「誰にでも、適した場所がある」

毛利 衛

2007.01.11 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
未来館はハコモノではない。人が伝える“文化”

緑の上着の人はインタープリター(展示解説員)。最先端科学を、一般見学者に伝える役割だという。

「展示なんて半年で古くなるんですよ。いままでの世界中の科学館は、そこにある“モノ”を見せておいて、すごいだろうということで印象づけてきた。われわれは人を通じて見せるんです。こだわりたいのは“意識”であり、“文化”であるわけです」

それはつまり知識ではない。たとえば、館内3階の『超伝導ラボ』には研究者のパネルが貼られていて、スターのようにサインが入っている。“科学者ってカッコいい!”と思う気持ち…文化としての科学技術は、意外と身近なところにあるのかもしれない。毛利さんはその例として携帯電話を挙げた。

「年配の人にとってはまだまだだけど、若い人たちには文化だよね。きちんと使いこなせる。価値もわかる。たとえば『R25』を見たときに“いいね”っていえる価値観。小さいころから養われたのか、両親の影響なのか、社会と時代を反映してそれぞれが持っていますよね。携帯電話に関しては、若い人みんなそれがある。でも遺伝子治療とかナノテクノロジーに対しては“いい”とか“悪い”とか言えない」

そうした、一般的ではない科学技術を、研究者の情熱まで含めて知ることにいかなる意味があるのか。

毛利さんは言う、ひとつは「若者にとって生きる意味みたいなものを考えるきっかけになる」から。もうひとつは、「危険から身を守る」術になるから。

生き残る実感はNASAが教えてくれた

現在、未来館では『65億人のサバイバル ― 先端科学と、生きていく。』が行われている。テーマは“生き残り”。

「…いまあるものがいつかなくなる、というのが自然の常。それは個人に関してはわりとわかる話でしょ? 必ず腹は減るし、徹夜すると疲れる。人は、そういうことを繰り返して生きていく。そしてほかの人にも人生はある。いま地球には65億人がいるわけだから、それだけの人生がある。そして、50年後には100億人の人生があるかもしれない。すべての人々にとって、“いまあるものはいつかはなくなる”わけです。いま、自分が生きている状態から、そこまで想像できたら、そうすれば少しは人類も生き残れるんじゃないのというメッセージが隠されているんです」

“生き残り”は毛利さんのテーマのひとつである。NASAでのサバイバル・トレーニングを通じて得た実感。

「言葉では通じない部分もあるんですが…。“うまくいく”想定のことなんてほとんどしません。“ありえない”状況を持ってきて、それ以外の余裕を与えない。そうしたシナリオを次々とこなしていって、条件反射的に対処できるようになるまでやり続ける。プロ野球選手が苦手な球種を克服するのと同じです。頭で考えていては手遅れになる。いろんな条件をいくつも出されて瞬間的に判断してゆく。うまくいかなかったら、それで終わり…トレーニングでは何度も私、大西洋に突っ込んで死にました(笑)。でも不思議なことに、何度もリセットボタン押して、3カ月もやってれば、だんだんできるようになってくるんです」  

個人の限界はチームワークで克服できる。スペースシャトルに乗るクルー、地上でサポートするチーム、その背後にいる技術者たちが一丸となってプロジェクトが進行するのである。そこでは不確定要素は完全に排除される。

「まずビッグ・ピクチャー…プロジェクト全体からどんな成果を得られるのかを定義します。最初と最後のスケジュールを決め、そこから逆算し、ここまでに何をする、ここまでに何をする…ということを全部はっきりさせていくんですね。関わる全員の役割をすべて定義する。そうして達成できない場合はクルーを代える。“ゴーかノー・ゴーかわからない状態”を絶対に残さない。判断に迷うから。そうすると、次の手が打てなくなる」

それをできることが前提。さらにその力を訓練によって伸ばせることが宇宙飛行士としての正しい資質だという。

「でも、われわれは宇宙に行くのに適応した人たちであって、地上でサポートする人たちは別のすごい適応能力を持ってるんです。コンピュータをすごく使いこなせるとか、起きないかもしれない事態を想定して、不具合を起こせるとか。われわれは全部うまくいくと考えたいんだけど、世の中には“こんな故障や、間違いが起きないとは限らない”って、ありえないような状況を考え出すオタクで心配性の人もいるんです。NASAではそんな人が優秀な仕事をします」

