「雨のあとには、必ず晴れがやってくる」

フィリップ・トルシエ

2008.07.31 THU

ロングインタビュー


戸塚 啓=文 text KEI TOTSUKA 稲田 平=写真 photography PEY INADA スチーム=編集 ed…
名選手ではなかったから、違う形で先を見ることができた

6人兄弟の長男として生まれたトルさんは、少年時代から近所でちょっとした有名人だった。もちろん、サッカーがうまかったからである。

「でも、技術的にすごく優れた選手ではありませんでした。私がプロとしてのキャリアを始めた1970年代のサッカーは、いまよりもっと精神的なものやフィジカルを重視したものでした。私も自分の肉体的な強さを、とことんまで出し切ろうとするタイプのディフェンダーでした」

21歳でプロになり、いくつかのクラブを渡り歩く。そうはいっても、本場フランスのサッカーはツワモノ揃いである。若きトルさんは、スポットライトを浴びるような選手ではなかった。2部リーグでひっそりとプレーを続ける、全国的には無名の存在だった。

引退を決意したのは、28歳のときである。フランス代表に選ばれるほどの名選手ではなかっただけに、現役への未練はなかったという。

「当時の私は、クラブと2年間の契約を残していたのですが、そのまま続けていても、どれほどのキャリアを積めたか…。先が見通せるほどのビッグネームでなかったから、辞めることに大きな問題はなかった。そういうときに、同じサッカーの世界で新しい方向性を見出せる話があったんです」

話を持ちかけてきたのは、当時のフランス代表監督だったミシェル・イダルゴだった。オファーの内容は、サッカー協会が運営する国立サッカー研究所のスタッフ入りだった。

全国から集まってくる将来性豊かな若い選手に、専任コーチのひとりとして英才教育を施すという仕事である。生徒のなかには、のちにフランス代表の得点源となるパパンもいた。

「人生にはたくさんのターニングポイントがあると思うのですが、イダルゴとの出会いはそのひとつでした。私がいまも指導者であることを考えても」

2度目のターニングポイントは、キャリアを大きく飛躍させたアフリカ行きである。これがまた、小さな偶然をきっかけにしているから人生は分からない。

「指導者になって7年目の1989年、私はフランス2部リーグのクレテイユの監督をしていました。ところが、クラブの代表と考え方に違いがあり、就任から3カ月で契約を打ち切ったんです。ちょうどその直後に、コートジボワールのアセクのクラブからオファーが来たんですよ」

ここからトルさんは、アフリカへ活動の舞台を広げていく。のべ9年間で5カ国を渡り歩き、4カ国で代表監督も務めた。イダルゴが敷いてくれた指導者というレールを、自らの情熱を原動力に疾走してきたのだ。 

「アフリカ行きは人生の大きな転機でしたね。国外で仕事をして、キャリアを築いていった意味において。アフリカでの実績が、私を日本へ導いてくれたところもあったでしょうし」

「監督」という生き方。失敗から学ぶこと

しかし、アフリカ各国で築いたキャリアには、ところどころ空白期間がある。簡単に言えば無職の時間がある。

サッカーの監督という職業は、そもそもが刹那的だ。契約満了前の解任など日常茶飯事で、サポーターやクラブ首脳の圧力から辞任へ追い込まれることもある。「契約書にサインをした瞬間から、クラブを去るカウントダウンが始まる」という定説は、監督という職業の過酷さを見事に言い当てている。

神経が擦り減るような思いを、トルさんもまた経験してきたのではないか。

「大まかに言って、人生にはふたつの生き方がある。ひとつは企業のサラリーマンのように、与えられた仕事をやっていく人生。もうひとつは、自分でやりたいことを決められる可能性を持った人生、つまり『NO』と言える余地のある人生。監督の仕事は後者で、チームの成績に責任を持つからこそ、自分自身を信じて判断を下していく。自分の哲学や方法論をしっかりと打ち出すのは、私にはとてもやり甲斐のある仕事なんです。解任される、辞任するというのは、監督という仕事に最初から付いている一部分で、仕事をしていたクラブや国を去るからといって、私自身のキャリアは終わりではない。むしろ、また新たなスタートを切るための第一歩ではありませんか」

