「音楽は、歳をとるほどよくなるもの」

細野晴臣

2006.08.03 THU

ロングインタビュー


平山雄一=文 text YUICHI HIRAYAMA 稲田 平=写真 photography PEY INADA スチーム=編…
“何を聴いてるか”勝負出来るヤツらが集った!

「中学生の頃は音楽とマンガ三昧。同級生に西岸良平くんがいて、マンガをひとコマずつ描いては交換して遊んだりね。僕のほうが先に描き始めたのに西岸くんがあっという間にうまくなっちゃったので、僕は音楽をやることにした」

細野さんにマンガを諦めさせたのは、なんとあの下町描写の名人『三丁目の夕日』の西岸さんなのだった。当時、貸本屋でしか手に入らない白土三平の『忍者武芸帖』を借りてきては、休み時間にみんなで回し読む。ベンチャーズ・ブームの中でエレキに触れ、ラジオで聴いたボブ・ディランにショックを受ける。多感な少年時代は、まさに60年代カルチャーのまっただ中だった。ませた高校生・細野さんは大学生の主催するフォーク・フェスティバルに出演して、早くも周囲をうならせる。

「この頃の体験は強烈で、いい音楽を聴くと鳥肌が立ちっ放し。今でも音楽への接し方は変わってないです、だんだん麻痺してきてますけど(笑)」

大学に進むと、音楽にさらに熱中。自宅は音楽事務所のようだった。友達のミュージシャンがしょっちゅう遊びに来ていた。誰か来ると母親は必ず紅茶を出してくれた。「なんで紅茶だったんだろう?」と、細野さんはつい最近のことのように笑う。「その後、一緒に音楽をやることになる人たちと出会う時期だったんだと思う」。

音楽に対して真剣勝負の日々。

「新しい音楽がどんどん生まれる時代だったから、どんなレコードを聴いているのかで相手のセンスがわかってしまう。大瀧(詠一)が僕の家に初めて来たとき、その辺に置いてあったシングル盤を見て『おっ!』と声を上げた」

置いてあったのは当時注目のアメリカのバンドのひとつ“ヤングブラッズ”の「ゲット・トゥゲザー」。現在のサーフロックにも通じる最高にヒップな1枚に、大瀧さんはすぐ反応した。同時に細野さんも大瀧さんのセンスにピンと来たのだった。

「初対面だったけど、すぐに音楽の話が始まった。そういうもんです。黒澤明の『七人の侍』って映画にも似たシーンがあったでしょ。村を守る侍を選ぶのに、いろいろ試す。あれと同じ」

刀を交えるまでもなく「おぬし、やるな!」というヤツである。出来る者は出来る者を知る。こうしたスリリングな出会いが、後の“はっぴいえんど”結成へとつながっていく。

バンドに就職決定。音楽は仕事か否か

細野さんは“エイプリル・フール”というバンドに“就職”。プロデビューした。ギャラは当時の大卒初任給より少し高い5万円だった。

「ちゃんと就職しましたよっていうつもりで父親にタバコをワンカートン、プレゼントしたけど、僕自身、安心したわけではなかった。ミュージシャンは、明日のことはまったくわからない仕事。その思いは今も変わってない」

1年ほどでエイプリル・フールは解散。細野さんは自分の音楽を世に問うべく“はっぴいえんど”を結成する。日本語ロックの斬新な音楽性はマニアックなファンに高い評価を受ける一方、新し過ぎて攻撃もされた。レコードはまったくといっていいほど売れなかった。間もなく25歳だった。

「いい音楽を作ることだけ考えて楽しくやってるけど、はっぴいえんどは売れないし。だからといって音楽を仕事と割り切ると、嫌いになってしまうかもしれないし。悩んだね」

はっぴいえんど解散後はプロフェッショナルな演奏家集団を目指して“ティン・パン・アレー”を結成。スタジオ・ミュージシャン&プロデューサーとして超多忙な日々が訪れる。荒井由実(松任谷由実)のデビューアルバム『ひこうき雲』はこの頃の傑作で、今もそのクオリティの高さには目を見張るものがある。その他、当時、細野さんが手掛けた数え切れないほどの名盤が現在のJポップの源流をなしているといってもいい。細野さんが手掛けた音楽はフォーク、ニューミュージックと続く若者音楽の中で最上クラスのサウンドとして絶対的な評価を得ていった。そのまま細野さんは70年代きってのサウンド・プロデューサーとして“ブランド化”することもできたはずである。しかし、そうしなかった。

「その頃の音楽シーンは次から次へと新しいものが登場して劇的に進化していたから、飽きるなんて考えられなかった」

いつも新しいものを作ることを考えていた。だからブランドと化して同じものを作り続けることには興味がわかなかった。何より細野さんにとっては少年時代と変わらず“鳥肌が立つ音楽”こそがいちばんだったのだ。