資質はきっと変わる。適応できる場所がある

現在58歳。予想外に宇宙飛行士となったのは37歳で、予想外に未来館館長となったのは53歳のことだった。

仮に予想通りなら…中学生のときにソ連(当時)のガガーリンが人類として初めて宇宙飛行に成功。高校1年で皆既日食を見て、宇宙に思いを馳せた。が、高校時代“石橋を叩いても渡らない男”と呼ばれたという。北海道大学理学部に入学しても悩み続けた。

「学園紛争のころでした。ベトナム戦争があり、一方で月に行くような…日本がどうなっていくのかわからないような混沌とした時代。自分が何に適しているかもわからなかった。研究が好きなのはわかってきたけど、仕事がない研究者が学内にいっぱいいて、食えるのか不安だった。ふと飛行機のパイロットはカッコイイなとも思ったり」

学部の4年で公務員試験を受けた。2次試験の日程は1969年7月20日、つまりアポロ11号が人類最初の有人月着陸ミッションに成功した、まさに当日だった。毛利さん、「いまは試験を失敗しても、世紀の一瞬を見逃さない方が意味がある」とエスケープ。

結果、大学院で修士号を取り、さらに「あこがれで」オーストラリアに留学を決定。ここまでは絵に描いたようなモラトリアムだった。だが、オーストラリアで毛利さん、意外なターニングポイントを迎える。「ドミトリー(寮)に入ったら、隣の部屋が女の子で…男女同じ宿舎というのも驚きですが、シャワー浴びて浴衣みたいなのだけ羽織って平気で廊下を歩いていたり。“ヘエッ!”って思いましたね(笑)。今から35年前です。学生紛争の真っ只中から来た人間には、“ああ、こんな世界もあるのか…”ってすごくショックでした。それで一挙に価値観が変わりました」

3年後、28歳のとき博士号を修得し、恩師の招きで大学に非常勤助手として戻る。いつも解雇の不安があった。旧弊な学内のシステムや教授連の親分子分な雰囲気に不満を持ちつつも、がむしゃらに働いた。32歳で講師に、34歳で助教授となり「論文も100篇超えてたし、そのままいけば教授だったでしょうね。先は見えていた。そんなの面白くないじゃないですか」。

宇宙開発事業団(現・宇宙航空研究開発機構)が初めて日本の宇宙飛行士を募集したのは、翌年のことだった。夢はかなった。人生のうちでこれまで「あこがれの宇宙にいたのはわずか19日」だという。

「私が言いたいのは」と毛利さん、きわめて優しげに微笑んだ。「クルーはいつも楽観的。助かることしか考えない。だけど、地上の人は心配性な方が仕事ができる。世の中ってそんなもんです。いろんな人がいて初めて全体がうまくいく。だから自分を否定しちゃいけない。仮に暗いと言われても、それは下積みもできる耐性なのかもしれない…という考え方自体が宇宙飛行士の楽観性なのかもしれないけど(笑)。ホント、大丈夫、自分を信じて何かを求める努力をすればね」。

1948年北海道生まれ。日本科学未来館館長・JAXA宇宙飛行士。北海道大学助教授を経て、85年、宇宙開発事業団の初代宇宙飛行士に選ばれる。92年、スペースシャトル<エンデバー号>で、日米協力微少動実験遂行。子どもたちとの宇宙授業実況中継成功。00年、再び<エンデバー号>で宇宙へ。00年10月、日本科学未来館館長に就任。今年1月には南極地域観測50周年記念事業で、昭和基地へ。

■編集後記

完全に悩める青年だっただけに、人間への視線は優しい。「世の中に心配性の人はたくさんいると思う。遺伝子の中にあるいろんな要素のうち、たまたまいまの時点で心配性が出てるだけで、それはその人の特徴なので、べつにいいんです」。「“科学”という、ものの見方を理解しておいてほしい。それは、あなたが心配性でも楽観的でも、誰でも同様の結果が得られるもの。この道具はすごく助けになるものです、心配性の人にはとくに」。

武田篤典(steam)=文
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