「25歳から何も変わっていない気がします」

役所広司

2007.03.22 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
プロの役へのアプローチ、たとえばこんなふうに

「一番大事な自分の妻が、今日死ぬだろうと予測しているわけですね。妻が死ねば自分もこの世にいる意味はないと思っている、と思うんですね。“僕の物語”のなかでは、僕がそこから失踪するのは、自分も死のうと思っているからなんです。そうするとひょっとしたら、またおかあちゃんに会えるかもしれない。今までに、あの世から帰ってきて“実は会えないんだよ”って言った人なんかいないから、死んでみないとわからない。会えるかもしれない、という方に賭けたんでしょうね」

その後、男は姿を消す。町の外れには

“アルゼンチンビル”なるなぞの洋館があり、アルゼンチンババアと呼ばれるなぞの女性が暮らしているのだが…半年後に、男はそこで発見されるのだ。ええと、この話、ホラーではない。

娘は洋館に乗り込み、男は突如、曼荼羅の話をし始める、嬉々として。

「苦労してようやく自分を見つけた娘が“お父さん”って声かけてるのに“よお”なんて何事もなかったように応じる。まだ現実から逃げてるからなんですよ。言い訳ですよね。もちろん曼荼羅に取り組むことでようやく生きているという部分もあるんでしょうけど。自分を助けてくれたアルゼンチンババア…ユリとの関係もあるし」

幽霊のようだった男は、逃げながら生き延びる。そしてその後、あるできごとによって、自分の本当の居場所を強く意識するようになるのである。

「不思議な家族が出来上がる。その家族によって、生きていかなければと、また思うんだろうか。それは妻が―肉体は死んではいますが―何かの奇跡に近いめぐり合わせを組み立ててくれて導いてくれた、と彼は思っていたんじゃないか。だから生きる道を選んだのかなあっていう、感じでしょうか」

…ここで、延々と語っているのはストーリーではない。進んでいくストーリーに対して、彼が役に与えた背景。“僕の物語”といっていた要素だ。

「台本に書かれてないものは自分で考えて決めていかなければ。なんでこの人はこういうことをしゃべってるんだろうとか、自分のなかでつながっていきませんからね。男が死に向かっていると解釈すれば、僕自身も共感できた。その場所にアルゼンチンビルのそばを選んだことは奇跡に近いわけで、だからこそ助けられて続いてゆく。何かこの世のものではない力が(笑)、作用していると考えた方がある程度辻褄が合うんじゃないかと思いましたね」

断定的でないのは、彼自身の解釈だから。本来は見せる部分でなく、役に対する脳内の覚書きみたいなものだ。それが役所広司の、器用ではないけれど、様々な役を確実に演じ分けることのベース。ある種の誠実さだ。

「お芝居するときに、そうした部分がどの程度表現されるかが問題なのではないんです。僕自身が何の不安もなく、疑いもなく台詞をしゃべったり、台本に書かれた行動をすることにおいて、個人的に必要なだけなんです」

多くの俳優がそうだが、映画出演の決め手は脚本である。ただ、役へのこだわりはあまりない。

「作品全体…ああ、これまで観たことないな、こんな映画を観てみたいなという作品に魅力を感じますね。僕が面白いと思うものは、登場人物がみんなしっかりと描かれている。でも台本っていうのは、脚本家や現場にもよりますけど、変わっていく場合もありますからね。現場に行ってどんなセットを作っているか、どこでロケをするか、というだけで違います」

もちろん自分なりの設定はしていくけれど、そこに固執することはない。「決めたことにこだわりすぎると、新鮮なものを受け入れにくくなる気がしますね。ある“感じ”はつかんでいきます。そこで感じることが実際にはすごく大きくて、現場で自分がアッとひらめいたときには、それが一番正しいんだろうと僕は思ってやっています」

人としては変わらないいまも25歳のまま

一言一言、かみ締めるように語る。役所広司は1956年、長崎県に生まれ…よく知られた話だが、高校卒業後、上京して千代田区役所土木工事課に勤めた。20歳で観た演劇に心をつかまれ、22歳で俳優の世界に身を投じた。キャリアはまもなく30年。している仕事のやり方は熟知している。いつごろそれを確立したのか尋ねると「わかんない」と言って笑った。

