導者として、東海大学や、いずれは全日本を率い戦っていくこともあるかもしれない。そういう過程でもやはりみなさんが応援してやろうと思ってくれる…会見の言葉でいうならば“愛される”人間に育っていきたいなと、僕は思ったんです」

やはり、わがままにはなれないのだ。

1978年、宮崎市生まれ。身長183cm。体重103kg。5歳より柔道を始め、小中学校時代に全国を4度制覇。東海大相模高校から東海大学、東海大学大学院体育学研究学科体育学専攻修士課程修了。綜合警備保障に在籍。東海大学大学院文学研究科コミュニケーション学専攻博士課程在学中。98年の全日本学生柔道体重別選手権(100kg級)を皮切りに98年バンコク・アジア大会(100kg級)で優勝。世界柔道選手権大会(100kg級)は99年バーミンガム、01年ミュンヘン、03年大阪と3連覇。00年にはシドニーオリンピックで金メダル獲得。08年5月に現役生活を引退。フジテレビの北京オリンピック中継の柔道コメンテーターとしてデビューが決定。

■編集後記

引退後、指導者への道を歩む康生だが、それを何となく考えたのは大学時代。「いろんな企業からスカウトも来るし、それには契約も付随する、まあ根本にあるのは“強くなること”でしたけど。それでおのずと道は開けるだろうと思っていました。指導者としての教育を受け始めたのが大学で、それから意識し始めました。僕はきわめてぼんやりと30歳ぐらいまではやろうと思ってましたが、なかには、自分ではっきり期限を決めて、そこまでは命がけでやろうという人もいますよね」

武田篤典(steam)=文
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