「将来はわからへん。今が大切。」

赤井英和

2006.11.02 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
手作りジムで世界へ。九死に一生を得る

“25歳の2月5日…おお、ニコニコやね”と赤井は笑う。

6月に2度目の世界タイトル挑戦を控えた前哨戦、大和田正春との試合で7回KO負けを喫する。急性硬膜下血腫、脳挫傷で生存率20%の重体。奇跡的に回復するも、医師から引退勧告。

「いつかは引退せなあかん。でも、今をどう生きるかだけを考えてました。まさか自分がやめるなんてことは夢にも思わず、次に試合の決まった相手を倒す、ということしか考えてませんでした。ほんまに、将来のことなんてどっちでもええと思ってた気がします」

高校時代からボクシングを始め、近畿大学在学中にプロデビュー。目標はもちろん世界チャンピオンだった。ただ、軽々しく“もちろん”なんていうほど、それは甘いものではない。

「みんな笑いました。世界タイトルって、大きい有名ジムがスポンサーつけてやるようなことです。僕の入ったのは愛寿ジムっていうちっこいジムでした。会長と選手は僕一人。文化住宅の1階を改装して、会長が日曜大工でポール立てて縄張って。“そっちの壁の向こうで病気のおばあちゃん寝てるからもたれるな”って言われるような(笑)。会長はタクシーの運転手さんで、2日にいっぺん乗車明けの日に練習見てくれました。それ以外はひとりで」

小さな無名ジムが世界を目指すため、会長と赤井がとった手段は、マスコミを味方につけることだった。

「マスコミは記録が好き…よしKO記録や! って。1試合目からずっと、KOし続けたら、マスコミも気にするやろ」という大雑把な作戦。だが、見せるために赤井はボクシングスタイルを変えた。相手と距離を保って的確なパンチを繰り出すアウトボクシングから、前に出て攻め続けるファイターへ。“メンチ切ったら相手がびびったから勝つと思った”などの、試合後の面白コメントも話題となり、“浪速のロッキー”は注目を集めていく。8戦目からはテレビ中継が入り、11戦目のときにジムにスポンサーがつき、名前がグリーンツダジムとなった。連続KO記録は12まで伸び、本当に世界戦が決まってしまった。

83年7月7日、近畿大学記念会館にて。WBC世界ジュニア・ウェルター級タイトルマッチ。相手は王者、ブルース・カリー。試合前の赤井のコメントは“7月7日やから7回に倒してパチンコのフィーバーにしたる”だった。

「目標にしてた世界タイトル。1万何千人のお客が入って、知り合いもいっぱい来てる。その控え室に入って花道から入場してきたときに、会長とそれまで2人でずっとやってきた夢を達成してしまったんですわ。リング上がってそのまま帰ってもええくらいやった。それ以上の、世界チャンピオンっていうことを、思いつけなかったんです」

7回、TKO負け。

「やってみて思ったんです。“俺と世界チャンピオンの差って、そんなになかったな。あれやったら勝ってたぞ”」

藤 猛、柴田国明、ガッツ石松、後に井岡弘樹など、生涯に6人のチャンピオンを育てることになる名トレーナー、エディ・タウンゼントとのタッグで、赤井は再び世界を目指す。

「試合の後、エディさんといつもメシ食ってたんです。うちの実家でおかんの手作りの料理。初めてうちに来て、帰り際、送っていくときに言われました。“赤井ネ、赤井が赤ちゃんのときはママがほっぺにキスしてくれて頭なでてくれたネ。今度は小さくなったママをネ、赤井がだっこしてキスしてあげるの。それが赤井の役目ね”。ああ、優しい人やなあって思って。今もそのエディさんの言葉は受け継いでるつもりです」

2度目の快進撃の果てが、25歳での大和田戦。ボクサー生活最後の試合、赤井が倒れる瞬間に、リングにタオルを投げ入れたのが“エディさん”だった。

この仕事がしたい!もっと俺にライトを!

