「自分の形を決め込む必要はない」

谷村新司

2007.06.14 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
自分という人間のあり方を見直してみた結果…

「この4年間、中国の上海音楽学院で教授をやっていて。今も毎月一週間は上海で授業してるんだけど、オファーを受けるときに半端な仕事はしたくないと思ってたんです。名誉教授みたいなのには興味なかったから。生徒とちゃんとガチンコでやれる環境だとわかったから、こっちも心してやろうと」

 そのために日本での音楽活動をセーブしていたわけではない。上海での先生も“バリバリ全開”に含まれるのである。ただ、“全開”ということの考え方が、少し変わっていた。

「2003年で、それまでのルーティンを1回ぜんぶ白紙にしたんです。これからどんなふうに生きていきたいのか、家族とも話し合って。やっぱり、他の何かに惑わされることなく、“自分のココロに素直でいたいね”って」

 このとき54歳。すでに国民的歌手として揺るぎないところにいた。ファンであろうとなかろうと、口ずさめる曲がいくつもある。「昴」しかり「サライ」しかり「いい日旅立ち」しかり。

 そのすべてをゼロに戻した。なぜか。

「男ってわりと自分の仕事がエクスキューズになることが多いんですよね。日曜日に出かけるのも仕事だからしょうがない、とか。できるだけそういう言い訳はしたくないと思ってたんだよね。でも実際には、子どもが父親と一緒にいたいと思っているときでも年間150ステージとかやっていた。子どもと、何をするでなく一緒に過ごす時間があんまりとれなかったという、負い目がずっとありました。そこをちゃんと吐き出して、子どもたちにあやまりたいと思ったんです」

 アーティストとしての社会的評価より、子どもたちのお父さんとしての評価が大事だという思いが募っていった。

「本音をいいます。仕事と家族どっちが大事かって、普通に考えると家族に決まってるやん。エクスキューズにしないといけない仕事って、なんぼのもんやと、すごい感じたんだよね。でも子どもたちが話し合って“お父さんお母さんが思っている生き方のまま、自分たちも一緒に走るよ”って言ってくれた。その時から、自分のなかで歌のとらえ方が俄然変わったんです。そのタイミングで、まさしく上海の話が来た。これは天命だな、と。“あ、自分の人生そう行くんだな”って不思議な納得をしました。それが自分の役目なんだなって」

 そして歌は「趣味になった(笑)」。

「真剣にやっていないように思われるけど、仕事と趣味とどっちをより真剣にやっているかというと、趣味でしょ。仕事は“やらなきゃいけない”部分もあるけど、趣味は好き以外に何もない。そういう意味では、今ステージに立っていることは、最大の趣味。楽しみながらやれる。もう最っ高やね(笑)」

 上海で教えるのは、音楽に対する姿勢。教えるというより“伝える”。

「みんなは技術や理論や譜面に書かれた音符を音楽だと思っているかもしれない。でも自分がクリエイトしていく音楽っていうのは、朝起きて何をした、何を食べた、誰とケンカした、笑った…“これが君の音楽なんだよ。それを表現するのがクリエイトだよ”、そんなふうに僕は上海で言ってるんです」

 谷村新司は中国に“ポップス”という音楽の概念を伝えたといわれる。彼の地では、日本におけるビートルズ的な存在としてとらえられている。が、その一方で、学んだことも少なくない。

「35年間、僕はプロでやってきて、音楽の場所はある種システム化されてた。みんなが支えてくれてるんだけど、ステージ行ったらモニターがセッティングされていてすぐリハーサルできて…という状況が普通になってました。それが、80年代からアジアに行くことで、普通じゃないことに気づいた。そんな準備もされていないところもあるし、それはその国のやり方だなって。上海で見たのは、もっともっと原点。マイクがなかったらそのまま歌ったらいいし、照明がなかったら、電気つけっぱなしでやればいい。自分で曲を作り始めてた高校生ぐらいのころと同じような立ち位置で、彼らに向き合っていて。“あ、これや!”って気がついた」

 これが、いまのところ、谷村新司史上最大のターニングポイント。

「人としての、ね。音楽的には、みんながわかりやすいところでいうと『昴』ができたときかな。でも今回は、それを遥かに上回るぐらい大きかった」

人は人生を点で生きる。いまやりたいことを

国際フォーラムのコンサートで谷村新司は言った。80年のアルバム『昴』に「Runnin' on」という曲がある。このとき“叫んでも叫んでもオリオンにもとどかず”と歌った。それがいま『オリオン13』で、「オリオンにとどけ」と歌うことができる。「そのことがすごくうれしい」と。

