「自分が求められるものは何か」

水道橋博士

2007.10.18 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
伝える価値のあるものをつねに客観性をもって

博士と加圧との出合いは05年の大阪。正道会館・角田信朗がK-1トーナメント復帰のために取り入れていたのだ。

「ちょっとやってみると、みるみる結果が現れるような感じで。“こんなにすぐに効果があるのか”と驚きつつ“体に悪いんじゃないの”とも思うわけです。理論書があったんで、帰りがけに新幹線のなかで読みながら、これは伝えるべき、世に知らしめるべき! という確信を得ましたね。ああいうエポックメイキングなものを見たり体験したりすると、さらにそれをまだ人が知らないと思うと伝えたいと思いますね。」

実は20年前に、RK手術も受けていて、最近は人体実験オタクを自認する。「日本人は世界一長寿でありながら、生まれながらに余命80年の末期ガン患者のようなものだって、前から思っていたんですよね。だからいつ死んでもいいように享楽的に生きていたんですけど…。40歳を過ぎて結婚して子どもが生まれて、父親が病気になって。それで80年を元気に全力で走り抜けたいというイメージがすごく湧きました。たとえば、うちの父親の最期っていうのは、生きているのか生きさせられているのか、本人が本意か不本意かわからないような状況だった。それを子どもであるオレが見ているわけだから、将来的にオレの子どももそうなるのかなって思って。そのつながりを俯瞰できたときに、健康を重視しようと思いましたね」

新たな健康法を知るたび、実践するだけでなく、データや資料に当たって裏を取った。「つねにデータには客観性を持っていたい」のだという。

こういうスタンスは、執筆するからという理由だけではなく、おそらくはもともと備わっていた資質なのではないか、と博士は言う。事実関係の検証はもちろん、芸人に筋肉が必要である理由に関しても、きちんと自分で納得するだけの答えがほしい。

「1を書いていた最後のころに“筋肉バカの壁”というタイトルが面白いなって、次はこれだと。“浅草キッドが山本キッドになるって面白くない?”って言ってただけなんですよ。そのダジャレの辻褄を1年半かけて合わせたという。すべて言葉ありきなんです…っていうよりダジャレありき。“なんでダジャレにここまで一生懸命にならなければいけないんだ”というところを笑っていただければ、いいかなあと思って」

そして、きちんとダジャレ通りになったか否かを証明するのが、東京マラソンなのであった。

「いやあ、もっと淡々と書くべきだったんだけど、どうしても私小説的な要素が顔を出してしまって」

なぜなら、3万人がスタートした新宿は、水道橋博士が20代前半を過ごした街だったからだ。

地獄のように退屈な日々の突破口はビートたけし

19歳からの4年間、水道橋博士は歌舞伎町でオーダーシャツの採寸のアルバイトをしていた。

「真っ暗闇でしたね。彼女もいないし童貞みたいなもんだったし。6畳ひと間のアパートに、少ない給料からちょっと高いオーディオを揃えて。本と雑誌とレンタルビデオ…メディアの牢獄ですよ。そんなところで“栗本慎一郎の評論がどうだ”とか“糸井重里に告ぐ”とか日記に書いてさ(笑)。青春ノイローゼの一種ですよね」

出身は岡山。上京した表向きの目的は大学進学のため。その実は、ビートたけしの弟子となるためだった。

出会いは中学生のころ。反骨のルポライター・竹中労を知り、憧れるも「文系引きこもりオタクの自分ではルポライターとしての正義をまっとうできないと思ったんですよね」と、つまずいたとき、ラジオからビートたけしの声が聞こえた。

「救われたな、と思いました。ルポライターだと、考えれば考えるほど袋小路に入っちゃうけど、お笑いは成功も失敗も、笑い飛ばせるもん。舞台でスベっても、売れなくても、めちゃくちゃな目にあっても。たとえば、当時の快楽って、オナニーだったわけ。こんなにオナニーが快楽ならセックスはもっともっと快楽なんだろうなと思うでしょ? でも彼女もいなくてひきこもりで悶々としてたら、いつか性犯罪者とかになっちゃうんじゃないかっていう妄想にとりつかれてましたね。そんなときに、ビートたけしという概念に出合って、突破口だと思ったんですね」

大学は4日でやめてしまっていた。

「バイトは、倉敷から出てきた仲間がやっていたんですよ。それが4年たってみんな地元に帰っちゃうんです。オレも帰るしかないな…ってなったときに思ったんです。“オレはワイシャツ売るために東京に来たのか”と」

