「喜んでいただけましたでしょうか?」

稲川淳二

2007.08.09 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
怖すぎず、楽しめる。怪談は家庭料理

「自分はモノを作る方の人間でもあって…デザインしますからね。そのときに、生意気なんですがたまに思うことがあるんですよ。モノをつくる人って、年をとったら名人っていう居場所がありますよね。有名になって、技は磨かれ、感性もすごいんだろうけど、体力がなくなる。話もそうなんです。舌がもつれているんじゃないだろうか、声が出てないんじゃないだろうかとかね、いつも思いながらやるんですよね。でもその一方で、怪談なんてのはね、田舎の民宿のじいさんかなんかがなんとなく語るものなんですよ。都会から若い人が来た、夕食は済んでまだそう暗くもないってときに、ふと話し始めるんですよね。聞いててすごく怖いわけじゃない。でもだんだん夢中になって、アレ? なんか怖い話だなって。気づくと辺りも暗くなっていて、部屋に帰るの怖いな、もうちょっと聞きたいなって、そういう状況がいいなと思っているんですよ。そんな怪談を語るじいさんになりたいなと思っているんです。怪談っていうのはそんなに真剣に聞いちゃいけないんです。楽しんで聞くことですよね。感動する話はあるし、笑えるのもあるし、怖いのも、うーんと怖いのもあるんだけど、あんまり入り込んじゃいけないなと思って。楽しくやってるキワモノなんだから(笑)。話は、長いのばっかりだと飽きるんですよね。やっている自分があきちゃうのは一番いけないなと思っていて、失礼だしね。ホラ家庭料理っていうとおかわりが利くじゃないですか。店屋もんは確かに1杯だけ食べるとおいしいですよね。パッと食べたときうまく感じられるように味が濃い。だからおかわりはしませんよね、怪談もね、本当に怖そうに話せば話せるんですよ。けどそれ、あざとくてあんまり好きじゃないんですよね。だから私、なんとなくの話からいつも怪談に入っていく。家庭料理の味でいきたいなとは、つねづね思っていますね」

驚かせよう、喜ばせよう。その姿勢が“なりゆき”を

質問への答えは饒舌。身近な例を盛り込んで。話の途中にリンクするネタがあると、素通りせずに語り、笑わせてくれる。さて、怪談を人前でやり始めたのは32~33年前。20代後半だった。

「ニッポン放送のオールナイトニッポンの2部からだから。べつに私、怪談を売り込んだことは1回もないんですよ。放送は3時から始まるんですが、有楽町に夜中にタクシーで来るようなお金なんかないわけですよ。それで早い時間に電車で来る。当時は結構出入りも自由だったから、私の仲間たちとかみんな来てるんですね。時間待つ間になんとなく誰かが振るんです、怪談してよって。局の人が―知らない飲み屋のおネエちゃん連れて遊びに来たりしてるんですけど―ラジオの本番前にみんな楽しみにして集まってくるんですよ(笑)。そのうちプロデューサーが“淳二さあ、それラジオでやったら?”って」

すごい反響だった。年配者からも投稿が集まった。トイレの中から「赤い半纏、着せましょか」の声が聞こえてくるという名作『赤い半纏』も、このときの投書がきっかけ。

「年配の人らしいきれいな字でね。そのお便り読んで“これこわいこわい”って言ってたら“今度やってみる?” って言われて。“いや、今日やろう”って。それで、ラジオで即興で私が“♪あか~いは~んて~んき~せま~しょか♪”って歌うようにやってみたんですよ。面白いのが…いまから4年くらい前かな、なにげなくテレビつけたら、怪談について大学教授が話してるんですよ。“これはもう今や古典になりまして”って言いながら突然、私が作ったフレーズ歌うじゃないですか。うれしかったですよお。だってね、30年前って、怪談なんていうとおかしいと思われる時代でしたからね」

それが、ビクターから29年前に怪談ミュージックテープをリリース。初版2000本が最終的に売り上げ32万本。

「赤丸急上昇でもってね、チャートの雑誌あるじゃないですか、あれでね、キョンキョンとか荻野目洋子ちゃんに追いつけ追い越せってね(笑)。でもね、怪談は季節限定のキワモノでいいと思うんですよ。その方が私自身も楽しいから。私、わがまま言わせてもらって5年前、55歳のときから、テレビは夏場しか出ないことにしたんです。人間の転機っていろいろあるけど、もともと怪談なんてなりゆきですからね。だいたい芸能界だってやっぱりなりゆきなんでね。ただ楽しんでやっていたいんですよ。芸能界の仕事はケガをしても病気してもできるけども、飽きたらできないですよ。しかも好きなデザインの仕事もやりたいしね」

