「自分が求められているものを知ること。殻に閉じこもらないこと。」

高木琢也

2007.04.12 THU

ロングインタビュー


戸塚 啓=文 text KEI TOTSUKA 稲田 平=写真 photography PEY INADA スチーム=編集 ed…
己に問いかけ、究める。プロとしてのあり方とは

「ヴェルディ対マリノスのJリーグ開幕戦をテレビで観たときに“なんだ?”と思いましたね。あの日から突然、スタジアムがお客さんで埋まったんですよ。で、翌日に自分のゲームがあって、スタジアムの大きさは違うけど、僕のところも満員。それ以前から代表の試合は満員になってましたが、リーグとは別だと思ってましたので」

プロなんだから、プロとして、プロらしく。マスコミもサポーターもチーム関係者も、いきなりプロにふさわしい振る舞いやプレーを求める。高木自身もそうありたいと思っていた。だが、自分なりの定義にたどり着くまでには、しばらく時間が必要だった。

「プロって何なんだろうって考えたときに、自分はチームに何を求められているのかを知ることじゃないかと思ったんですね。自分のスタイルを理解して、求められるものを知れば、チームに貢献できるんじゃないか、と。それが何となく分かったのが、開幕した翌年のファーストステージで優勝したぐらいかなあ」

当時のJリーグは2ステージ制で、それぞれの優勝チームが年間王者を決めるチャンピオンシップに臨むシステムとなっていた。サンフレッチェ広島のエースストライカーだった高木は、この大一番でアキレス腱を断裂する大ケガを負ってしまう。

全治までは8ヵ月を要するといわれた。ケガが完治しても、以前と同じ身体を取り戻すにはさらに時間がかかる。焦り、いら立ち、ジレンマ…ネガティブな感情に覆われても不思議ではない。

高木は違った。見事なまでのプラス思考で、ケガを乗り越えていくのだ。

「選手として一番いい時期だったので、もったいないなあと思いましたけど、そこで挫折できない状況ではありました。プロだから試合に出ないと生活に影響がある。だったら、ケガをする前よりもっと強い身体を作ってやろうと思った。自分をもう一度作り直す時間をもらったんだから、有効に使おうと。だから僕、ケガをネガティブに考えたことは一度もないんですよ」

そもそも自分を追い込めるタイプである。実はJリーグ開幕前に、当時はレアケースだった移籍を経験したりもしている。自分に負荷をかける大切さに、早くから気がついていたのだろう。

だから、チームとの契約は単年だった。最初から、最後まで。

「安定した生活が嫌なんですよ。広島にいたときに複数年契約を結びたいと思ったことがあって、球団からもそうしようと言われた。でも、いざ交渉のときに断っちゃったんです。それじゃ、自分に甘えが出てしまうな、と」

広島には前身のマツダを含めて7シーズン在籍した。日本代表にはコンスタントに招集され、“アジアの大砲”と呼ばれた。チームの顔である。居心地は悪くない。むしろいい。

ここでまた、高木は変化を求める。2度目の移籍を決意するのだ。

「30歳ぐらいで転職する人、多いでしょう? それはやっぱり、経験を積んでいるからですよ。周りを見て、自分がどういう方向へ進めばいいのかが分かるんだと思う。僕の場合もそのまま広島に残ることはできたけれど、環境を変えてみたかった。自分のなかでマンネリ化があって、新しい刺激を求めていたところがあったんです」

広島からヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)へ移籍した高木は、2シーズン後にさらに北へ向かう。J2のコンサドーレ札幌へ新天地を求めるのだ。

ワールドカップ経験者や元代表選手がJ2でプレーするのは、いまではごく自然に受け止められている。だが、当時はしがみついてでもJ1でプレーする選手が多かった。そうしたムードを打ち破ったのが、日本代表歴代4位の得点記録を持つFWだった。

「とくに抵抗はなかったですよ。ケガを抱えていたこともあったので、そういう意味では自分の望むチームではなかったかもしれない。でも、僕を必要としてくれたわけだし、札幌はJ2で優勝を狙えるチームでしたから」

高木が移籍に躊躇しなかったのは、新しい出会いを求めたからかもしれない。異なる価値観への探究心が、いつでも彼を駆り立てたのだ。サッカー選手としてだけでなく、人間的な引き出しを増やす好機を得るために。

2人の指導者との出会い。今、指導する立場から

振り返れば、印象深い出会いがある。

「人生のターニングポイントをあげるなら、中学3年のときですね。あのとき小嶺先生(現V・ファーレン長崎代表取締役)に会わなければ、いまの僕はなかった。実家の前の床屋さんのご主人が、先生のいとこだったんです。その縁でお会いしたのがきっかけで、小嶺先生が赴任する予定の国見高校へ行くことにした。いまの自分があるのは、間違いなく先生のおかげです」