「この4年でいろんなことに気付くことができたからかな」

71年に結成し一世を風靡したアリスは、『昴』発表の翌年、活動を休止する。谷村新司とアリスを巡るヒストリーに関しては、驚くべきエピソード(例:アマチュアなのに全米ツアー。ジェームス・ブラウンのコンサートを企画して大赤字などなど)が満載だが、それについてはオフィシャルウェブサイトが詳しい。それより何より谷村新司、こんなふうに言う。

「過去はええのよ。人間って過去と未来があると勘違いするけど、あるのは今だけやから。過去って記憶にしか残っていないでしょ。何百万枚売れたとか、このヒットはいつだとかいうことに対して僕自身は全然興味がないんです。逆に5年後にどうなっているか尋ねられても“わからない”というのが正直な答え。今しかないと思ってるから、今に納得できるかどうか。今が続いて明日になるけど、明日になった瞬間に今日は過去ですからね。人生は線だとみんな思ってるかもしれないけど、点でできてるんだと僕は思う」

だから、おっさんも若者も同じ。若者に対して、昔話をエラソーにするおっさんはとってもカッコ悪いものだと。

「20代の男の子と50代の男性が飲んでいると、だいたいがそんな図式になるんだよね。じゃあ“今はどうなんですか!? ”って、聞きたくなるでしょ? 僕も前から“俺もあのころはな~”オヤジはイケてないと思ってたから」

昨年開催された、渋谷のライブハウスを振興するプロジェクト『渋谷音楽祭』で谷村新司は多くの20代のロッカーたちと酒を飲んだ。音楽の話はもちろん、あくまで推測だけれど、エロ話などでも盛り上がったはず。

「楽しかった~(笑)。彼らにしてみれば、僕は58のおっさんですよ。キャリアのある人間と新人はステージで互角だと思ってるんです。僕らはキャリアはあるけど新鮮さがない。出る前からみんな、僕の顔も歌も知っている。“でも君らは出てきただけで新鮮。その新鮮さと僕らのキャリアは+-ゼロだから。ここの一発が本気の勝負やで”って」

渋谷で知り合った若者たちは新譜に収録された「Heart in Heart」でバックコーラスを務めている。

アルバムを作りたいから作った。バンドサウンドがやりたいから、やった。そこには何の裏付けもなくていいのだ。人はつねに今という点を生き、今やりたいことをひたすらにやればよい。人生を白紙に戻して気付いた素直なココロと、上海で得た原点回帰。ターニングポイントに年齢は関係ない。

「大人になるにつれ、社会に合わせたり自分の立場に合わせて自分の形を自分で作っていくでしょ。最終的にそれが自分の形だと決め込んでしまう。“それで終わりでええの!?”って思います。1回箱をからっぽにしたら、なんでも入るということに気づく。自分がそれをさせてもらえたこと、自分を支えてくれているすべてに感謝でいっぱいです」

1948年大阪生まれ。大学在学中に堀内孝雄と出会い、71年にアリスを結成。72年「走っておいで恋人よ」でデビュー。この年にドラムス・矢沢透が加入。77年「冬の稲妻」が大ヒット。「チャンピオン」など多くのヒットを飛ばす。74年から、アリスを“母艦”となぞらえてソロ活動を展開。80年の『昴』が大ヒット。81年のアリス活動休止以降は本格化。「群青」「22歳」「サライ」「いい日旅立ち」などを発表する一方で、世界に目を向ける。ロンドン交響楽団、国立パリ・オペラ座交響楽団、ウィーン交響楽団プロジェクト(V.S.O.P.)とも共演。04年3月以降、上海音楽学院にて教鞭をとる。

■編集後記

70年、22歳のとき、ロックキャンディーズというアマチュアバンドで全米ツアーを敢行する。「そこでアジアに気づかされたというか。アメリカで“僕らは何人と思う?”って聞いたら、必ずチャイニーズだと。ああ、日本人だってアジア人じゃないかと。そこにストンと落ちた。それで中国に行きたいなと思ったんです」。翌年、アリスを結成。年間250~300ステージの公演を行った。ようやく中国に行く余裕ができるのは、81年。アリス活動休止の年であった。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
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