「そこでいかに出会えるか」

永瀬正敏

2006.07.27 THU

ロングインタビュー


サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA 武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA …
アプローチはどうあれ兵隊さんに見えること

役作りについて尋ねると、「普通です」といって、照れたように笑った。映画『紙屋悦子の青春』では鹿児島の海軍航空隊の整備士官・永与を演じた。

「新入社員が何も知らないところから先輩についてコピーとってパソコンいじっていろいろ教わるみたいな、最低限のことです。医者の役ならお医者さんにつくだろうし…特殊なことではないので、あんまり言いたくないっていうか。あの、それよりは映画を観てほしいですね。それで、“ああ兵隊さんなんだなあ”とか感じてもらえれば、オッケーです。サラリーマンの方が企画書を書くときに、“がんばりました”って書かないですよね。企画の内容を見てほしい。それと同じですよね」

映画はシンプルな話だ。永与は親友の航空士官・明石(松岡俊介)の紹介で、悦子(原田知世)と見合いをする。悦子は明石を好いていたが、やがて特攻に参加する明石は、永与に悦子を託すのだ。これをきわめてシンプルに撮る。舞台はほぼ紙屋家限定。悦子と兄夫婦(小林薫・本上まなみ)と晩ごはんのじゃがいもが腐っていないかどうかのやりとり。悦子の留守に上がりこんだ明石と永与はいかにして悦子にモテるかの話し合い。戦時下の茶の間の普通の会話を長回しでじっくり見せる。

「ぼくが演じたのと同じ境遇のおじいさんがずっと現場についてくださったんです。特攻隊の飛行機の整備をなさってて実際に親友が飛び立っていったという…その方に当時の話をいろいろお聞きして。そういう意味では画面に映っていない部分、行間は、今思えばですが、そこで埋めさせていただいてたのかもしれないですね」

監督は黒木和雄。つねに庶民の目線から戦争を描き続けてきた。同じ宮崎出身、昔からあこがれていたという。2006年4月12日、映画の公開を待たず、75歳で亡くなってしまった。

「もったいないです。声をかけていただいたときはすごくうれしくて。それが大前提にあったので、毎日が楽しかったですね。でっかい器の中でぼくらを遊ばせてくれているというか、“ご自由におやりになってください”っていう監督さんでしたね。いっぱいいろんなラインのお芝居の基準があって、それにどこか合致してればオッケーですという感じなんでしょうね。細かい演技指導は一切なくって、泳がせてもらってるというか…もっともっと現場でご一緒したかったです」

すべてを忘れて読める台本。自分がどう染まるか

探偵、田舎侍、教師、刑事、作家、なぞの男…出演作を俯瞰すると、意外と“普通の人”が多い。もちろん“普通”はそのつど違うのだが。

「ぼくは監督の世界に染めてもらいたいと思っているんです。どちらかというと“自分”を持っていってそのまま演って満足して帰ってくるタイプではないので。可能であれば全部の作品を変えたい。ものすごく細かく指導されるのも、それはそれで助かります。自由に泳がせてもらえるのも、責任感を持ちつつ楽しめることもありますし」

もうひとつ気づくのは、フラットな視点。あらゆる映画に対して垣根なし。「取っ払って生きたいと思ってるんですね。いろんなことを経験したいし。こと映画に限っていえば、どこの国のだろうが制作費があろうがなかろうが関係ないですからね。面白ければいい」

とはいえもちろん、かかわる作品には一定の基準があって。まずは人間関係。

「監督と信頼関係があるときとか、友達の作品にはそのまま出たりします」

そして台本。

「台本読ませていただいて、一気にダーッと終わりまでいけたものをやらせてもらってる感じがします。すっごい面白いけど、途中でトイレとか飲み物取りに行くのは、結果的に作品に入り込んでいないんですよね。不思議なもんで。そういうこと忘れるんです。普段お芝居してるときは、熱があっても「ヨーイ」がかかるとせきが止まったりします。役者さんみんなそうです。台本を読ませてもらってるときも同じ。読む前から行きたかったのに、読み終わってから、“あ。トイレ”って(笑)」

少しだけ「インタビューを受ける俳優」になっているのかもしれないが、何の役でもない永瀬正敏は、取材のテーブルに対して横向きに座し、左前方下斜め45度を見つめ、時折こちらを見て訥々と語る。丁寧で真摯な受け応え、謙虚で驚くほど“我”がない。

「ぼくらの仕事はぼくらから提示できないものですからね。ぼくはセルフプロデュースとか、ほとんどないですからね。声をかけてもらわないと始まらない。そこでいかに出会えるかっていうことだと思うんですよね」

