「生の人と触れて、恋愛して」

渡辺淳一

2006.08.24 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA
圧倒的な肉体愛に言葉はまったく不要

日本経済新聞朝刊に連載された小説だ。“今日の愛ルケさぁ”は、おもに中高年層の間で日々の合言葉となった。

主人公の村尾菊治は、かつての売れっ子小説家。今は、55歳で妻とは別居状態。週刊誌のアンカーマンと大学講師で細々と暮らす。入江冬香は3人の子を持つ主婦。36歳。夫は製薬会社に勤める男尊女卑タイプの男。菊治のファンで、ある知人を通じて出会うのである。

話題の中心となったのは、二人の大胆なセックス描写。しかし、それこそが大切なことだと、先生は言う。

「そう。素敵なセックスは、肉体同士のたしかな結合とぶつかり合い。彼が優しく愛撫して、やがて挿入して動く。彼女は着実にそれに応える。“好きだよ、とってもいいよ”“私もすごおいの”といってボディが反応しだす。そこに言葉は要らない。これこそ愛のボディ・トーキングでね。セックスでよくなっている瞬間は、言葉でいちいち言う必要はない。言わなくてもわかるボディ・トーキングの前では、精神愛はただその入口にすぎない」

作中にいわく“互いに触れ合い密着した体そのものが、すべての言葉をこえて、確かに愛を訴えている”“真の悦楽をむさぼらせ、堪能させてくれた男に、女は信じられぬほどの愛と献身を捧げてくれる” と。

「二人が快感を得て、よくなって初めてセックスって言うんだよ。男性だけがいいのは、ただの排泄。互いに満ち足りてしみじみと喜びを感じる。いろんな方法で相手への思いやりをこめて。…そこから先が文化でね」

菊治は自分と冬香の関係と、冬香と夫との関係を比較して、“エクスタシーは文化で生殖は本能である”と考える。

「第一歩として相手をよくしてあげたいっていう気持ち。女性は相手を受け入れて、二人で一緒に昇華したいっていう気持ち。それが性愛の基本だね」

相手をいかによくするか受け入れる性をイメージ

菊治は55歳で冬香は36歳。貞淑で、性の喜びを知らなかった冬香でさえR25世代にとっては“おねえさん”だ。この恋愛観、非常にハードルが高い。

「若いときは自分の欲望が強すぎるんだね。とにかくやりたくて挿入して、すぐ射精しちゃう。それは生理として当然だけど、できれば同時に、相手もいっぱいよくしてあげたい、そういう気持ちを持つことが大事なんでね」

正直、菊治は普通の男である。セックスの天才というわけでもない。しかし、冬香は菊治によってあらゆる部分を開発され、献身的な愛を返してゆく。

「菊治はある程度遊んでいて、“こうしてあげたい”と思っていたものを一気に冬香にぶち当てていく。そのためには、やっぱり基本的に、女好きでないとダメだ。冬香を好きだということと同時に、女という性が好きで憧れている。彼はそういう性向を持っているわけで」

菊治は冬香との圧倒的な肉体愛とエロスを通じて「女の愛の頂点のエクスタシーと、男の絶頂の排泄の快感とは全然違うものだと知る。女の性は無限だけど、男の性は有限で、尻すぼみで虚しいということがわかってくるんだね」。

ここから菊治が着想を得たのが『虚無と熱情』という作品…「人間の奥に潜む普遍的なもの、人間の本質を見つめる眼がないと。人間とはなんなのかということを問い詰めることが文学だから、その視点で愛の形を問い詰めていく」。

菊治は何もかもなげうって冬香との愛に没入し、冬香はそれに応えてもう何も怖くなくなる。二人は二人だけの世界を追求し、その結果、菊治は冬香の求めに応じて、思わず彼女の首を絞める。

8月、神宮外苑花火大会の夜、冬香は菊治の腕の中で死ぬ。ドロドロした重い恋愛は面倒だという若者は少なくない。だがこの作品は、まさしくその対極にある。

「ドロドロがイヤだとか面倒だというのは、本当の意味で女と接し、愛し合っていないからだよ。セックスのドロドロではなく、そこに至るまでのゴタゴタがイヤなだけでしょ。それは相手を満足させてないからだね。うまく愛し合えてさえいないから。恋愛の初期の段階、何を食べてどんな映画を観て、というところでは女が主導することも多いけど、セックスは一般的に男主導。そこで女性の好みとか願いを聞き入れ、それに応じられるような柔軟性があるといいね。そうして5年10年すぎると、天と地ほどの差が生まれるね」

