「現在は、未来への過程でしかない」

氷室京介

2006.12.21 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA …
真剣に全力で。だが伝わっているのか

バンドは4人だったがソロは一人だ。

「バンドは、いい意味で無責任に楽しみながら、予期しない成功に導かれることが多い。自然に楽しんでやっていることが逆にオーラになるっていうか。ひとりひとり違うファクターがあって、それぞれが絡むわけですから、ソロの4倍の可能性がある。気楽にやることでポジティブな結果が出る場合が多いんです。成功している若いバンドのほとんどが、このケースじゃないかな。で、計算なしに成功するから、壁にぶつかるんですよね。成功してしまったがゆえに自分たちのバランスが取れずに、どうしていいかわからなくなる。俺の場合はたまたま解散して、そのあと日本でソロでやっていくのも、みんなで考えた作戦が当たって、数字的には大正解な結果になるんですけど…」

事実、シングル「ANGEL」、続くアルバム『FOLOWERS for ALGERNON』は大ヒットを記録する。93年にリリースしたアルバム『Memories of Blue』はミリオンセラーに。売り上げだけでなく、氷室自身が「“このアルバムはやりきった、最高だ”っていう1枚はないけど、それにいちばん近かった」と言い切れるほどの作品だ。

だが、こうした「大正解な結果」によって、氷室京介とそれを取り巻く環境とのバランスも崩れ始めていた。

「100万枚を超えて、当時自分が思っていたのは、“自分の音楽がどれだけの人の深いところに響いているのか”ということでした。“なんでそんなに評価されるんだろう”っていう疑問」

骨身を削って全力で己を追い込んで創造したものが、大多数に支持される不信感。そして“氷室京介”はある種のビッグプロジェクトになっていた。

「みんなが腫れ物に触るような感じで俺に接するんですね。三十何歳っていってもまだガキですよね―いまよりは若いという意味で。俺をプロテクトする人たちがいて、スター扱いする人もいっぱいいて。周囲に自分を映すものがなくなった。見渡しても誰もリアルな自分を映してくれない。俺が言ったことに“そうですね”って返すだけ。裸の王様になる危険をすごく感じていたんです。しかも、自分には音楽しかない。このままじゃ切符の買い方すら忘れるな、ヤバイな俺、って思ってた」

ロックスターはそういう状況を楽しみ、ホテルの部屋からテレビをプールにぶち込むものなのではないだろうか。

「それは古い。いまの時代はきっちりいろんな情報を自分の頭にインプットして、そこでの自分の動きを計算してロックをやっていくことがいちばんパンクだし、いちばんロックなんですよ」

30代前半、悶々としていた氷室京介が突き抜けるきっかけになったのは、アメリカであった。

自分が自分であること。それを実現できる場所

現在、ロサンゼルス在住。アメリカ行きを決めたのは94年。PVの撮影で渡米し、そのまま所有していた別荘に居ついたのが始まり。きっちりと部署に分かれ、各々が自分の管轄でプロの仕事をきちっとこなす。アメリカのスタッフの働きぶりを見て即決した。

「日本にいて、自分が自分じゃない姿で周りと波長を合わせてたら、絶対後悔するだろうって思ったんです」

音楽を始めたのは、誰とも融合できないからだった。BOφWYの“φ”は、どこにも属さないという意味の空集合を表していた。誰かに合わせる生き方は、アイデンティティーの危機だ。

アメリカに行ってしまうことで、アーティストとしては「いなくなるだろう」と思っていたという。それに対する恐怖感はあったけれど、「自分で選んだことだから、そこに向かって泳いでいくんだっていうことですよね」。

自分が自分であることに強固にこだわって、時間をかけて吹っ切った。

「そこで離れていった人もいると思う。それでも俺の音楽を聴きたいとか、俺と同じような不都合を感じてるであろう人間が、思ってたよりいてくれた。俺、かなり勝手にやっちゃってるんで。アルバムにもかけたいだけ時間をかけて…で、これかよ! って言うファンもいると思うけど、また来るんですよ。俺が本気でやってることを、認めてくれてるからだと思うんですよ。他人と合わせないで、偉そうに好き勝手なことをやっていることに関しては責任とろうと思ってますからね。俺は俺のやりたいようにやって、死ぬときに最高だったなあって思えればいい。それをするために生まれてきたような気がする。あとは家族を…幸せにしないまでも不幸にはしない。子どもは父親と同じ運命でアメリカに連れて行かれて、その勝手な欲求に付き合ってるわけですから、そこは子どもに筋を通す。ファンにも筋を通していればいいのかな。媚びはしませんけど。自然と結果はついてくると思うんで。ついてこなくても、それはそれでいいやっていうね」

