「一番大事なのは、“食う”ことです」

蛭子能収

2007.07.26 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA
食えないことには何も始まらないのである

看板屋さんに就職したのは、横尾忠則に憧れていて「似た仕事なのでは?」と思ったから。4年働いて逃げるように上京した。しばらくは映画を夢見てシナリオスクールに通った。そして夢は漫画に変わった。25歳のとき、同棲していた彼女が妊娠、そして結婚。ときを同じくして、作品が初めて雑誌(ガロ)に掲載された。そのころ考えていたのは「生活の安定」。当時やっていたチリ紙交換の仕事を辞め、第二子誕生にあたって本格的に就職することになる。ダスキンの営業マン。

「一番大事なのは“食う”ことですからね。食って寝て、という生活の基本だけはしっかり確保するために働く。だから、マンガを一生懸命やるというよりは、生活を成り立たせるのが先決。動物みたいな感じだと思いますけどね。死なないことが一番大事でしょ」

かくして生活は成り立つようになった。家族4人で公団住宅に住み、営業成績もあがった。いまも希代のギャンブラーとして知られるが、このころから競艇やパチンコにも通い、適度にさぼりながら楽しくやっていた。

なんだか“もうマンガはいいじゃん”っていう感じになっても不思議ではない。そうして夢を捨てていく人も、世の中に腐るほどいる。

「べつに漫画で大それたことは考えてなかったから。そもそもオレが描いてた『ガロ』って原稿料なかったですし。オレの作品が全国誌に載って、みんなが見てくれればいいなと思ってただけ。だから、食う分は他で稼げばいいやという考えです。漫画と商売を結びつけてはいなかったんですね」

作品を送り続けたのは『ガロ』だけ。だから掲載されてもゴハンは食べられなかった。が、そこが重要だったのだ。作戦だった、と蛭子さんはいう。

「大手の出版社にはリスクがあると思っていたんですよ。自分が好きで描いている漫画なわけですよ。『ガロ』は好きなように考えて描いて持っていけば載るんですね。だけども、大手では編集者からいろいろ指示されるって聞いてました。そういうふうに描かされてもつまんないんじゃないかなって」

そう、会社でやってる仕事は、あくまでお金を稼ぐ手段。イヤなことも相当あるけれど、お金をもらえるのだからしょうがない。だけど、漫画にまで不自由を持ち込みたくはなかったのだ。

「会社に勤めている間は、カラダは会社のものだけど、終わって自由になったら、もう自分の好きなことをやるっちゅうことですね。無理して働いた分は、その遊び時間に発散する。それがオレにとっては漫画であったり、パチンコであったりしたんですよ」

漫画の場合は描くことだけでなく、描く内容も発散になっていた。つまり、イヤな人を劇中でひどい目に遭わせたり…。仕事中に怒られたときにも「はあ、人はこんなふうに怒るのか(今度漫画に使おう)」なんて考えるのだった。

漫画家としての成功と…。テレビタレント。映画監督

専業漫画家になるのは33歳。25歳でデビューはしていたが、漫画を生業にするのがこのときだ。

趣味だからこそよかったのに。「まずは食うことが第一」と言っていたのに。だが蛭子さん、大層なギャンブラーなのに、生活そのものをギャンブルしたりはしないのであった。実は会社を辞めるずいぶん前から、原稿料をもらって漫画の連載を始めていたのだ。

「アリス出版の人がオレのところに来たのが29だったか30だったか。連載をしろというんですよ。それで漫画を18ページ、だいたい1週間ぐらいで描いたら、ギャラがダスキンの1カ月分の給料とだいたい同じだったんですよ。“お、これはいいぞ!”と。でも、すぐ辞めるのも卑怯な気がして “来年の4月に辞めます”って言ったんです」

ダスキンと漫画、当座の収入源は2本。100万円ほどの退職金が準備されていることも知る。失業保険も出る。卑怯というだけでなく、これなら辞めてもしばらく大丈夫! という判断。

「実は連載した本がつぶれたりして、だから会社を辞めたときには漫画の収入はゼロでした。でも辞める1~2カ月前に、ひさうちみちおさんと平口広美さんたちの漫画の展覧会で、いろんな三流エロ劇画の編集者を紹介されて。“ああ、蛭子さんですかー”って」