男女間の差、先生いわく「挿入して放出する性と受け入れる性」の違いだと。

「口から何かを吐き出すことと、口に何かを入れられること、とを考えてごらん。よほど好きな人とか信頼してる人からでないと受け入れられないでしょう。“受け入れる性”としてのつらさや難しさを考えてあげられなくては。よく入れる立場から、“ちょっとでいいからやらせて”なんて言うけど、“ちょっと”じゃダメなんだ(笑)。やるんならしっかりと。“キミをずっと大事にするからやらせて”でないと受け入れてもらえないし、本当の愛とは言えないね」

人生における第一は人と触れる人間学

菊治は冬香と二人で強く深い愛の世界を作り上げてきたと考え、“圧倒的な性の喜びの体験者であり”“まさしく性のエリートである”と自認する。しかし、「愛し合った果ての情熱による行為を、それを知らない第三者は単なる事件の“殺人”として裁こうとする。 “愛ルケ”の基本は、“情”と“知”との対立を描いたもの。情が人間の基本なのに、理で全部裁けるのか。すべて論理で裁こうとする。知が上で情が下と決めつけている現代社会への批判と警告が、この作品の大きなテーマでね」。“知”や“理性”中心の現代社会…いまの若者たちの象徴のようにも見える。

「ぼくが知ってる20代の人は一部を除いて、みな優しくてきちんとしている。でも…輝きがない気がする。ぼくはなによりもまず、人を好きにならないといけないと思う。“面倒だ”といって触れ合わないでいると、いつまでも幼くて一人よがりな人間になってしまう。現実の社会は学問とは違う。生の人と触れて、恋愛して、相手を知り、自分を知ることが一番大事な学問で、これこそ人間学だね」

先生、もともとは医学の道にいた。札幌で医大に進み、途切れることなく恋愛の日々をすごしてきたという。

「女の子なんて、そんな簡単に恋人になってくれないよ。やっぱり“受け入れる性”だから。一人を追ってつかまえるのは大変。“二兎を追うものは一兎をも得ず”って言うけど、二兎しか追わないから駄目なんだよ。自信のない男は四兎も五兎も追わなきゃね。女にダメって言われてもいい。男は断られるのが仕事だから。精子を考えてごらん。ものすごい数が卵子に向かうけど、受け入れられるのは一匹でしょう。とにかくぼくは女が好きだった。女好きほど楽しいことはないだろう(笑)」

小説の世界に行くのは、35歳。医学から文学への移行は必然だったという。

「医学というのは人間を論理的に見る学問。人間の体を開くと、血管も神経も筋肉も、すべて解剖の教科書どおりになっている。“オレってなんなの?”と思った。でも、みんな同じはずなのに、アタマのいいヤツと悪いヤツがいて、神経質なのと大らかなのがいる。人間のなかにも非論理的なものがいっぱい詰まっている。そう思って、それを探ることを考えたら、文学にぶつかった。人間とは何かと論理的に追うのが医学なら、精神面から探求していくのが文学。でも、文学も医学も人間好きでないとできない。好奇心や人間への愛着が原点にないとね」

さて、“法は情を裁けるのか”という最大の問題。菊治を納得させるのは、ある人間学の達人からの言葉であった。読む者を仰天させるようなひとこと…。

そうそう、渡辺淳一先生、今年で72歳。これも仰天させられる事実である。

1933年10月24日、北海道生まれ。58年札幌医科大学医学部卒業。医学博士。札幌医科大学助手、同大医学部整形外科教室講師を経て、同大学での日本初の心臓移植手術を描いた『小説・心臓移植』(『白い宴』改題)を発表し、69年から文学の道に。翌年、『光と影』で第63回直木賞、80年吉川英治文学賞、03 年には菊池寛賞などを受賞する。『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など絶対的な愛とエロスの原点を求めて人間を描く。オフィシャルブログは

■編集後記

札幌医科大学の学部を卒業したのが26歳、33歳で外科教室の講師になる。「胃潰瘍ひとつとっても、人によって症状も薬の効き方もみな違う。人間のバリエーションというか個々の違いを知ることが大切で。ここから踏み込むと論理で説明できないところがたくさん出てくる。これを書くことが文学でね。だから医学も文学もあまり違うことをやってるとは思ってないんだ。恋愛だって、一人の女の子をくどくのにも相手の個性によっていろいろな方法が必要になるでしょう。そこが人間の素敵ですばらしいところでね!」

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
サコカメラ=写真
photography SACO CAMERA

関連キーワード

注目記事ピックアップ

 

編集部ピックアップPR

ブレイクフォト