どう転んでも自分で責任を取る。だから好きなようにやる。最強だ。

モチベーションは尽きない。新たな刺激が新たな音への欲求を生み出す。

「若い連中はこんなことやってるよ! カッコいいじゃんっていう。自分のファクターを通すとどうなるんだろう…あ、もっとカッコいいことできるよなって。後はいろいろな知識や考え方が、向こうにはいっぱいある。そうしたノレッジが自分のなかに入ってくること、それ自体が人生だな」

アルバムにもじっくりと時間をかける…というよりもそうせざるを得ない。新作『IN THE MOOD』は、あいだに2本のライブツアーを挟んだとはいえ、リリースまでに3年4カ月を要した。

「最初に自分がたてたコンセプトやイメージって抽象的なんですよね。それを自分のなかで満足のいく最終形になかなかできないんです。曲作ってアレンジして録って、すぐ歌をのせられるかというと、アレンジの時点で“あ、こんなんじゃないや”っていう。で、曲を作り、録ってはまた“あ、違う”って。それの繰り返しだったりする。プロのアーティストとしてこれ以上は許されないっていうギリギリの期限まであがいてあがいて。でもそこではどんなに悶々としようが出す。それに対しての答えはきちんと受け止めよう、と思っています」

テンションと鼓動が一気に上がっていきそうなビートの連なりを氷室は自ら「スピードに乗りやすいアルバム。疲れたときに聴くと冷や汗出るよね」と称し「100%落としどころはうまくいったわけではないが、トライすることはすごく楽しかった」と語った。制作中は非常にナーバスになるらしい。

「“こんなアプローチもあるけど、日本では理解されなさすぎるよな”って不安になったり。“いや、でも俺はやりたい。これがいまの流行の音じゃん!”って、ホント、ジェットコースターみたいに上がったり下がったりですよ。クリエイターだし…」

何よりも真剣にやっているから。

愚問だと知りつつ、25歳に戻りたいかどうかを聞いてみた。フッと力を抜き「体力的にはね」と言う。

「でも今の自分とどっちが輝いているかというと、比較になんないですね。あのころはウネウネウネウネ弱っちいこと言ってた。今は…世の中いい加減なヤツが多いからなんだけど“オメエらなんかに負けるわけねえじゃん、来るなら来い!”って感じ。25歳のときは“自分なんか自分なんか”って思ってたけど、いまは、説得力のある音楽が作れない? 作りゃいいじゃん。死ぬまでに“この曲を歌うために生まれてきたんだ”って言える曲を作れるようにがんばればいいじゃんって」

確信した強い視線でこちらを見、しっかりとこう付け加えた。

「現在は、未来への過程でしかないわけですからね」

1960年10月7日生まれ。群馬県出身。82年ロックバンドBOφWYでデビュー。6枚のオリジナルアルバムを残し、88年解散。同じ年「ANGEL」でソロデビュー、ソロデビューアルバム『FLOWERS for ALGERNON』はこの年の日本レコード大賞ベストアルバム賞を受賞。93年にはシングル「KISS ME」、アルバム『Memories Of Blue』がいずれもミリオンセラーとなる。94年より拠点をアメリカに移す。今日まで一貫してソロアーティストとして活躍する。今年8月GLAYとのコラボシングル「ANSWER」をリリース、競演を果たす。12月20日にニューアルバム『IN THE MOOD』をリリース。来年2月24日よりリリースツアーもスタートする。

■編集後記

ナヨナヨしていたという。子どものころから、自分のやりたいようにやり自分で責任を取ってきた。本当ならばそういう性分だったのに「25歳の頃、一時変わりました」そして32~33歳のころにも。「あのまま日本にいれば、今ほど抜けてはいないと思います。日本はね、周りと足並みをそろえることを考えすぎなんですよね。みんなが周りを見て、“あ、どうぞどうぞ”って一歩ひいてる。みんなで一斉に前に行けばそれがすべてパワーになるのに」

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
サコカメラ=写真
photography SACO CAMERA
橋本孝裕(SHIMA)=ヘア&メイク
hair&make-up TAKAHIRO HASHIMOTO

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