「憧れだけでもいいじゃないか」

高橋克実

2007.01.18 THU

ロングインタビュー


藤井たかの(steam)=文 text TAKANO FUJII 松尾 修(STUH)=写真 photography OSAMU MA…
好きな俳優に会いたい尋常じゃない憧れの力

「東京への憧れが半端じゃなかったですね。ちょうど高校時代が『太陽にほえろ!』や『俺たちの勲章』など、刑事ドラマや青春映画が全盛のころで。松田優作さんやショーケンさん、水谷豊さんに原田芳雄さん、あのころに刑事ドラマや青春映画に出ていた俳優はみんな大好きでした」

18歳、新潟から上京。俳優になろうなんて意志はまだない。ただテレビや映画で見た憧れの場所に足を踏み入れたかったのだ。

「上京して最初に行った場所は、『俺たちの旅』のロケ現場だった井の頭公園。『太陽にほえろ!』のオープニングシーンの新宿の高層ビル街にも行きました。とにかくテレビや映画で見たロケ地を連日訪ねてましたね。それがエスカレートして、好きな俳優の家の周りや、よく行くお店なんかにも出没するようになって。“ストーカー”って言葉がまだない時代でよかった(笑)」

表現者を目指すきっかけの多くは、表現への純粋な欲求だろう。しかし、高橋克実は違った。

「どうしても憧れの俳優に会って、話をしてみたかったんです。会いたい、でも会えない。思いがだんだん強くなってきて。結局、好きな俳優に出会うためには自分が俳優になるしかないと思った。完全にファン心理の延長ですね。演者として何かを表現したい、そんな思いはまったくなかったです。あ、今もあんまりないですけど(笑)」

21歳、俳優を志しオーディションを受ける。日の目を見る日はまだまだ遠い。きっと本人が思っていた以上に。

「てっきり、俳優を目指せばポンと簡単に映画に出演できると思っていました。若いころって他人から見れば“そんなバカな!?”って感じの、根拠のない自信があるじゃないですか。“俺が俳優になんないで、誰がなるんだ!!”なんてことを思ってました。そこで映画のオーディションを受けるんですけど、見事に全部落ちました。たまに書類審査は通ることもあったけど、最後まで残ることは一度もなかったです」

オーディションには通らない、映画にも出演できない。情熱はあるが現実の壁は越えられない。フラストレーションは溜まる一方だ。似た境遇の仲間が集い、自分たちで演劇をはじめるまで時間はかからなかった。かくして、26歳のときに仲間の誘いで劇団に所属。長い下積み生活が始まる。

ターニングポイントはないだから俳優を続けられた

劇団に所属した1987年といえば、世間はバブルの好景気で浮かれていた。恩恵は、もちろん受けていない。

「32歳まで四畳半のアパートに暮らしていました。トイレ共同、風呂なし。家賃2万5000円。でも譲れないのは角部屋。そんな生活でもまったく苦になりませんでしたよ。銭湯は目の前にあったし、当時はコインシャワーというものもありましたから。これがヒドいんですよ。湯船がないし、時間決めなのに最初は水しか出ない。コインランドリーを回している間にシャワーを浴びるんです。服はよそ行きのジャージか普段のジャージ。僕には広い家に住みたいとか、良い車に乗りたいとか、そういった願望がまったくない。今もあまりないですね。今日もジャージで来ましたから」

“演劇人は貧乏”を地でいった。もちろんずっとアルバイトの生活だ。

「いちばん長くやったのは看板を取り付ける仕事。よく国道沿いにでっかい看板があるでしょ。ああいうのを立てる。朝、車に乗って現場に向かい、穴掘って、看板を取り付ける。これが芝居をやっている人間には最高のバイトで。体は鍛えられるし、人の顔色をうかがうこともない。頭を下げなくていいし、道具の扱いもうまくなる。劇団では自分たちでパネル作ったり、セットを組めないとダメだからね。当時はみんな自分のガチ袋(釘などを入れる道具袋)を持ってましたから。バイトが終わった夜に稽古場に行って、その後に仲間と酒を飲む。みんなで演劇や映画について『あ~でもない、こ~でもない』と語り合う。すごく楽しかった」

客観的に見れば、高橋克実にとってのターニングポイントは、98年のテレビドラマ『ショムニ』で寺崎人事部長役を演じたことだろう。しかし、当人の意見は違った。

「僕にはなかったですね、ターニングポイント。いや、まだ来てないのかもしれない。だいたい30歳が近づくあたりで、これまで一緒に舞台やっていた連中が、『俺やっぱり働くわ』とか言い出すんですよ。で、就職したり結婚したりして田舎に帰っていった。たぶん彼らにとって人生のターニングポイントが、就職や結婚だったと思うんです。昔、一緒に役者を目指していた仲間はみんな辞めましたから。残ったのは僕だけです」