そして、毎週木曜27時『ビートたけしのオールナイトニッポン』終了後のニッポン放送に通うようになった。毎週100人単位で若者が待っていたという、弟子入り志願者の聖地。そこで、自作のネタを手渡したのが85年の夏。

果たしてすぐにアパートの電話が鳴り「あんちゃんさ、モンティー・パイソンみたいなネタを書いてみなよ」と、ビートたけしに言われたという。結局弟子入りが実現するのは7カ月後。

しかし、師匠との交流はほぼゼロ。状況を打破すべく、師匠も修業した浅草フランス座行きを志願する。結果的にそこで同門の玉袋筋太郎と、浅草キッドを結成することになるのである。「芸人として失敗したとき、オレが送るべき日常の、地獄のような退屈さを容易に想像してましたから。人生を決定づけるような職業を得たら、プロ意識は強化しないといけないと思ってました。で、それは20代の今なんだ、って。自分の芸人らしくない部分を無理やりにでも鍛えたかった。飲んで裸になるとか、道の上でうんこをするみたいなことを、30歳まではやらなくてはと偏執的に思っていました。“デッド・オア・アライブ”でしたよ。そういう血の入れ替えを経て変身した、当時のオレは一番槍で、足軽の一番前にいて、飲みに行くことは戦だと思って常に前線で攻めてましたもん」

芸人として脆弱だと思えるところは強化した。が、その部分をいとも簡単に凌駕していく芸人の多いこと!

「でも“あんまりオレに似ている芸人に会わないな”みたいなことは感じてました。だから、きっとどこかにニーズはあるはずだと思うようになりましたね。だから、自分が他人から求められるものは何か…そこを強化していけばいいんだと」

肉体芸から頭脳労働へ、仕事が変質した。司会として番組を回し、政治家へのインタビューもこなす。

転機として、92年の『浅草橋ヤング洋品店』が大きかったという。

「スタジオでは放送禁止用語ばっかり言ってて使えない、って言われてたんですけど、ロケで、その後番組でずっとチームを組むディレクターと出会ったんです。その人と『整形シンデレラ』みたいなロケに出たら、我々とウマがあったのか、

“キッドはロケなら使える”と評価されて。そこから周富徳だとか金萬福とかと組むようになって、異業種の“猛獣”を扱うのが上手いという認識をしてもらえた。この経験があるからこそ鈴木その子さんとか、今は草野仁さんとか、バラエティー外の人と一緒にバラエティー番組を成立させることができる」

そして今ではもちろん執筆も。

「一時、雑誌の連載を14本ぐらいやっていたんだけど、それって、テレビの仕事を補完するためでした。当時は、すごく疲れるし、効率悪いなと思ってたんですよ。ちゃんとやろうと思ったのは、石原慎太郎さんに電話をもらったことが大きいかもしれない。ただの買いかぶりなんですけど、“君の文体は三島由紀夫に似ている”って。作家である石原慎太郎に三島由紀夫を引用して誉められたら、書いた方がいいかなと思いますよ。完璧な勘違いなんですけどね。それでも、肯定して前進した方が結果は出るかなと思って(笑)」

1962年岡山県生まれ。86年にビートたけしに弟子入りし、翌年、浅草フランス座で修行。玉袋筋太郎とともに浅草キッドを結成。90年『ザ・テレビ演芸』で10週勝ち抜きチャンピオンに。92年から始まった『浅草橋ヤング洋品店』で、バラエティー外の人々と絡んで場を作り上げる“猛獣使い”としての実力を発揮、人気を集める。ルポライター芸人として、『SRS』(フジテレビ)では格闘技を取り上げ、『草野☆キッド』(テレビ朝日)では草野仁のタレント性を引き出し、『第二アサ秘ジャーナル』(TBS)では政治家にインタビュー、そして現在は大人の社会見学をプロデュースする。『筋肉バカの壁〔博士の異常な健康PART2〕』はアスペクトから、前作ともども絶賛発売中。

■編集後記

ビートたけしのそばにいられることが重要だった。「オレの弟子入り当時の年齢って、ラッシャー(板前)さんや松尾(伴内)さんや(柳)ユーレイさんより年上でしたから、オマエは無理って言われてましたけど」。世間はバブルの真っ最中、あえて勝負を賭けて飛び込んだフランス座、そこは時給60円で16時間労働の世界。芸人的な匂いやら空気やらがしっかりとしみついたのであった。そうして20代の残りを、軍団の斥候として過ごすようになる

武田篤典(steam)=文
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