「出せ! カラッカラになるまで」

泉谷しげる

2007.02.08 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
挑発して引き出す。よくなるなら何でもやる

東京に入り込んだふたりの高校生フルタ(映画好き)とニッタ(ロック好き)がパンク心あふれる映画クルー(爆破シーンのために、無関係なクルマをバズーカでぶっ飛ばす)と出会い、知事に利用されたり戦ったりする。“映画を作ること”に関する映画である。

「台本読んでもさっぱりワケがわかんない(笑)。そういう方が、心が動くよね。“こうなるだろう”っていうイメージが想定できないじゃん。読んでわかったら映像化する意味ねえもんなア。だいたい俺はどんなもんでも、つねにワケわかんない状態ではいるんですよ…自分のイメージ凝り固まっちゃうと、楽しめないじゃないですか」

監督の渡辺一志は30歳。キャストはウェンツ瑛士21歳に中尾明慶18歳、いしだ壱成を中心とする映画クルーも30代そこそこ。若手中心の編成。だが、ベテラン泉谷しげる、ニコニコ見守ったりは、けっしてしない。

「“壱成、来いよ!”って、ガーン言いますよ。オラァ、もっと前に出ないと! 食わないと! 役者同士お互いに“それでいいのかよ!”って挑発しあって引き出さないと。監督は全体を整理するから、シーンでは俺、ガンガンやっちゃう。楽しみは、監督のイメージにできるかぎり近づけながら、“オマエ、ここまでは考えつかなかったろ”っていうものを見せることかな。それはお互いさまで、俺の予想を超えた形で仕上げられると、やっぱりうれしいもん」

大切なのはあくまでも全体。作品としてどこまでいくことができるか。挑発して引き出すのは、役者として当然。

「映画作りのためにはどんな汚い手も使いますよ…なんてネ。ものがよくなるんなら、待遇とか楽屋がないとかは、どうでもいい。今回も、それだからよかったのかもナ。寒いなかくだらない馬鹿ッ話を延々して、アイデア出しあったりしてたしね。でも役者同士のアイデアなんて、半分以上使い物にならないんですけど(笑)」

58歳。企業なら重役、あるいはもう定年の世代だ。なのに、30歳も年下のスタッフやクルーたちとマジ馬鹿話。

「同じ土俵だから、関係ないって」

1カットをじっくりと丹念に回す監督の姿勢。ハイビジョンの小型カメラなのに画に奥行きがあってすばらしいということ。作品について語るとき、泉谷しげるは完全に青年である。

めちゃくちゃな客。長くやるつもりはない

デビューは1971年。翌年にリリースの『春夏秋冬』、タイトル曲はいまも歌い継がれている。ほどなく井上陽水、小室等、吉田拓郎とともに“フォーク四天王”と呼ばれるようになった。

93年に彼は「一人フォークゲリラ」と題して北海道・奥尻島救済キャンペーンを展開する。94年には長崎・普賢岳噴火災害救済チャリティーコンサートを。95年には阪神・淡路大震災救済のため、街頭フォーク・ゲリラを決行。そもそもデビュー当時の「黒いカバン」は官憲を侮辱したかどで、「お~脳」は梅毒を題材としたため、長く放送禁止歌扱いにされている。泉谷のフォークは、アコースティックギターにのせたさわやかな青春の歌ではない。

彼のライブは、客との罵詈雑言のコール&レスポンスで成立している。それがフォークの伝統らしい。「俺らのデビューのころって、客がひどかったんですよ。70年代のはじめでベトナム戦争もあり学生運動もあり…つまんねえ歌歌ったら“帰れ、この野郎”。戦いですよ、ライバルがどうこうじゃなくて、客をどうするか。ステージ上がってきて占領しちゃうヤツもいるから殴り合いですよ。気の弱い、かわいい歌歌ってるのなんかは泣いて帰っちゃうんだから(笑)」

でもそれはある意味、正しい客の姿勢であるとも言う。

「“金払ってんだぞ、この野郎”ってね。だからそのぐらいのことは当たり前なんだよね。逆に言えば、いまの客はどうなのよ。“主張しろよ、この野郎。こんなもの見せられていいのかよ”って。叩きつけて帰るぐらいの方が、もしかしたらいい客なのかもしれないよね。俺はそうやって鍛えられたから、下手なことはできなかった。いいもの作っていかなきゃダメなんだなあって」