プロ入り後なら、広島在籍時のスチュワート・バクスターの名前が挙がる。このスウェーデン人監督とは、引退後のいまも親交が深い。

「いい選手になるには、聞く耳を持たなきゃいけない。自分の考えは当然あるけれど、他人の意見を聞かないでシャッターを閉じてしまうと、選手は成長しないと思うんです。で、僕はバクスターの言葉がすごく残っている。彼の言うことやトレーニングは新鮮でした。実行すればいい結果につながったし、聞く耳を持ったうえで自分なりに考える大切さを、彼から学びましたね」

監督となった現在は、バクスターの選手へのアプローチを思い出す。

「特別なことを教えてもらったわけじゃない。ただ、彼は選手を常にリスペクトして、精神的に乗せのるがうまかったですね」

恩師の手法をそのままなぞるつもりはない。横浜FCにはカズや山口素弘らのベテランがいるが、チームの平均層はJリーグ開幕を小学生や中学生で迎えた選手たちである。高木自身の現役時代の感覚を押しつけたら、誤った輸血になってしまう恐れがあるのだ。

ただ、気がついてほしいことはある。

「チームメイトに要求したりするのは、自分に自信がないとできない。“これって間違えてるかなあ”なんて思ってたら、何も言えないでしょう? でも、トレーニング中は何度でも間違えていいんですよ。自分をさらけ出していい。はしゃぐときは、はしゃぐ。新しい選手とも積極的に打ち解けようとする。そうすれば、お互いが理解しあえる。そこで遠慮したり自分の殻に閉じこもると、結局は自分が一番ダメージを受けるんです。そういう殻って、いつか壊れますから。若いころの僕もできていなかったですが、最初からオープンに、自分から周りとコミュニケーションを取っていくべきなんですよ」

監督になって新しい発見があった。それまで知らなかった自分に気づいた。

「意外と楽天的なんだって。なんとかなるだろうって、いつも思ってますから。もちろん過程を無視してるわけじゃなくて、しっかりとした過程を踏んで、段階的に準備をしていくなかで、あとは何とかなるだろうって。最終的には勝負なので、どっちに転ぶかは分からないですからね」

昇格1年目のシーズンは、予想されたとおりに厳しい。横浜ダービーでF・マリノス相手にリーグ戦初勝利をあげたら、川崎フロンターレには0―6の大敗を喫した。それも含めて経験であるととらえている。だから、高木に悲壮感はない。

「昇格1年目の僕らに、失うものはない。ただし、自分は監督としてJ1を戦うのは初めてだからとか、チームにとっても初めてのシーズンだからということを、言い訳にしたくない。周りからもそうやって見られたくない。そんなもの、負けた理由には一切ならないですからね」

契約書にサインをした瞬間から、チームを去る日へのカウントダウンが始まる―監督という職業を表すのに、ヨーロッパや南米でよく使われるフレーズだ。高木にもそれぐらいの覚悟はある。自分を追い詰めることで、さらに進化させていきたいから。

「結果が出なければ、シーズンの途中でも交代することはある。そこはもう割り切ってやっているので、何も恐れずに堂々と、自分たちのサッカーを貫いていきます」

1967年、長崎県生まれ。小嶺忠敏率いる国見高校で活躍。大阪商業大学卒業後、フジタを経て91年、サンフレッチェ広島の前身であるマツダSCへ移籍。93年、Jリーグ開幕。94年には広島のサントリーシリーズ優勝の立役者となるも、チャンピオンシップでアキレス腱を断裂。 97年まで広島の主力選手として活躍。98年ヴェルディ川崎へ、00年には当時J2だったコンサドーレ札幌に移籍。同じ年現役を退く。オフト・ジャパンを中心に国際Aマッチには45試合出場、27得点をあげている。2006年から横浜FCのコーチに就任、第2節より監督に就任。チームを優勝に導き、今期よりJ1にて戦う。7万人の動員を目ざす横浜FC×鹿島戦はTBSで4月14日(土)午後2時から放送

■編集後記

「25歳からの数年は、生活が急展開したタイミング。周りはどんどん変わっていくのに、自分は変わりきれていなかった。サッカー選手としても人間としても、まだまだ微力でしたね」。では、39歳の今、かつての自分にアドバイスをするとしたら…「ちょっと神経質だったかなと。周りの目とか評価とかが気になっていたところがあって。ネガティブ思考ではないんだけど、すごく気になるタイプだったんですよ。だから、楽観的なところを持ってもいいんじゃない、っていうかな」

戸塚 啓=文
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稲田 平=写真
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スチーム=編集
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