「役者の仕事は面白い」

小林 薫

2007.05.10 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA …
縁。どれだけ面白がれるか。オトンは破天荒じゃない

「なんていうかなあ、大人になるっていうのはバランスをとることを覚えることだと思ってるんですよ。“これを言うと相手を傷つけるな”って抑えたり、反撃を想像して腰を屈める、みたいな所作を覚えていく。そういいながらも大人だってバランスを欠くところはあると思うんですよ。それをうまく隠したり、バランスをとろうと試みる。で、オトンはオトンなりにバランスをとろうとしてるのが見えたんです」

それはたとえば、家の中で「乱暴狼藉をしたりするっていうシーン」。そして「息子が久しぶりに現れただけで、子どもの前で見栄張るっていうのも」。

「自分の中で自信があったら、見栄なんて張らなくてもすむ。僕もそうですけど…男って見栄張るじゃないですか。自分をよく見せようと。でもそのままずっといかないんですよね。底が割れて女の人にも見透かされちゃうから。それをなんとか保つために、過剰な演技をしてしまう。そういう部分を僕らは抱えてるものなんです。オトンはそこがボロボロ出てしまう。乱暴さや見栄は、気の小さい部分の表れですよ」

映画のオファーより先に原作を読んだ。オトンに共鳴し、オカンの生きるスタンスに、「そうだよなあ」と、考えた。

「男は女の人みたいに、実態に即して生きていけない。いまある現実を何かに置き換えないと人生をリアルに生きることができないと思ったんです。絵を描くとか、音楽をやりますとか、これこれこういう仕事をやっているんです、とか。そういう社会との関わりあいを通してしか生きていく実感を持てない。女の人はそんなのなくても堂々と生きていけるんですよ。男には“オマエなんか何もしてないじゃないか”って言われた瞬間に揺らいでしまうような土台しかないんですよ」

だがそれは男にとって当然なのだ。「オトンは内面的に屈託を抱えてる人なんだと。それはたいがいの男が持っている。それがないのはよほど立派な人で、1割未満じゃないかなって」

…というようなことを、感じていたらば、そこへ映画の話が来た。「縁だなあ、と思って。僕がいちばん共鳴できたオトンというキャラクターで。この人は基本的に弱いんだって理解すればいいんだなあって。その弱さが面白そうだったので」

縁。面白そう。作品に出るか否かはだいたいこれらによってきまる。

「基本的に役者の仕事は面白いんですよ。なんか“小林だから面白がってやるんじゃないか”って思ってくれたもので、自分がそんなに面白がれないものってないんですよ。だいたい面白い」  

趣味性の高いモノサシは小学校のころからあった。何しろ当時の“将来なりたい職業”は「古本屋の親父(笑)」。

いかにして俳優になりしか、または三つ子の魂百まで

1951年、京都市生まれ。20歳のとき、唐十郎が主宰する状況劇場に入団し、10年を過ごす。ただ中学時代にはすでに演劇をやろうと決めていた。「そろばんを弾いて生きるのっていやだなって、子どものころから漠然と思ったんです。古本屋の親父って、なんか番台みたいなところに座ってるだけかなって(笑)。中学ぐらいになったとき、兄貴が学生演劇やってたんですよ。その舞台を作ってる現場を見たら、面白いなと思ったんです。これを売ったらナンボとかいう話ではなくて、演劇というのは無駄で面白いなあと思ったんです。それが僕と演劇の出会い。演劇の持つコアな部分ではなく、あんまり社会的じゃないことをやってて成り立つところが面白いと思ったんですね」

高校は、学生運動で放校処分に。母親から、自衛隊で鍛錬か寺院で社会奉仕か、の二択を迫られるも、「大阪の俳優養成所」という第3の選択肢。

「人生蹴つまずいてから本格的に芝居のことを考え始めました。10代後半で頭でっかちだったから、“今さら新劇でもないなァ~”と、とにかく目は東京のアングラ劇団に向いていました。」

60年代後半、演劇界では小劇場ブームが巻き起こっていた。寺山修司の天井桟敷、蜷川幸雄の現代人劇場、鈴木忠志の早稲田小劇場。

「ここだ!」。夏休みを利用して上京した小林薫は、状況劇場に打ちのめされてしまうわけだ。帰ってから京都公演で入団志願するも、年度の途中だからとNG。1年待って上京。「やる気さえあれば入れてくれたんですよね。でも要はこき使われるだけだもん。1年間でほとんど辞めますよ。10人入って2人残るかどうか…」