耐えられたのは、ずっとステージに立ち続けるなんて思ってなかったから。

「そうですよ。こんなことばっかりやってると1~2年でダメになるだろうと思ってましたからね。ダメになってもいいやって思ってたし…いやあまさか今までやるとはねえ」

ダメとは“どうでもいい”という意味ではない。なんとなく今に到達したわけでもない。

使い切れ。疲れろ。宵越しの体力を持つな

「俳優は二枚目の仕事」と思っていた。いや、それ以前に意識することすらなかった。31歳のとき、ドラマ『戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件』に主演。犯人役だった。二枚目でなかったことが泉谷を役者の世界へ導いたのだ。

「当時の主役クラスの俳優がみんな断ったんだからね。犯人役は二枚目としてはつらいでしょ。で、脚本の向田邦子さんがたまたま俺が音楽番組で歌ってるのを見たんだって。“歌は覚えてないけど、お前の横顔がよかったから、やれ”って。“おまえ、やれ”…そういう言い方する人なんですよ。それでドラマが完成したら“おまえ、すごい。もういいから死ね”って(笑)。このおばさんカッコいいなあって、仲良くなりましたけどね。先見の明があったのかな、向田さんすごいよね」

黒澤明のスタッフによる製作で、「俺だって音楽の方じゃ、四天王とかって言われてんのに(笑)、犬っころみてえに扱われた」という。でもそれは「あえて惨めな思いをさせようとしたんだね。そういう役だから」。

役者ということについて、特別な考えも持たないまま、役者の仕事が入ってくるようになった。

「背負う気持ちはない。“やってやってんだからよう”って態度だから、つまんないプレッシャーなんてなかった」

それは今もあんまり変わらない。プロ意識について尋ねると、答えは「いや、ステージもそうだけど、1回1回これでダメだと思ってやってるから」。

また“ダメ”だ。ダメとはいったい…「マイナス的にダメだっていうんじゃなくて、賭けてる気持ちがあるんですよ。これで全部だ。いっぱいいっぱいだ。もう出てこねえぞって。これでもう自分は明日から人気なくなってもオッケー。いつ遺作になってもいい! そういう気でやんないと…それが周りには迷惑なんでしょうけどね(笑)」。

1カロリーたりとて調整しない。持てる熱を全部消費する。歌の場合、ライブを終えるとアコースティックギターが汗でダメになってしまうらしい…この場合のダメは文字通りのダメだ。

「100%なんて当たり前ですからね。120、150って出しておいて、最終的にみんなのバランスを整えていけばいいんだから。出ないものを出すのは大変だけど、出せるだけ出したものを抑えることはできるだろ? だから自分を含めて俺は要求するんですよ、“出せ”と。“カラッカラになるまで出せ、じゃないと、お前の力というものがわからない”と」

プロもクソも、映画も音楽も、ない。それが泉谷しげるのやり方なのだ。

「“疲れないのか”って言われるけど、馬鹿言っちゃいけないってんだよナア。疲れるためにやってんだからサ。外に出て、疲れないようにしようったって不可能だこの野郎。思いっきり疲れるようにやれい、そしたらウチ帰って寝られるじゃん。宵越しの体力持ってんじゃねえ、吐き出して来い、全部」

そして話は元へとつながる。これ、映画という作品、ライブというショー、CD…作るもの全体をよくするためのやり方なのだ。

「役割。役割に関しては俺もやりすぎなところはあるんだけど。マアやりすぎりゃあ、誰かに怒られるだけだからサ。怒られないより、怒られたほうがいいじゃん。ナア(笑)」

1948年5月11日、青森県生まれ。3歳から目黒区青葉台で育つ。71年エレックレコードより『泉谷しげる登場』でデビュー。75年には井上陽水、吉田拓郎、小室等らとフォーライフレコードを設立。本格的俳優デビューは79年のドラマ『戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件』。80年、今村昌平監督作『ええじゃないか』出演。83年、ドラマ『金曜日の妻たち』に出演。93年には北海道・奥尻島救済キャンペーン『一人フォークゲリラ』と題したチャリティーライブを都内23区で敢行。近年ではIZレーベルを興し、メジャーと平行してリリース。現在『東京タワー オカンと僕と、時々オトン』(CX系毎週月曜21:00~)に出演中。都知事を演じた映画『キャプテントキオ』は2月17日(土)、渋谷シネマGAGA!、シネ・リーブル池袋ほかで全国ロードショー。

■編集後記

20代前半、ライブでよく一緒になっていたのがRCサクセションだった。「RCはアマチュアのころ、ひどかったからね。客を客とも思わない(笑)。お客で日焼けギャルなんかいたら“オイ、そこの炭鉱夫!”とか言っちゃうんですよ。ひどいんですよ。のちのち“愛しあってるか~い”になったとき、いいのかそれでって思ったもん(笑)。“バカヤロ~”って言うのを聞いて“コレだ!”と思った(笑)。“そのバカヤロ~っての、もらってもいい?”なんて」

武田篤典(steam)=文
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