「いやあそれは確かに、若いころは、台詞を覚えて人の前でちゃんと言えるかどうかがテーマでした。“自然な演技とは何だ”って言われてもわかんないし(笑)。僕がやろうとしていたのは、ただ、与えられた台詞をちゃんと言うことだけ。それに関しては、気がついたら少しはリラックスしてできるようになってましたけどね。その分、台詞を言うだけでいっぱいいっぱいだった時代の新鮮さとか、いい意味での“映画的な素人くささ”はなくなっちゃったわけです。その辺が俳優って職業の非常に難しいところなんでしょうね」

技術と経験を積んだ者が素人的な味わいを出そうとすると「作為的に見えてしまう。だから、子どもと動物には勝てないっていうのは本当です(笑)」

20代半ばのころは、テレビドラマでも「後ろの方でガサガサしている程度」だったという。本格的に「鍛えられた」と実感したのは83年、NHK大河ドラマ『徳川家康』の織田信長役。

「自分がキャメラの前にこんなに長いあいだ立ってこれだけたくさんの台詞をしゃべるのかと。それまでは分量だけでいっても、それほどの台詞をしゃべったことないわけですからね。ただ、もう必死ですよ。今でこそホームビデオというものがあって、自分がテレビにどんなふうに映っているのかわかるけど、当時はそれも手探りでした」

信長役を通じて、少し周囲を見渡せるようになった。そして翌年、同じNHKで水曜時代劇『宮本武蔵』の主役に抜擢される。

「宮本武蔵という人物を1年間やり続けたのが、いい経験でしたね。原作を読み、そしてもちろん脚本を読んでひとつの役と付き合っていくわけですからね。それはまあ、“この人、今こういうことを考えてるのかなあ”とか、自然と考えるようになりましたね」

田舎に生まれた粗暴な剣の使い手が、殺りくを経て、人の心を省みるようになり、ついには剣豪として巌流島で佐々木小次郎とアイマミエル…とにかく台詞を覚えて言うだけに必死だった青年が、キャラクターの背景まで意識しながら演じるようになる。象徴的である。 “まあいずれそのうち帰ろう”と上京し、“ダメならやめて帰ればいいや”

と思いながら俳優になった。今は…。

「これしかできないですからね。仕事がなくなることもあるでしょうけど、さすがに帰ろうとは思わない(笑)」

基本的に飽き性だと言う。俳優としての欲もほとんどない、とも言う。だから、役にもこだわりがない。

「仕事として取り組むには新鮮で変わっていく方がいいと思うんですね。幸いにしてこの職業は、ひとつの作品が終わればまた違うチームが組まれる。それが向いているとは思います。次に何をやりたい、ということはないですね。そのつどそのつど、目の前のものに必死になるだけですかね」

そうしているうちに時間が過ぎた。「年齢は、ひとつの俳優としての特技だと思います。歳をとらないとできない役があります。年老いたからいらない、というのではなく、歳相応の役ができるのが俳優の非常にいい点ですね。仮に中身がついていっていなくても(笑)。50歳になっても、25歳あたりから何も変わっていない気がします」

25歳のとき、10年後には大人になっているつもりだったのに…結局、35歳でも40歳でも変わらなかった。

「過去を振り返って思い出すのは、投げやりになったこととか失敗したことばっかりですね(笑)。みんなそうじゃないですか? 失敗を償おう、今度こそ穴埋めしたいっていう気持ちが何か、生きてゆくエネルギーになってるんじゃないですかね」

1956年、長崎県生まれ。20代後半はTVの時代劇を中心に活躍。映画初主演は88年の日本・スイス合作映画『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』。96年『Shall we ダンス?』に主演、この年から7年連続で日本アカデミー賞主演男優賞を受賞する。97年に主演した『うなぎ』では今村昌平監督にカンヌ国際映画祭でのパルム・ドールをもたらした。いまや日本映画の顔である。待機作にアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バベル』(4月28日公開予定)、日本・カナダ・イタリア合作映画『シルク』(’08年公開)がある。『アルゼンチンババア』は3月24日全国ロードショー。

■編集後記

俳優生活への入り口は仲代達矢が主宰する『無名塾』だった。22歳のときにオーディションを受け、競争率200倍ともいわれる難関を勝ち抜いての入団だった。81年、25歳のときに、実はすでに大河ドラマに出演している。佐久間良子・西田敏行主演の『おんな太閤記』だ。演じたのは織田信長の三男、織田信孝役。同じ年、ドラマ『着ながし奉行』にも出演。まだ“ダメなら帰ろう”精神だったころ、こつこつと演じてきた時代劇が後に花開くことになるとは、知らない。

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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