きっと、辞めるためのターニングポイントがこなかったのだ。

「タイミングを逃すと、ズルズルいっちゃうんですよ。親からも自然と勘当状態。『お前からのコレクトコールはもう受け付けない』って(笑)」

現実に向き合うことを忘れるほど、ただ好きな俳優と共演したかったのだ。

筋金入りのミーハー魂が自分を突き動かす

32歳、今の事務所に移り、徐々にドラマの仕事が増えてくる。舞台からテレビの世界へ。

「最初はまったく自分には向いてないと思いましたよ。芝居をしてる時に前に人がいるし、カメラもあるし。舞台と違っていろんな技術的なことが見えていないといけない。たとえば築地の魚市場のドラマで加賀まりこさんとご一緒の時に、松村雄基くんと喧嘩のシーンがあったんです。“うわー”ってやってると、だんだん場所がずれていくじゃないですか。仲裁に入る加賀さんが“いいかげんにしなっ!”とか言いながら、肩を押して場所を戻してくるんですよ。なんでこっちに押してくんのかな、って思ってたら、“アンタね、出過ぎ。ワク決まってるんだから”って。あれぐらいベテランの方になるとカメラのフレームサイズがわかるんです」

慣れないテレビ収録で、最初こそ戸惑ったが、やはり得たものの方がはるかに大きかった。松田優作を除き、川谷拓三や小林稔侍、桃井かおりなど、会いたかった俳優とは着実に共演できつつあるという。高橋克実にとって、昔テレビで見た俳優はヒーローなのだ。ブラウン管の中のヒーローが、現実に目の前に現れた今となっても、目線はあくまでブラウン管の外。憧れは色あせていない。

「この間、はじめて水谷豊さんとドラマでご一緒したんです。しかも8日間毎日一緒で。その時はもう夢のような気持ちで、異常なテンションでした。目覚まし時計なしでキッチリ起きて、撮影現場に1時間前に到着、スタッフはまだ来てない、みたいな。水谷さんに過去のドラマの話を根掘り葉掘り聞いてしまいましたよ。今も新しいドラマを録っているんですが、これが梅宮辰夫さんとかなり密に絡んでるんです。うれしいですね~」

1月11日に放送スタートした倉本聰による連続ドラマ『拝啓、父上様』のことである。江戸の情緒が残る神楽坂の老舗料亭を舞台に、二宮和也扮する一平が、失われつつある徒弟制度のなかで板前として、また人間として成長していく。そんな人情ドラマだ。花板には梅宮辰夫、高橋克実は若女将の婿養子、二番板の役で出演している。

「梅宮さんから東映時代の話をちょっと聞いちゃいました。ちなみに僕はCSの東映チャンネルに入ってるぐらいファンですから。梅宮さんが築地の場内を歩くとサマになってホントにカッコいいんですよ」

役どころについて聞いていても、子供のように目を輝かせながら、いかに梅宮辰夫がカッコいいかを熱く語る。しまいには一緒に撮った写メまで見せてくれた。つくづくミーハーな人である。それも筋金入りのミーハー。その変わらないミーハー魂が、プロとして一線で活躍するようになっても、自分を突き動かす原動力になっている。

「若いころに見た俳優と共演することが、この仕事をやっていていちばん幸せな時ですね。『やっと自分もここまで来たか』って実感できるんですよ」

1961年新潟生まれ。東京に憧れて上京し予備校に通う。82年より俳優を目指し、87年、「劇団離風霊船」に入団。主演男優として活躍後退団。98年、「ショムニ」の寺崎人事部長役のコミカルな演技でブレイクする。その後「トリビアの泉」の名司会ぶりで人気を不動のものに。現在、俳優、ナレーター、司会などマルチに活躍する。1月21日まで、世田谷パブリックシアターにて、八嶋智人とタッグを組んで『禿禿祭(はげちびさい)』を公演中。(問シス・カンパニーTEL:03-5423-5906)

■編集後記

俳優を目指し7、8人の仲間と一緒に芝居をはじめた。「小劇場を借りて、『仁義なき戦い』のパロディみたいなのやっていました。チケットも手売りで衣装も自前、観客はもちろん友だちだけ」。26歳で劇団に所属。「自分たちがやっていた芝居とのレベルの差に気づきましたね」。演劇の楽しさに目覚め、好きな俳優への憧れが日に日につのる28歳のころ、一番憧れていた松田優作が死亡する。「会う会えないよりも、いなくなったということが寂しくてしかたなかった」

藤井たかの(steam)=文
text TAKANO FUJII
松尾 修(STUH)=写真
photography OSAMU MATSUO

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