「今過ごしている時間の100倍くらい密度が濃かった」

佐野元春

2007.08.23 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
時代を超えていくために、作品は作り続けられる

「前回の『THE SUN』(2004年)というアルバムはどちらかというと自立した人たちを主人公にして作ったアルバムなんです。職を失っている男性や離婚経験のある女性を主人公にして、喜怒哀楽を1曲1曲に落とし込むというか…まあ群像的なアルバムです。僕が一緒にやってきたTHE HOBO KING BANDは、プレイヤーとしても非常に技量の高い、ポテンシャルの高いミュージシャンたちで、『THE SUN』も彼らに支えられながら作った、いわばとても成熟した印象のアルバムでした。『COYOTE』は、どちらかというと法から外れた、アウトローを主人公にしたアルバムですね。ですので、そうした視点の違いはあると思う。『THE SUN』に比べて曲が若いねと感じられるのは…その取っているテーマ性、からなんではないかなと思うんですね」

前作とはまったく違うアプローチなのは『THE SUN』の完成度が非常に高かったから。同じ方向性で、前作を超えることは難しいのではないか、と考えたからだという。

「自分は二十数年間ソングライターとして、200曲近く書いてきていると思うんですけども、アルバムを制作するたびに思うことは…これは恐らく自分だけでなく他のソングライターも思っていることかもしれませんが、どうにか現実といったものを乗り越えたい、という欲望があるのではないかなと。ソングライターに限らず、表現者ならば、そう思っている人も少なくないと思います。2004年の、あの時代を凌駕しようと思って『THE SUN』ができたのと同様に、『COYOTE』も、実際に曲を書いたのは2006年でしたから2006年、2007年という現実を凌駕したい、という思いでもって、作品化したんです」

ソングライティングは毎日行う。

「時代を感じて正直に言葉が出てくる。言葉の断片をノートして、溜めておく。あるときその断片が発展して、1曲になることもあります。曲も毎日なにげなく書いているから、その断片が1曲として発展することもある。ソングライティングは日々の作業で、仕事だと思いきれないところがある。それは食事をしたり運動したりするのと同じ次元のものであると思っています」

25歳のときに感じた人生の意味をつかむ能力

初めて曲を作ったのは11歳。ヘルマン・ヘッセの『赤いブナの木』という詩に自作の曲をつけた。ソングライティングが日々の営みになったのは15歳。ギターを抱えたピート・タウンゼントがジャンプする姿を見て「パッと決めた。これしかないと思った。多感なころは直感が働くからね」。

それからは、「自分の感じるもの知るもの聞くもの、すべての経験がソングライティングの方に向かいました」。

だが前述のように、いまでも仕事とは思っていない。音楽活動はずっとやってきたが、仕事にするつもりはなかったし、大学卒業後、就職もしている。

「ソングライティング。その表現をしていくことが僕にとって重要だった。当時のクソッタレのメインストリームの音楽を変えたいと思っていた。僕の聞きたいような音楽がメインストリームになかったから。自分で作ろうと思った。人に僕の音楽をあげたかったから、自分で録音して、好きな人たちに配って歩いていた」

シングル「アンジェリーナ」でデビューしたのは80年3月。24歳のとき。

「時代がきたなと思った…直感でね。レコーディングアーティストとして始めなかった理由は、自分が書いていた音楽とメインストリームの音楽を比べたときに、全然違ってたから。こりゃダメだと思った。自分の作るいろんな音楽が一般的に認められるとは到底思えなかった。でも人生には“ひょうたんからこま”という言葉もあるから。ちょっとやってみたんだ。そしたら知らないうちに大当たりさ。1982年か83年あたりに。で、図にのってスピンアウトするようなカタチでニューヨークに行ったの。『VISITORS』という、ものすごく難解で、言葉の傾向の強い、ロックアルバムを持って帰ってきた。そんな難解なアバンギャルドなアルバムが、チャートでナンバーワンになった。信じられない。“ひょうたんからこま”以外のなにものでもない」

デビュー当時、80年代前半のメインストリームと佐野元春とは、どんなふうに違っていたのか。

「言葉遣いも違うし、リズムに対しての言葉の乗っけ方も違うしね。僕の曲は早口に聞こえるしね。メインストリームの音楽のように自己愛にあふれながら“I love you You love me”を繰り返すわけじゃないしね。僕の曲は3人称が主人公のことも多かった」