引退後は、「通院する以外は酒ばっかり飲んでました」という。そんな生活が半年にならんとしたとき、かつての仲間が声をかけてくれた。赤井は近畿大学ボクシング部のコーチとなった。

「ついこの間まで現役の選手でしたし、僕にはエディさんのハートもテクニックも詰まってる。選手に一番近い立場で接することができる。天職でした。毎日練習に行って、そこでの時間はすごく充実してる。テンションも上がってるんです。でもそれが終わると、無性にさびしい。どうしたらいいかわからずに酒ばっかり飲んでました」

3年間のコーチ生活で体重はおおよそ20kgも増えていた。町を歩けば、顔を見ながら“惜しいヤツを亡くした”という罵声を浴びせる者もいたという。

「トレーナー、コーチというのは選手と同じ涙を流せるすばらしい仕事です。試合中はリングサイドから声をかけて、選手がコーナーに帰ってきたら励ましてアドバイスする。縁の下の力持ちです。そこでライトを浴びているのはボクサーです。今にして思えば…僕がいつもさびしくなっていたのは、ひょっとしたら、まだまだ自分にライトを当ててほしかったのかもしれません」

映画監督・阪本順治からの出演依頼がきたとき、赤井は“これしかない!”と思ったという。作品は赤井の自伝を題材にした『どついたるねん』(89年)。阪本順治は赤井英和に約20kgの減量を命じた。それが映画というリングにあがるためのリミット…。

「震災の後、古市さんが車のトランクからゴルフバッグを見つけて“奇跡や!”って思ったのと、似てますよね。僕は即、受けました。阪本監督が俳優・赤井英和を生んでくれたんです。赤ちゃんやった赤井英和におっぱいあげて、立たしてくれた。とにかく言われたままやった。撮影が終わってからつながったのを観て思ったんです。“あーなるほどこういうふうになるんやったら、ここもうちょっとこうすればよかった”…」

今度は勝てるんちゃうん? 世界戦で敗れたときと同じモチベーションだ。

「ああ、俺この仕事もっとやってみたいわ! 自分の体を通して監督や作品のメッセージを伝えていく。すばらしい仕事じゃないかって。そこからです」

そして現在に至る…わけではなく。

「俳優したいと言うたところで仕事ないですからね。しばらくは親のすねかじってました。それから結婚して、33~34歳まで、実家(笑)。そのころからようやく仕事が順調になってきまして。でもね、将来のことなんて考えてない。今日やることが大切で」

背後の映画のポスターに目をやる。

「わからへんやん、何があるか。いや、ホンマ今が大切。今やと思います」

1959年8月17日大阪生まれ。高校入学と同時にボクシング部で活躍。近畿大学進学後はプロボクサーデビュー。愛寿ジム(後のグリーンツダジム)に所属し、12試合連続ノックアウト勝ち。83年、WBC世界ジュニアウェルター級王者、ブルース・カリーに挑戦するもTKO負け。85年、25歳のときに引退。近畿大学のコーチを経て、89年、阪本順治監督の映画『どついたるねん』で俳優デビュー。続く阪本作品『王手』でステップアップ(11月3日まで上野・一角座にて上映中。これを含む「the IKKAKU Festival」は12月17日まで。)。以降、『幻の光』『十五才 学校IV』などに出演。ドラマ・映画を問わず今や演技派俳優としてすっかり定着している。『ありがとう』は11月25日より全国東映系でロードショー。

■編集後記

インタビュー中、「僕ほど穏やかな人間はいない」と言ってすぐ、マネージャーさんに「アホンダラ、ボケカスーッ」と罵声を飛ばすボケをかましたり、撮影しやすいように表情を硬直させたり。サービス精神はボクシング時代からの賜物。試合後の面白コメントは「とくにネタはなかった」という。「いまやったら何でもしゃべりますけど、昔は自分の感情のとおりでした。何しろ一番興奮した状態やから」。だが、実は阪本順治監督も、その面白さのファンだったという。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
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