「2回目ぐらいのターニングポイント」

松本人志

2007.05.31 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA …
映画を壊して真っ向勝負。むっちゃくちゃをリアルに

「正直ですね、映画を撮り終わった段階で…編集もありましたけど、その時点で本人のなかでは終わってるんですよね。そのあとのこういう作業があろうとは…あんまり予定をしてなくて、さっきも写真を撮りまくられましたけど、まあ…めんどくさいですね」

記者会見場で15誌から順ぐりにインタビューを受けつつ、苦笑する。

映画を撮ることになったのは自然な流れで、いつか撮ろうと思っていた時期がたまたま来たのだという。

天才・松本が映画に乗り出した、ということで我々はグイグイ食いつくのだが、本人は「ひょい」な感じ。コントと、さほどスタンスは変わらない。

「映画をやろうとなったときに、最初、映画を壊してやろうかなと思ってたんですよ。“これが映画や”とみんなが思ってるものを、2時間かけてむちゃくちゃにしてやろかなって(笑)」

そして「何をするかも決まってないのに、108分でいこうと。しかも結局108分になってないんですけど」。「その次に出たのが、なんか知らんけどヒーローものやなっていう。なんですかねえ。なんとなく当たり前のように決まりましたねえ。すぐ決まりましたね」。

“ある種のヒーローもの”であることは今年1月の記者会見で明らかにされていた。現在43歳で、ちなみに、ウルトラマンが始まったのは3歳のとき。

「少なからず影響は受けてるかもしれませんが、それを壊したいという気持ちもなきにしもあらずで」

映画のなかに街頭でのインタビューのシーンがある。渋谷で、若者やおじさんが大日本人の戦いについて尋ねられる。彼らはどう見ても一般人だ。“大日本人”という文字がスポーツ紙の一面を飾り、トランプやかるたになるような存在であることもわかる。

手持ちのビデオカメラが、松本演じるロン毛の男に肉迫する。

「めっちゃくちゃなことをいかにリアリティーを持ってできるかってことが、あの映画の挑戦でもあったので」

『大日本人』は、カンヌ国際映画祭の監督週間で公式上映された。公式ホームページに掲載された映画祭ディレクターのコメントでは「ファンタジーとドキュメンタリーを非常に独創的で興味深い手法で融合させた、全く新しいコンセプトの映画の誕生」だと絶賛。

「僕が映画をやるので、すごくマニアックな笑いになるんじゃないかと思われるやろうなと思ったんで、逆にそうなりたくなかったんです。とりあえず一発目は、結構、真っ向勝負というか、普通に笑える、面白い映画じゃないと意味がないのかな、と思ったので。ベタというわけではないですけど、そういう意味ではヒネリはないですね」

“壊す”と“普通に笑える”の両立。

「もちろんそうですね。むちゃくちゃっていっても、ホントにむちゃくちゃではただのむちゃくちゃですから。最終的にはちゃんと着地しないといけないし、それなりの難しさはあるんですけど。でも僕、お笑いをやりだして、コントとか漫才も全部壊してきてますんで、結局そういうことなんでしょうね、僕の作るもんっていうのは」

ちなみに、大日本人のエネルギー源は力うどんである。

「もう、好きに考えてください(笑)」

入ったときから天狗。自分自身が答えである

「今振り返ってみるとね、なんか取り憑かれてたように…怒ってましたね。もうなんか、すべてのことに(笑)」

松本人志と浜田雅功はNSC(吉本総合芸能学院)1期生である。NSCは、吉本興業が82年に創立した、新人タレントの養成所。つまり専門学校のようなところで勉強してお笑いの世界に入ったことになる。ダウンタウンは師匠を持たない芸人のハシリだった。

今でこそ普通だが、25年前には異端だった。加えて、時代と逆行するスローテンポなしゃべりと、大阪らしくないシュール風味のボケ…先輩芸人たちにかわいがられようはずもない。

「僕よう言うんですけど、NSC入った日から天狗やったって。ずーっと天狗やったって。今もそうやし」

怒りの根っこにあったのは「“俺のおもろさがなんでわからんねん”でした」。

つい最近、似たような話を聞いた気がする。つい120行ほど前に。

ダウンタウンをもってしても、大阪でのブレイクまでには5年を要した。きっかけは『夕焼けニャンニャン』に対抗して、87年に始まった夕方の帯番組『4時ですよ~だ』。中高生を中心に、アイドル的な人気を得るようになる。

東京進出は89年秋。すでに前年から深夜帯での『夢で逢えたら』は始まっていたし、東京にもカルト的名声が響いていた。日本テレビの菅 賢治(ガキの使いやあらへんで)や土屋敏男(電波少年シリーズ)なども、大阪にいたダウンタウンを番組に起用していた。

