「プロ意識は希薄だった。それがよかったのかな」

小山田圭吾

2006.10.19 THU

ロングインタビュー


平山雄一=文 text YUICHI HIRAYAMA サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA スチーム…
100人のサークルから、日本中を引っかきまわす

高校時代にバンド活動をスタート。「世の中のアマチュア・バンドはBOΦWY一色だったけど、うちの学校じゃそれをやるとバカにされてた。僕が手伝ってたのはジーザス&メリーチェーンとかクランプスのコピーバンド。マニアック過ぎて普通の生徒にはわからないから、まるっきり反応がなかった。でもやるのが楽しくて、いくつもバンドを掛け持ちしてました」

ちょっと変わった音楽好きの高校生だった。卒業後は専門学校に通いながらアルバイトの日々。友達に誘われて再びバンドに参加するのだが、メンバーチェンジを繰り返すうちに自分の好きなことがやれるようになった。初のデモテープが音楽関係者の耳に止まり、ポリスター・レコードから突然、レコーディングしてみないかと誘われた。

「すごく小さなイギリスのインディーズ・レーベルに影響を受けて。たぶんリスナーが全国で100人にも満たないような狭いサークルの中で活動していたので、自分のやってる音楽が職業になるとは思ってもいなかった。自分たちはオタクだと思ってたし、それを楽しんでた。だからレコード会社から声がかかっても“変わってる人もいるもんだ”ってくらいにしか思わなかった。僕らとしては“記念に1枚”、みたいなつもりだった」

確かに奇特な申し出だった。当時のメジャー・レコード会社は売れそうなポップ・アーティストの青田買いをしまくっていたから、アンチ売れ線の小山田たちに目を付けたのはかなりの冒険であり、目利きの仕業だった。

フリッパーズの1stアルバム『three cheers for our side~海へ行くつもりじゃなかった』はこうして世に出ることになる。

小山田が20歳の時だった。

「リリースしてみたら、思ったよりリアクションが大きかった。もっとも僕はちょうどそのころ、交通事故で入院してたから、本当のところはよくわからなかったんですけど」

ベタなJ‐POP全盛時代の中で、洗練されたネオアコ・サウンドに乗った全編英語詞のアルバムは、ファッション的にも音楽的にも高感度な一部のファンの間で大きな話題になった。すぐに新しいもの好きのジャーナリズムが殺到。一躍、東京アンダーグラウンドのヒーローと呼ばれるに至ったのだった。

「びっくりしながらもうれしかったんですけど、若かったから突然今まで読んだこともないような雑誌から取材されたりして不機嫌になったり。いきなりギョーカイの真っただ中に引っ張り出されて、それを面白がる気持ちと不満が半分半分だった」

人気というのは恐ろしいものである。フリッパーズはその不機嫌な表情や発言までもてはやされた。もちろん生意気だという批判もあった。しかし彼らは、新しい音楽世代の登場を確実に告げていた。

「CDを出してもまだ“定職に就いた”っていう意識はなくて、いわゆるプロ意識は希薄だった。でもまたそれが良かったのかな、周りの騒ぎようを見てると。無責任に引っかき回していたのが、周囲からは自由に見えたのかも」

この冷静さ。

騒ぎの中心にいた小山田はやはり“アンファンテリブル=恐るべき子供たち”だった。音楽が巨大ビジネスになるにつれて、ミュージシャンは特別の存在ではなく、親しみやすいキャラクターになっていった。なかでもフリッパーズのセンスの良さは明らかに異質だった。サウンドはもちろん、メンバーのファッションやCDのジャケット・デザインに至るまで、いちいちかっこいい。おまけに遠慮のない発言が大人の目を泳がせて喝采を浴びた。売れるためにアーティストが媚びるのは当たり前と思われ始めていた音楽シーンに、痛烈な一撃をくらわせたのがフリッパーズだった。

「それまで自分たちとは無関係だった人たちが、僕らの音楽を聴き始めた。急に忙しくなって、完全に周囲のペースに呑み込まれた。あまり経験がなかったから、スタッフから言われたことは全部やった。それで無茶苦茶なこともあったし、失敗もしたし。だけどそれを面白がってたところもあった。相当、適当にやってましたよ、タチが悪いですよね(笑)」

生意気な小僧たちは、当然のように女の子の憧れの的になった。状況は好転し、2ndアルバムはロンドンで制作されることになった。シングル「恋とマシンガン」はテレビドラマ『予備校ブギ』の主題歌になり、『カメラ・トーク』はレコード大賞新人アルバム賞を受賞。