佐野元春いわく“僕の、ちょっとだけ奇妙な音楽”。初のアルバム『Back To The Street』(80年)、『Heart Beat』(81年)、『SOMEDAY』(82年)の3部作で、都市に生きる若者たちのライフスタイルを描き出した。大ヒットには至らなかったけれど、一部の熱狂的な支持を得た。

佐野元春がニューヨークに旅立ったのは83年の5月。初のチャート1位となるコンピレーションアルバム『No Damage (14のありふれたチャイム達)』をリリースした直後のことだった。

「最初の3枚のアルバムは、僕が多感なころに聴いていた音楽をお手本にして作った。でも、その次に作るアルバムは、本当の意味でオリジナルな作品を作りたかった。ニューヨークに行くっていうのは、直感だね。音楽制作の現場で優秀な人たちが世界中から集まっていた。だから、そこで自分は試してみたかった。制作だけじゃなく、現地のミュージシャンたちときちんと仕事ができるように法律も勉強した。準備は走りながらやったんだ」

1年間のニューヨーク生活のなかで生み出されたアルバム『VISITORS』は、衝撃的な内容だった。現地のミュージシャンやプロデューサーたちとコラボレート、ファンクやヒップホップなどの要素を大胆に取り入れた。評価は賛否両論はあったけれど、一部では日本のヒップホップの礎ともいわれ、結果的に日本のミュージックシーンに変革をもたらした。

このアルバムの構想に入っていたのが、ちょうど25歳のころ。

「とても活気があって、物事が素早く過ぎていった。今過ごしている時間の100倍くらい密度が濃かったように感じる。ある人生の真実みたいなものをどっかで掴んでいたような気がして、そこにたどり着きたくて、ちょうど子どもがおしっこ行きたくて、とにかく早くトイレに行きたいような、そういう感覚があった。多感なころには、一瞬、人生の意味ををさっとつかむ能力があるの。そこでつかめる人とつかめない人がいるんだけど。そういう意味では、25歳というのは貴重なひところだったよ」

佐野元春は一貫している。

いま、『VISITORS』誕生の一コマを切り取ったけれど、今回の『COYOTE』も同じこと。その“ちょっと奇妙な音楽”の根っこにあるものは変わらないまま、常に何かしら斬新なアウトプットの方法を探し求め続けている。

「聴き手がいなかったら僕は存在の意義がないからね。僕の、ちょっとだけ奇妙な音楽を支持してくれたニューキッズたちがいた、1980年、81年…彼らには今でも恩義に感じている。彼らが僕のことを見つけてくれたからね」

音楽は、わりとファンのためなんですか、と尋ねたら答えてくれた。きっぱりと。

「僕の場合は100%そうです。僕のファンがたった1人になるまで、僕はずっと歌うよ」

1956年東京生まれ。1980年「アンジェリーナ」でレコード・デビュー。都市に生活する若者たちの生活を叙事的にとらえた初期3部作をリリース後、83年に渡米。ニューヨークでの生活の中で、あまりにも斬新な4枚目のオリジナルアルバム『VISITORS』を制作。「サムデイ」「ガラスのジェネレーション」「約束の橋」など、ヒット多数。92年にはアルバム「スイート16」で、日本レコード大賞アルバム部門を受賞。日本の音楽界に与えた影響は計り知れない。自ら雑誌『THIS』を立ち上げ、10代のころに影響を受けたビート文学やその作家たちを取り上げる。音楽と詩の朗読を融合させたスポークン・ワーズという表現も実践。9月からは立教大学で客員講師として言葉の音楽化に関する講義も行う予定。アルバム『COYOTE』は発売中。単行本『コヨーテ、荒地を往く』(幻冬舎)は9月11日に、CDとDVDのボックスセット『BEATITUDE -Collected Poems and Vision 1985-2003』(ソニー・ミュージックダイレクト)は9月12日にリリース。

■編集後記

「アンジェリーナ」でデビューしたのが24歳。同じ80年に初のアルバム『Back To The Street』とシングル「ガラスのジェネレーション」をリリース。おもにライブは、横浜のサンドイッチ店『舶来屋』と新宿のライブハウス『ルイード』で。25歳の2月にはセカンドアルバム『Heart Beat』を、6月には「サムデイ」も出るが、売れ行きは振るわなかった。「自分の作るものは最高だ」と知っていたが、一方で「売れない」という確信めいたものもあったという。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
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