見事なまでのポジティブ志向である。生まれながらに陽気で、楽天的な性格だという。でも、トルさんだって自問自答を繰り返しているのだ。

「ピッチ上でする仕事は、ブルキナファソの首都ワガドゥグーでも、東京でも同じです。通訳が入るとしても、私の考え方の8割は伝わる。だからと言って、どこへ行ってもフランス人と付き合っていればいいのか? 違いますよね。それでは、その国のことを何も知ることができない。つまりは、いい仕事ができない。そうならないためにも、オープンマインドであるべきでしょう。私自身、たくさんの人に会い、異なる文化に触れ、多くの経験をしてきたことで、物事に色々な違いがあり、人々の考え方もまた違うことを知りました。その違いを尊重できるようにもなってきました。ある時期に比べれば、周りと意見を合わせることもできるようになってきましたよ」

というわけで、今年から日本における“2度目の冒険”がスタートした。日本フットボールリーグ(JFL)のFC琉球の総監督に就任したのだ。

JFLをカテゴライズすると、J2の下になる。FC琉球のように将来のJリーグ入りを目指すチームに、企業チームや大学生が混在するちょっと珍しいリーグだ。レベルもまちまちである。これまでの実績からすると、トルさんにはややスケールが小さい仕事のようにも映る。

実際に、「なぜJFLに?」というのが、サッカー関係者やサポーターに共通する反応だった。

「代表監督の契約を全うしたとき、また日本に戻ってきたいと思いましたし、たぶんそうなるだろうという予感もありました。それでも、JFLのクラブに関わるとは、想像すらしていませんでしたね(笑)。沖縄にはしっかりとした大きなクラブがないということで、私の経験を監督とは違う立場で生かせる機会だと思ったのです。沖縄のサッカーだけでなく、社会や文化が発展していく一助になれたら、とも。沖縄という地域だからこそのチャレンジなんですよ」

総監督のトルさんは、約2カ月おきにフランスと沖縄を往復している。自ら招聘したジャン・ポール・ラビエ監督とともにチーム強化の最前線に立ち、リーグ戦のベンチにも入る。

チームはまだまだ不安定だ。18チームが参加しているリーグ戦では、順位表の真ん中より下が定位置になっている。それでも、トルさんは決して悲観していない。

「人生というのは、雨のあとには必ず晴れがやってくる。つまり、何か失敗したからといって、それでダメということはない。失敗から学ぶことはあり、成長の糧になる。失敗も人生の大切な一部なんですよ。だから、いつでも自分自身を信じて、少しくらいのリスクを冒していい。それによって色々な機会に恵まれることもできるでしょう。人生はたくさんの驚きと、希望に満ちている。ほら、私の人生がいい例でしょう?」

沖縄滞在中も、時間を見つけてアンティークショップを巡っているという。冒頭の家具は、東京・渋谷にあるFC琉球の事務所の一室に運び込まれたものだ。ちなみに…当然ながらすべてトルさんの自腹である。好きなのだ。

「正直言って、これだけ日本の文化に興味が湧くとは思わなかった。でも、せっかく違う文化に触れる機会を得たら、どっぷり浸かってみたいじゃないですか。それが、日本をより深く理解することにつながるから」

1955年、フランス・パリ生まれ。JFL・FC琉球の総監督。76年、プロサッカー選手としてデビュー。84年、指導者に転向。フランス国内のクラブチームを率い、89年よりコートジボワールのASECミモザを率い、3連覇を達成。アフリカのクラブチームの監督として実績を重ね、97年よりナイジェリア代表監督。フランスW杯予選突破後、ブルキナファソ代表監督を務め、98年3月より W杯南アフリカ代表監督に就任。W杯終了後、98年9月より4年間、日本代表監督。00年シドニー五輪では決勝トーナメント進出。レバノンでのアジアカップ2000で優勝。02年日韓ワールドカップでは、史上初の決勝トーナメント進出。日本代表監督退任後は、カタール代表監督、フランス・マルセイユ監督、モロッコ代表監督などを歴任。07年12月よりFC琉球総監督に。

■編集後記

プロ選手だった21歳から28歳までは、文字どおりサッカー漬けの日々。「朝起きて食事をして、トレーニングをして日曜日は試合。目標はその日その日をしっかりと過ごすことで、仕事とは何かを考えたり、人生を見回したりする時間はありませんでしたね。サッカー選手になりたいという情熱と仕事が重なり合っていたのですから、とても恵まれていたと思います」。自称「仕事人のような」選手だった現役時代から、「いつも自分の可能性を信じて精いっぱい頑張っていた」という。

戸塚 啓=文
text KEI TOTSUKA
稲田 平=写真
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スチーム=編集
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