フルスピードで駆け抜けたフリッパーズは3rdアルバムを出した後、間もなく解散。

小山田、まだ22歳の時だった。

プロ意識とは果たして。独自の審美眼の成熟

「しばらくはプー太郎状態。すぐに音楽をやる気にはならなかった。お金がなかったので、恥ずかしかったけどTVコマーシャル(整髪料)をやった。それが初のソロ音源(笑)」

やがて小山田は92年、“トラットリア・レーベル”をスタートさせる。

「自分でレーベルをやるっていう意識はあまりなかった。そんなとき、ロンドンの知り合いから日本で出したいって相談を受けたりしてるうちに、“友達のCDを出したいな”ってくらいの気持ちでレーベルをスタートさせた」

次々にリリースされるCDはオリジナル・ラヴなどとともに“渋谷系”と呼ばれるムーブメントを形作った。結局、トラットリアは02年の解散までに250タイトルにのぼるアイテムをリリース。その後の音楽シーンに大きな影響を与えることになった。希薄なプロ意識が幸いして、23歳の若者は自らの審美眼を大きく開花させたのだった。

25歳でコーネリアスの初アルバムをリリースするが、「まだ音楽に対して職業意識はなかったですね。ちゃんと音楽をやろうと思ったのは3rdアルバム『FANTASMA』の海外発売が決まってから。もちろんそれまでだって真剣にやってきたつもり。でも、自分がずっと音楽を続けていくのか確信が持てなかった。だから歓迎すべき変化、それにしてもずいぶん遅いよね(笑)」。

30歳を目前にした大変化だった。

ところで小山田は細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一というそうそうたるメンバー、つまり元YMOの3人それぞれから熱烈なラブコールを受けている。

「ここ数年、先輩たちから誘ってもらって一緒に作品を作ったり演奏する機会がありました。彼らの演奏しているときの出音だったり、くだらない話をしているなかからも影響を受けているかもしれません」

3人は小山田と同じく卓越した審美眼で日本の音楽シーンをリードしてきた先達。“誇り高きマイノリティ”の一員として小山田はついに先輩たちに認められる存在となった。

「今回のアルバムでは、フランク・シナトラの「Sleep Warm」のカバーをしています。今の時代にはあり得ない表現、環境問題もテロもなかった時代のアメリカン・エンターテインメントのいちばん凄い部分に憧れます」

プロ意識が希薄だった男が、プロに徹したシナトラに惹かれる不思議。

今、巷にあふれるポップ・アーティストとはまるで異質な小山田の審美眼は何をつかみ取ろうとしているのだろう。時代を超越した最先端がそこにあるに違いない。

1969年東京生まれ。高校時代より音楽活動を展開、アマチュアバンドで活躍し、89年フリッパーズ・ギターでデビュー。91年に解散。92年より「トラットリアレーベル」を主宰。02年まで10年にわたり250作をリリース。95年より彼一人のユニット、コーネリアスとして活動開始。97年、サードアルバム『FANTASMA』リリースとともに、米マタドールレコードと契約し、世界を舞台に活躍し始める。近年ではBECK・STING・BLUR・SKETCH SHOW・坂本龍一などらともコラボレート。新作『SENSUOUS』は、5年ぶりのオリジナルアルバム。“プロ意識”を意識したシナトラのカバーを含む全12曲。小山田圭吾(G)・堀江博久(Key)・清水ひろたか(B)・あらきゆうこ(Dr)の“CORNELIUS GROUP”でのリリースツアーは来年2月23日札幌よりスタート。東京は3月9日LIQUIDROOM ebisuと4月5・6日のSIBUYA-AX。詳細は

■編集後記

トラットリア・レーベルを立ち上げて、所属グループやピチカート・ファイヴのプロデュースをしてるうちに、24歳になった。「他の人と音楽を作ってたら、だんだん自分でもやりたくなってきた。ただ小山田っていう名前でやるのは照れくさくて、バンドみたいな名前を考えようと。それで“コーネリアス”にした」。25歳でソロ・ファースト・アルバム『The First Question Award』を発表。ビジュアルも含めて絶賛を浴びる。その勢いをかって、国内ツアーを行なう。

平山雄一=文
text YUICHI HIRAYAMA
サコカメラ=写真
photography SACO CAMERA
スチーム=編集
editorial STEAM

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