「つねに自分が作りたいと思うものを」

M・ナイト・シャマラン

2008.08.07 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
構想・数分の撮影プラン。『ボスと3人の社員(仮)』

4人とは、取材現場にいたシャマラン、通訳の女性、編集者の男性にインタビュアー。応接セットを囲んでいる。便宜上、順に登場人物を、ABCDと呼ぶことにしよう。

「私が社員である君たちに『すごくお金になる新しい仕事を与えよう』って告げるシーンです。でも、それはBとCにだけ。そしてDに対してだけ『キミはまたの機会に』と言い出すんです」

自分の映画の作法は、「ある意味古いのだ」とシャマランは言う。

「よりストイックで、限定的です。昔はみんながそうだったんですけどね。この場合、私はカメラの位置やティーカップの数、どのキャラクターのためのシーンにするか…すべてを具体的に決めます。でも最近の手法では、カメラを複数台用意し、ここにいる全員を撮り、引きの画も撮り、ティーカップのアップもすべて撮る。すべての情報を押さえておいて、ポストプロダクション(編集や合成など、撮影後の作業)で決めていく。あとでそのシーンの持つ意味合いや設定を変えられるので便利ですね」

で、さっきのシーンをどう撮るか。

「Dの視点から撮るのがいちばんいいかな。はじめはBやCと同じように喜んでいるんだけど、急にBCと立場が違うと宣告されたときに、Dの感覚はだんだん変わってきますよね。だんだん孤立化していく。それをカメラを通したDの視点で見せていく」

Aの像がゆがみ、BとCの喜ぶ声は聞こえるが、姿はぼやけて見えない…。

「“BとCが配慮を欠いている”とDが感じている様子を見せたいのです。そして最後には一人になる。Aの背後にガラス窓があって、全員映っているはずなのに、自分以外の3人は像がぼけてしまっている。そういうカットで終わる。ひょっとしたら、Dがだんだん精神を病んでいくのかもしれない。これを、すべてを網羅する形で撮影すると、いま私が説明したようなDの孤立感の強さなどは出ないと思います」

ただ、自分の撮り方のリスクは、シャマラン、痛いほど自覚している。

「このままでは、観客に対してBとCが心ないキャラクターに映ってしまう可能性があります。映画のクライマックスで彼らにDがリベンジしようとしたとき、観客はDに感情移入しすぎて“さあ、殺してしまえ!”とだけ思って、まったく葛藤しないかもしれない。もっと早い時点で、観客がBとCに共感できるようなシーンを撮っておく必要がある。いまのシーンで、Dに同情しているカットをひとつ入れておけば、変わってくる。でも撮ってない(笑)」

それでも、こうした撮り方にこだわるのは「ほかができないんです(笑)。昔から何度も“変えようよ”って言われてきたんですけど、私はずっとこの手法で撮ってきたし、私のなかでは非常にビジョンがはっきりしているから」。

そう、彼みたいに“この人なら何かあるだろう”なんて思わせてくれる監督は珍しい。観客だけでなく、ハリウッドの映画会社もそこを認めてきた…ときに戦ったり別れたりもしたが。

そのある種意固地なやり方は、まさに最初からであった。

映画が仕事になる!そして歩んだ“頑固道”

70年インドに生まれ、幼い頃にアメリカ・フィラデルフィアに移住。医師だった両親からは、医師か弁護士の道を期待されたけれど、8歳で手にいれた8mmカメラが将来を決めた。

「私は10歳の頃から映画を作っていました。もちろん当時の作品は最悪(笑)。いまの手法もなかったし。映画を仕事にしたいと思ったのは15歳のとき。インドから遊びに来ていた祖父母を空港に見送りに行ったとき、1冊のぺーパーバックを手に入れたんです。映画監督のスパイク・リーが書いた『Spike Lee’s Gotta Have It』。読んだときの興奮はいまでもよく覚えています。とにかくスパイクは映画を撮ったんです。映画業界に知り合いもコネもないのに。まず、コネがないと映画なんて職業にならないと私は思っていました」

この本はまさしくシャマランの人生の手引きになった。とにかく撮ること。そして、フィルムスクールに入ること。彼はスパイクと同じニューヨーク大学のフィルムスクールに奨学金を得た。

「しかも1年飛び級で。1万2000人中4人しか取れない名誉ある奨学金で。それを父に伝えて、映画をやりたいと話したら、彼はテレビから一度も目を離さずに『ああ、そう』とだけ答えた。あんまり喜んでなかったな(笑)」