映画界との出会いは16歳だった。

新たな景色が見られる「デカイ出会い」

宮崎に生まれ、高校は地元の進学校。型にはめる教育に、持ち前のパンク・スピリットが鎌首をもたげた。映画出演を考えたのは「教師たちにはできないことをやってやろうと思ったから」。

オーディションで出演した『ションベンライダー』の監督は相米慎二。1カット長回しの独特の作風と、徹底的な役者への罵詈雑言。

「特殊ですよね(笑)。でも、最初に相米のオヤジの現場だったことがデカイと思います。撮影は口では言い表せないぐらいに大変でした。でも、最終日の最終カットのとき、“終わる”ことが受け入れられなかった。ずーっと続けばいいのにって…そう思える現場をオヤジが作ってたってことなんじゃないですかねえ」

教師を見返すという動機は、“映画をやりたい”というポジティブさを得る。が、映画のオファーは途絶えた。

「した」めちゃくちゃ暇でした。金もないし(笑)。ばあちゃんが漬けて送ってくれたらっきょでメシ食ってま

TVドラマをパラリパラリとやりつつデビュー作の公開から約5年、映画をやりたいと思いつつ、前向きだった。

「映画をいっぱい観てましたね。ジャームッシュとかヴェンダース。“あ、これでいいんだ”って思ったんです。映画って、起伏のあるドラマティックな話でなくても、ちゃんと人を描けるし、ある意味すごくプライベートなものなんだって。とくに『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を観て」

監督のジム・ジャームッシュと『ミステリー・トレイン』で仕事をするのは22歳のときのことである。これもまた「デカイ出会い」。垣根を取っ払う姿勢を体感して得ることになるのだから。

「“全然スペシャルじゃねえんだ”って思いました。ヨーロッパ映画とかアメリカ映画とか、向こうの役者さんとか大監督とかに対しては、ばかばかしい劣等感を持ってて、最初ジムに会ったときもサインもらおうと思ったほどだったんですが(笑)。実際現場行かせてもらうと、照明助手の方が汗かきながらセッティングしている。役者さんたちの映画に対する“向かっていく感”も、全然変わらないんですよ」

欧米の作家やプロデューサーは世界を相手にボーダーレスな作品を作っていた。むしろマーケットが日本限定だった日本映画のほうが閉じていたのだ。

当時、海外の映画祭をフラフラ歩いていると、その場で多くの映画人と話をし、出演交渉が始まったという。

「海外のほうが日本映画をちゃんと評価しているんだなあって。垣根はなかったんですよ。逆を言えばアメリカ映画に出たから何? っていうこともあるし。このとき、強く感じたんです。“映画は映画じゃん”って」

出会いによって自分に起こる変化を楽しむ。そのために必要な、ある種のこだわらなさを、このとき永瀬正敏は手に入れたのかもしれない。でも、野望めいたものは本当にないのだろうか。最後に尋ねてみた…新しい自転車がほしいというレベルでもいいから、と。

「あ…あった。全席喫煙便飛行機。そしたら海外に行けるんですよ。吸われない方が嫌がるのはわかります、だから全席喫煙。週に1便でもいいし、ヘルメットみたいなのかぶってもいいから(笑)。それができたら、海外の映画祭とか行きまくるんですけどね」

1966年宮崎県生まれ。83年相米慎二監督の『ションベンライダー』でデビュー。89年『ミステリー・トレイン』に出演。この作品がカンヌ映画祭で最優秀芸術貢献賞を受賞し、一躍注目を浴びる。91年、山田洋次監督『息子』で数々の賞を受賞。その後も『コールド・フィーバー』(95年)、『私立探偵濱マイク』シリーズ、『ピストルオペラ』(01年)など内外を問わず多くの映画に出演、そのつど違う姿を見せてくれる映画俳優である。新作にして黒木和雄監督の遺作『紙屋悦子の青春』は岩波ホールで8月12日公開。

■編集後記

デビュー後にもう1本、井筒和幸監督の『みゆき』に呼ばれてからは、映画とはしばらくごぶさた。この間に出演した代表的なTVドラマが中山美穂主演『ママはアイドル』。この作品で笑いの間を学ぶことができたという。プロフィール的には不遇な時代だが、本人的には「きわめて前向き!」。そして『ミステリー・トレイン』出演以降、堰を切ったように映画への出演が始まる。25歳の年には山田洋次監督『息子』など8作が公開された。

サコカメラ=写真
photography SACO CAMERA
武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
渡辺康裕(FEMME)=スタイリング
stylist YASUHIRO WATANABE
勇見勝彦(THYMON)=ヘア&メイク
hair&make-up KATSUHIKO YUHMI

関連キーワード

注目記事ピックアップ

 

編集部ピックアップPR

ブレイクフォト