YMOという事件。また平穏を得て、いま

ところが70年代後半になって、音楽がだんだん停滞してきた。聴くものがないな、とぼやくことも多くなって、自分でも危険だなと思い始めていた頃、スライ・ストーンという人がリズムボックスで音楽を作り始めた。

「これだ! 僕もやろう!! それがYMOの始まり」

ようやく見つけた突破口。だが、細野さんは自分の心の中に矛盾する思いがあることにも気づいていた。

「YMOが売れちゃうか、だめならやめちゃうか。正直、心の底ではウケると思っていなかった。本当は音楽をやめたかったのかもね。その頃はよく高野山に行ってたんで“お坊さんもいいな。精進して、人間としてもっとよくなりたい”と思ったり。子供の頃、お釈迦様が僕のアイドルだったからね。困った時には助けてくれるし(笑)」

テクノか坊主か、極端過ぎる選択肢。自分のセンスが世の中にどこまで届くのか試してみたい気持ちと、一方では静かに暮らしたい気持ち。そろそろ30 歳になろうとしていた。

当初、日本のレコード会社はYMO の音楽を理解できずに戸惑っていた。が、アメリカのレコード会社ががぜん興味を示して世界進出が決まる。

「運命を感じた。誰かに“まだ音楽を続けろ”と言われたような気がした」

空前のビッグヒット。YMOは社会現象にまでなる。

「巻き込まれた感じですね。急流に飛び込む前には覚悟してたけど、実際飛び込んでみたら、自分の意志ではどうにもならなかった。街も歩けなくなった。小学生はついてくるし、運転してると指を差されるし。そのへんをぶらぶらするのが大好きだったからツラかったですね。ノイローゼになった」

83年、結成から5年で“散開”。

「散開から10年ぐらいしても、YMOで育った人たちが忘れてくれない。まだ何かくすぶってたので、だったら火種を絶やそうと再生してアルバムを作ったら、ようやく収まった(笑)」

さて最近の細野さんはというと、去年、ティン・パン・アレー誕生の地、さいたま・狭山で開かれた『ハイドパーク・フェス』に参加したのをきっかけに “東京シャイネス”を結成。

「一回限りのつもりだったんだけど、やってみたら面白くなっちゃって。せっかくだから4回ライブをやった。最後には声がよく出るようになって、昔に戻った。というより、新鮮な気持ち。ちょっと前まで(高橋)幸宏とエッジの効いたこと(スケッチ・ショウ)やってたのに、今やフォークですよ(笑)」

細野さんは完全にアクティブ・モードに突入だ。うむ、嬉しい。

「僕は仲間の中で誰よりも年上だったので、いつも年齢を考えながらやって来た。音楽は本来、歳をとるほどよくなるもの。20世紀末、音楽は若けりゃ若いほどもてはやされるようになったけど、音楽には枯れた味わいっていうのがある。アンチエイジングとか、妙に若々しいのは変だね。ちゃんと生きてないから、醜い老人になる。自然に老いていくことの美しさ。ネイティブ・アメリカンは“老人こそが美しい”って言ってる。僕は長生きしようとは思わないけど、生きてる限り楽しくやりたいね」

1947年7月9日、東京都港区白金生まれ。69年、エイプリル・フールでプロデビュー。70年、大滝詠一、鈴木茂、松本隆とともに、はっぴいえんどを結成、高い音楽的評価を得て3年で解散。同じ年、ファースト・ソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』をリリース。これをきっかけに松任谷正隆、林立夫、鈴木茂らとティン・パン・アレーの活動を開始。78年高橋幸宏、坂本龍一とY.M.O.を結成。世界にその実力を見せ付け、世間の隅々までブレイクする。83年散開。ソロはもちろん、鈴木茂・林立夫らとのティンパン、高橋幸宏とのバンド「スケッチ・ショウ」など、精力的な活動は止まらない。現在はレーベル『デイジーワールド』を主宰。8月2日には『「南の島の小さな飛行機・バーディー」オリジナル・サウンド・トラック』をリリース。LIVE DVD “東京シャイネス”は9月21日発売。

■編集後記

はっぴいえんどで2枚のアルバムを作るが、音楽シーンの反応に大いに悩んでいた。通称『ゆでめん』『風街ろまん』は世界水準の自信作だった。が、史上初の日本語によるロックにメディアもリスナーも戸惑うばかり。細野さんは「自分から音楽を取ったら何が残るだろうか。音楽がなくても生きていけるようになろう」とまで悩む。結局、3作目ではっぴいえんどに終止符を打つ。皮肉なことに解散後から評価は急上昇し、前述二作は今では史上に残る名作と誰もが認めている。

平山雄一=文
text YUICHI HIRAYAMA
稲田 平=写真
photography PEY INADA
スチーム=編集
editorial steam

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