22歳のとき『Praying with Anger』で監督デビュー。その後、『翼のない天使』(98年・未)でメジャーに進出。翌年にはネズミの出てくる家族向け映画『スチュアート・リトル』の脚本を書いた。たったこれだけのキャリアで、シャマランはディズニーと戦ったという。自分に監督させないなら、自分の書いた脚本を1行たりとも読むことはまかりならん、と。それが『シックス・センス』。

「その前に『Labor of Love』という作品を僕が監督をするということで脚本を売ったんですけど、クビになった。これがものすごい痛手でした。二度と味わいたくなかった。だから、自分が撮れないなら誰にも撮らせない、というぐらいの強い気持ちがありました」

自信ではなく、信念だったと言う。

「たとえば、友達から贈られた時計はいくらお金を積まれても譲れないよね。それと同じなんです。私の作品は私がどうしても大事にしたいもの。条件なんて関係ない。ここだけの話、タダでも自分で撮りますよ(笑)」

そして、最新作が『ハプニング』だ。

ある日のNY・セントラルパークから、突然、人々がぽんぽん自殺し始める。さっきまで話してたのにグサーッ! 散歩しながらバーン! 何が起きているのかわからない。そう、わからない。

「この映画は“2008年のパラノイア”だと思います。何だかわからない事態が起きたときって、すべての人が猜疑心を持ちますよね。当然“自分だけは生き残りたい”という本能が働く。そうした混乱のなかで非常に偏執狂的な雰囲気で進んでいく映画です」

高校の科学教師が妻との微妙にこじれた関係を抱えながら、自殺してしまわないようにとにかく、何かから逃げる。何から逃げてるのかもわからない。「この映画は、何百万人もいる街から始まり、田舎に移動し、情報から遮断され、逃げることすらしない人々からは疎外され、徐々に人数が減っていきます。人間のいちばんの恐怖、孤立感というものに焦点を当てました」

エンディングは、ある意味で…ある意味で本当にサプライズだ。映画には、作品それぞれの語彙と美意識があることをシャマランは強調する。だが彼がつねにサプライズ・エンディングを期待されていることは間違いない。

「アーティストとして計算ずくで、いつも同じやり方でやりたいとは思いません。私はいろいろな作品を撮っていきます。将来的に多くの作品のなかで、一部にはどんでん返しがあるでしょう。そしてそうでないものもたくさんある、それが正しい方向性だと思っています。私はつねに自分が作りたいと思うものを作ろうと考えているだけなのです」

M・ナイト・シャマランは誰のために映画を作っているのだろうか。

「ひとつは、自分のためです。仮に私がフルタイムの映画監督でなかったとしても、アルバイトの合間を縫って脚本を書いていたはずですから。でも、実際に私は映画で生計を立てているわけだから。もうひとつには、人々を楽しませるため。その責任があるし、自覚もしています。つまり私の片足は“私”という芸術性に、もう片足は娯楽性に立っている。私は戦っているのです。歳をとっていろんな経験や知識を得ました。よりチャレンジングで複雑な作品を作りたい欲求が湧いています。つまり“私”に偏りつつある。ですが、娯楽性を犠牲にしたくはないのです。これがいまの私のなかでの戦い。幸いにして、自然と難解で複雑な映画を作ってしまうほどに、いまのところ私はスーパースマートではありません。だからこそ、一般に受け入れられるものを作れるんだと思っています」

1970年インド生まれ、アメリカ育ち。10歳から映画を撮り始める。ニューヨーク大学のフィルムスクールを卒業後、92年『Praying with Anger』で監督デビュー。94年『Labor of Love』の脚本を書き、98年『翼のない天使』でメジャーデビューの後、99年『シックス・センス』で大ブレイク。00年『アンブレイカブル』、02年『サイン』、04年『ヴィレッジ』、06年『レディ・イン・ザ・ウォーター』を手がけ、毀誉褒貶にさらされる。ともあれ、つねに問題作をたたきつけてくる作家的映画監督。マーク・ウォールバーグを主演に迎えた最新作『ハプニング』は現在上映中。

■編集後記

シャマランが今日の撮影手法を確立したのは『シックス・センス』のときだという。それまでの2作を分析した結果、到達したのだ。「どうして観客がついてこないのかを一所懸命考えたんです」。ただ、構想は無意識から。「恋に落ちるタイミングと同じですね。『ハプニング』は車を運転中。たとえば、構想中の新作は、妻の友人の結婚式に無理矢理連れて行かれて、愛想笑いをしているうちに、ふと! 『もう誰も私に話かけるな』って思いましたよ(笑)」。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
photography PEY INADA

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