22歳で工業デザイナーとしてデビュー。浜松のマリーナを作り、有名メーカーのボートをデザイン。スキルやセンスもさることながら、人のキモチをいかにしてつかむかをいつも考えた。

「人間なんて、恥かいたらあとは平気になるよって、言うんですよ」

我が身を呈して、喜んでもらう姿勢。

「ヨイショが得意だったんです(笑)。メーカーのおエライさんと会うときも、ピンポン球に目を描いたりギャグのフキダシを作ったりしてね。現場の料亭のおねえさんにお願いしとくんです。私がね、ぽーんぽーんて手を2回叩いて“おねえさ~ん”って言ったら、小道具持ってきてって。それで、いろいろやってデザインを見せるんですよ。おエライさん喜んで“いまウチ、こういうの作ってるよ”って教えてくれる。“じゃあ私もやっておきます”なんて返事しておいて、勝負はそこからですよ。帰ったら徹夜で図面引いて、次の日には青焼き持っていく。先方もびっくりで、がぜん立場がよくなりますよね」

やがて舞台美術をやるようになったとき、“幕間になんかやってよ”と言われるようになるのは、自然の流れ。そんなある日、あるタレントに付き添ってオーディションに行った。多忙なマネージャーの代わりに…というか稲川淳二、単なるデザイナーなのに…。

「子ども番組のオーディションで、内容が新聞記事に5つ印がしてあって、1個選んで小道具使いながら子どもにわかりやすく説明しなさいって。3人いたんだけど、なんにもできないで全員終わって。 “こうすりゃいいのに、不甲斐ねえナア”って思ってたら、たまたまそこへ、昔っからの知り合いの雑誌社のおエライさんがひょこっと顔を出したの。“おー稲川くん、来たのか”って。で、スタッフの方に “お~い、まだいるよ~”って。いや、私違うからつってんのに、 “どなた?”“稲川くんっていってね、この人できるよ”ってどんどん話が進んでんですよ。私も歯がゆいからさ、オーディションの3人にね、どういうのか見せてやろうと思って…5個やったんですよ。みんなゲラゲラ笑っちゃって。そしたらスタジオの天井から声がして“稲川さんでしたっけ? 秋からのスケジュールどうなってます?”って(笑)。どうなってるも何も、私、デザイン会社の社員だからさ(笑)。私がいた会社の社長が言ったんです“稲川な、デザイン界にオマエがいなくなっても、日本のデザインは変わらない。一人くらいは芸能界に行ってもいいだろう”」

以来、芸能界の住人にもなった。インタビューの時間も終盤。稲川淳二、しゃべりにしゃべった。書く余裕がないけれど『知らずにCM出演事件』とか『浜松の旅館はひどかった事件』とか、オモシロ・エピソードのマシンガン。もったいない!

「私のね、悪いクセなんですよ。取材来ていただくでしょ。うれしいもんだから、時間内でたくさん話題を提供して選んでもらおうと思って。だからね、しゃべりすぎちゃう気があるんですよ。申し訳ない。ごめんなさい、本当に」

とんでもない。そのサービス精神こそが、何より稲川淳二なのだから。

1947年8月21日、東京都恵比寿生まれ。タレントにして工業デザイナー。デザインのプレゼンテーション時のトークや小道具から、面白みを認められる。舞台美術の仕事をきっかけに、幕間に出演するようになり、70年代後半ごろよりニッポン放送の『オールナイトニッポン』2部のパーソナリティに。このころから怪談が評判を呼ぶ。その後、『おはよう朝日です』(ABC)『ルックルックこんにちは』(NTV)などの番組で活躍。『風雲たけし城』(TBS)や『スーパージョッキー』(NTV)などでの体を張ったリアクション芸で人気を得る。その後、定期的に怪談ライブを手がけるようになる。55歳を機に、「テレビには夏にしか出ない」ことを実践。夏場におもに怪談で活躍するかたわら、工業デザイナーとしても活動中。DVD『超こわい話シリーズ 稲川淳二の怨念劇場! (1) (2)』はバンダイビジュアルより発売中。1枚2940円。ライブツアーなどの詳細は

■編集後記

あるデザイン事務所に就職が決まっていたが、浜松から友達がレーシングカーのテストボディを見せにきたのが運の尽き。「クルマをデザインしたかったんですよ。イタリアでいうとカロッツェリアってやつですね。声かけられたから、素材のグラスファイバーとかFRPの勉強のつもりで、そのまま浜松行っちゃった。小さな町工場だらけで、すげーエキサイティングでした。私も、ついでに“マリーナ作ってくれないか”って。で、私、何の裏付けもないのに“できます!”って作った(笑)。」

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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