みんな、存在を知っていた。幸いなことに蛭子さん、誰の指図も受けず、思い通りに好きなように漫画を描き続けることができていたのだ。そしてその状態は本格デビュー以降も続いた。「エロは考えなくていいから好きなように描いてくれって。オレの方が気を遣ってエッチなのを入れたほど(笑)」

さて、問題。

そもそも蛭子さん、イヤな仕事のガス抜きに漫画を描いていたのである。そのもととなる仕事がなくなると…。

「ストーリーがね、浮かばなくなる。普通の生活のなかで出てくる怒りとかを漫画に込めていってたから。怒りがあんまりなくなってきて、なんとなく職人みたいな漫画作りになっていきました。それでだんだんパワーも落ちて“蛭子のマンガは面白くない”って言われるようになりました」

いまこれを読んでいる多くの人が、蛭子さんを知るきっかけになったのはテレビだろう。バラエティ番組での挙動不審ぶり。ドラマの片隅で強烈に放射される“本人”としての存在感。

人一倍、生活の安定を図り、それゆえの金にこだわる。物欲も出世欲もないのに、なぜだか着実に活動のフィールドは広がり、収入も増えてきた。

テレビに出始めたのは30代後半。

「劇団“東京乾電池”の柄本明さんから芝居のポスターを頼まれたんですよ。それで何回か描いてるうちに“芝居に出ないか”って。で、オレが出た舞台を、当時フジテレビのプロデューサーだった横沢彪さんがたまたま観てて」

あの変なヤツを番組に出そう! そして『笑っていいとも!』に、レギュラー出演が決定。これでテレビ解禁。

「本当は、全然芝居とかテレビとか出たくなかった。ただ漫画で、名前は売れたいと思ってたんですよ。作品を知ってもらいたかった。頼まれたら断りにくくて、出てしまったんですよね。そしたら漫画の売り上げが減っちゃった。オレを青白いインテリみたいに、神秘的なアーティストだと思ってた人が多かったみたいで(笑)」

いまでは完全に…少なくとも経済面においてはテレビが“本業”である。

「自分で言うのもヘンだけど、消えそうで消えないですよね(笑)。消えそうなのに、ちょこちょこ出てくるんですよねー。でもテレビに出たことで、助かったこともいっぱいありますよ。まずはお金がたくさんもらえること(笑)。好きなことをアピールして仕事にできたこと。テレビの競艇中継とかイベントにも出られるようになったし」

これはテレビのおかげかどうかはわからないけれど「映画の監督もできた。いま新作の脚本を修正中なんですけどね」。東京に出てきたときの、最初の夢。

「ああ、オレも映画が撮れるようになったのかと、しみじみ思いますねえ」

蛭子能収59歳、なんだかんだ言いながら夢を叶え続けてきた男なのである。

1947年10月21日、熊本生まれ、長崎育ち。高校卒業後、看板屋さん勤務の後に上京。25歳のとき『ガロ』(青林堂)で漫画家デビュー。チリ紙交換、ダスキン営業マンなどの職を経て、33歳のとき専業漫画家に。壊れた絵柄と破たんしたストーリーで、サブカル界のアイコン的存在に。代表作に『地獄に堕ちた教師ども』『馬鹿バンザイ』『私はバカになりたい』など。現在、『蛭子能収コレクション』としてマガジン・ファイブから7冊を刊行。全21冊の予定。『こんなオレでも働けた』は講談社から定価1200円で。テレビタレント・俳優としても活躍。03年には『諌山節考』で映画監督デビュー。近作はオムニバス映画『歌謡曲だよ、人生は』で『いとしのマックス/マックス・ア・ゴーゴー』。

■編集後記

完全に真っ当な社会人であった。ちゃんと結婚し、家族を養うために仕事をし、子どもが増えたらそれに見合った新しい職を見つけた。かといってバリバリ全力でもなかった。一人でクルマ移動の仕事なので、よくさぼってパチンコや競艇に行った。「根は真面目ではあるんですよ。でも解き放たれたときは…自由(笑)。途中で競艇に行っても、後を一生懸命やればつじつまは合うんです(笑)」そして結果的には、練馬ナンバーワン営業マンの栄誉を手にしたのだ。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
サコカメラ=写真
photography SACO CAMERA

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