単純に生活がきついのであった。昼間稽古して、あとは劇団としては知らない。勝手に生きてゆけという世界。「でもまあ、そんなもんだと思ってたからね。最初の1年は、才能ないからやめろって言われ続けてて。自分の殻を破らないとダメだと、つねに“この役やりたいヤツ~”っていうときには手を挙げてました。そしたらあるとき、なんか4つのキャラクターを全部僕がやることになったんですよ。演歌を歌ったりとかオカマをやったりとか…演じては役を変えて出てくる役。一人の役ではないんですけどね。それを朝日新聞の扇田(昭彦)さんが劇評にひとこと“面白い”って書いてくれたんですね。その秋かな、唐さんに“オマエの役を書いたからな”って」

稽古のなかから偶然勝ち得た役。そして73年、東京湾に浮かべた船を舞台にした『海の牙』で、小林薫は状況劇場の新たなスターとなるのである。

退団は、その7年後のできごとだ。「あくまで僕からの目線ですけどね、集団には必ず淀みみたいなものが出てくるんだと思うんですよ。劇団に限らず。たとえば会社に入っても、最初に思ってた姿からずれていくでしょう。そんな自分を少し引いて見たときに、もっと面白く仕事に関われるはずだって、思ったのかもしれないですね」

劇団在籍中に出たドラマのスタッフから中島丈博という脚本家を紹介され、連続ドラマの出演が決まる。それが退団半年後。劇団の舞台を見ていた向田邦子からの自作『蛇蝎のごとく』への出演依頼もあった。結果的にはそれが独立後のドラマ初出演になる。実際には、離れて丸1年は、芝居の仕事はしないようにしようと決めていたという。

「食い扶持のように芝居の仕事に飛びつくのは好ましくないなと思ってました。まあ1年もおけばたぶんゼロになって、そこからあちこちに自分で動けばいいかなって。あとね、劇団で自分たちががんばって、そこでしか見せられないようなものをやる…お金に換算できないものだったんです。それを劇団を出たからって、ギャランティーに換算して仕事するのは、自分の中でついていけないところがあった気がするんですよね。そういう意味でも、とりあえず1年放置したら“どうしても!”ってなるに違いないので、そういうところにいくまでは手を付けないようにしようって思ってました」

だが、オファーが来た。劇団で小林薫は面白がって演劇をしていた。その舞台を観た多くの人が、役を“面白い”と思ったのだ。

向田邦子から久世光彦へと話はつながり、ずっと望んでいた笠智衆との共演も『虞美人草』という作品で果たすことになる。そのプロデューサーが『ふぞろいの林檎たち』を手がけることになり…ガツガツ食いついていくわけでなく、飄々と面白げなことをやっていきたい。そんなスタンス。古本屋の親父を目指した小学生の気分とあまり変わりない。口をついて出るのは、やはりあの言葉。

「縁ですよ。そういうもんなんじゃない? 若いときってさ。世間的には何でもなかったのに、誰かが面白そうだって言ってくれて、それでどこかにつながっていく。育つきっかけって、意外とそういうものなんじゃないかな…まあ、運みたいなもんだけどね」

1951年9月4日 、京都生まれ。1971年~80年、状況劇場の俳優として活躍。退団後、向田邦子の『蛇蝎のごとく』や中島丈博の『青春戯画集』などで注目を浴びる。大河ドラマ『峠の群像』、笠智衆と共演した『虞美人草』などに出演。83年には『ふぞろいの林檎たち』に。『ナニワ金融道』などのコミカルな役柄から、しっとりと見せる『コキーユ』まで、テレビ・映画を問わずさまざまな役柄で活躍中。本人いわく「消えてゆくテレビの潔さも面白い」「ばかばかしいコメディもやりたくってしょうがない」なのである。オトン役を演じた映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』は現在上映中。

■編集後記

状況劇場には、結局20代ずっと在籍することになった。みんなつらくて辞めていくなか「僕はそんなもんだと思ってたから。逆に退路みたいなものがなかったのかな。それなりに役がついていくと充実していくし、最後の方は多少、給料ももらえたんで。それも運でしょうね。たまたまそういうときにいろんな人が出てくるんですよ。辞めたら、オマエの面倒見てやるっていうバイト先のオヤジとか(笑)。じゃあそれで1年間ぐらいは食っていけるなあって」。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
サコカメラ=写真
photography SACO CAMERA
大久保篤志=スタイリング
stylist ATSUSHI OKUBO
高橋 精(ティーマックス)=ヘアメイク
hair&make-up TADASHI TAKAHASHI

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