ターニングポイントだ。でも、松本自身は“東京進出”だなんて、特別な思いは持っていなかったという。

「東京が上やとは思ってなかったんで。なんなら大阪で売れたことがもう天下を取ったということで、その“天下取ったよ”っていうことを東京に言いにいくぐらいの感じじゃないですか」

だが、まず、明石家さんまが定着させた“でんがなまんがな”ベースの関西弁を払拭しなければならなかった。「ダウンタウンがホントのリアルな大阪弁をちゃんと知らしめたという感じが、僕はしてますけどね」。そして「たとえばお弁当でも、なんか“関西の方なんで薄味にしときました”みたいな」妙な差別も感じた。東京でゴールデンタイム初司会の番組は平均視聴率4%ほどで、打ち切り。とはいえ、いずれは見返す!東京倒す! などとは1ミリたりとて思わなかった。

「その発想がないんですよ。自分が一番やと思ってますから、倒す倒さへんっていう次元じゃないんですよ。“僕が上やで”ということを教えるかどうかは僕次第なんですよね。“まあええやん”と思えば帰りますけど、“教えといたらな”と思ったら頑張りますしね。だから、わざわざ“東京で頑張る”という感じではなかったんです」

結果的には“教えといたらな”ということになったのだろう。東京に来た年の10月から始まっていた『ガキの使いやあらへんで』はコンビのフリートーク力を見せつけ、『夢で逢えたら』ではグループでのコントに視聴者をハメた。続く『ごっつええ感じ』で進化。

既存のものをことごとく壊し、松本人志は “天才”と呼んでも、アンチの人しか怒らないような存在になった。

97年に終わった“ごっつ”がスペシャルとして01年に一度だけ復活したとき、9%という視聴率に終わった。「みんなその話するよなあ」と笑う。ただ、テレビで作り込んだ笑いをやる無為がわかって、それが映画へとつながった。

「自分に迷いはないんですよね。自分が絶対なんやということはわかってるから、人に受け入れられないときのヘコみ方は尋常じゃないわけですよ。だって僕が答えなんですから。1たす1は2やって言ってるのに、そんなアホなって言われたら、“え、こいつらにどう話していったらええねん”っていう、ヘコみますよ。もうやめよかなあって…いまだによく思いますけど。でもどっかで、ちょっと助かることがあったんでしょうね。たとえば、 “ガキ”のDVDがすごい評判がいいとか聞くと、悪い気はせえへんし。まあそうですね。人の評価はどうでもええと言いつつも、たまには褒めてもらわんと“そら腐るで”っていう話で。そういうのがあってなんとか、大阪にも帰らず、やめもせず」

公開するまでもなく、すでに監督のなかでは答えは出ている。あとは観てくれさえすれば伝わる―「ホントに何回も言ってるんですけど、この映画が今後の僕の考え方の分岐点になる。そうですね、僕の2回目ぐらいのターニングポイントじゃないですかね」。

1963年9月8日、兵庫県尼崎市生まれ。お笑いコンビ・ダウンタウンのボケ担当。浜田雅功と1982年にコンビ結成。吉本総合芸能学院(NSC)の第1期生。87年『4時ですよ~だ』のヒットを足がかりに全国区へ。「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」(日本テレビ系列)「ダウンタウンのごっつええ感じ」(フジテレビ系列)などに出演。企画・構成も担当する。90年代より、「一人ごっつ」やコントライブ『寸止め海峡(仮題)』、「HITOSI MATUMOTO VISUALBUM」など、個人での活動も展開。企画、監督、出演を務めた映画『大日本人』は、カンヌ国際映画祭にも正式招待を受ける。6月2日より全国公開。出演者に竹内力、UA、神木隆之介、板尾創路など。

■編集後記

「いまでこそね、浜田が暴走する感じになってますけど、やりだして3~4年ぐらいまでは、めちゃめちゃ模範的でしたよ」。吉本興業の故・林正之助会長が劇場に来るときには「下ネタ・客いじり・時間内終了」を禁じるおふれが出たという。それらはみんな会長が嫌うものだったから。「僕はそれが許せないんですよ。何で会長来てるからって、いつもと違うことせなあかんねんと。舞台で全部やるんですよ。そしたら浜田が怒ってね、“やめとけオマエ!”と」。ツッコミではなく、マジ怒りだったのだ。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
サコカメラ=写真
photography SACO CAMERA
高堂のりこ=スタイリング
styling NORIKO TAKADO
柳 美保(TEES )=ヘア&メイク
hair & make-up MIHO YANAGI

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