「そこにたぶん、自分だけの道ができている」

南原清隆

2007.10.11 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA 中谷…
笑いとは何かの問いに古典が答えをくれた

“狂言部”の6年前、南原は『PIN』と題した一人コントライブを始めた。

「笑いについて思うところがありまして。“なんで日本ではスタンダップコメディが根付かないのか”とか“なんでボケとツッコミがあるんだろうか”とか、そういう疑問がポツポツと出てきたんです。そこで狂言に“ひっかかり”を感じました。コントって、そのときどきで変わっていくものです。けど、狂言って変わらない。ずっと同じ演目を600年も続けているという。“それって何だろう”って。同じネタを飽きもせずにさぁ…(笑)」

高校時代は古典芸能部。やっていたのは落語だったが、狂言も体験しており、記憶の片隅には残っていた。

「“ウリナリ”で、狂言を口にしてみたら、プロデューサーが“万之丞さんって人、知ってるよ”って。これはもう “呼ばれてるな”と思いました。僕は、偶然は偶然じゃないと思っていますから。やって行き詰まるならそこまでのこと。続くならそれは必然」

番組での狂言の実現よりもむしろ、南原のお笑い人としてのもやもやに関して、この出会いは必然となった。

「万之丞さんは、何を聞いても全部答えられる方だったので。しかもそれを自分で体現したという強さがある。学者さんとは違う重みがありました」

大名の代わりに現代人が出てくる、古典と現代の笑いをコラボレートさせた“現代狂言”という万之丞のアイデアに意気投合。「いずれ実現しよう」と約束しつつ、04年、野村万之丞は44歳の若さで他界する(後に八世万蔵追贈)。実弟である野村万蔵が遺志を受け継いで、南原とともに実現したのが去年のことだった。

「僕はダンスをずっとやっていました。するとタンゴの動きで“あ、これ狂言だ”っていうのがあって。そんなときにまた、現代狂言の話になりまして。“これもまた呼ばれているな”と」

今年は、野村万蔵が300年の歴史に裏打ちされた美しい発声でツッコミを入れるという。しかも現代語で。

「去年やって思ったんですけど、能舞台って、手ブラじゃ怖くて歩けません。 “すり足の稽古しっかりやっておいてよかった~”って思いますよ。みんなが見ているところを、黙って1分近くずーっと歩くのは、現代のお笑いである僕らにとってはすごく怖い。“大変ですよ”って言うと、みんな熱心に(笑)。結局全部自分に返ってきますからね」

ただ、狂言師ほどには稽古の絶対量はない。なにしろあっちは子どものころから毎日毎日稽古稽古…。

「そういう意味での僕らの土台はやっぱりコント。20年やってますから。狂言に挑戦するといっても全部ではない。笑わせ方や感性の表現方法やテンポは、コントを拠り所にすることができる。とくにキャラクターを出すという点では、狂言の枠にはめればはめるほど、強く噴き出してくるんです。不自由にすればするほど、どんどん自由になる。去年のウド(鈴木)なんて、すり足で歩かせるだけで、それはウドなんですよね」

狂言だけではない。今年は喜劇の舞台に立った。4年前からは落語家活動も本格化。芸事に関して、積極的である。

働かない男ナンバー2が仕事を楽しくやるまで

「自分のお笑いの原点は高校時代の落語だと思ったんです。で、やってみると、この表現方法ってなんでもアリなんですね。前説をやり、主演も助演もナレーターもやって、演出もできる。そこから改めて考えるようになりました。あるとき“いつも座っているから、立ってやってみよう”と。立つとね、不自由なんですよ。たとえば座ったままなら足をバタバタさせるだけで歩いているように見える。でも立つと、本当に走るフリをしなくちゃ成立しない。この“立つことの不自由さ”への疑問を解いてくれたのが狂言なんですよ。“立ってやると狂言になるのか!”って」

ウッチャンナンチャンを結成したのは85年、20歳のとき。俳優を目指して入った横浜放送映画専門学院(現:日本映画学校)での漫才の授業で。

「何も考えていなかったですよ。出川哲朗も同級生だったんですけど、てっちゃんはさっさとコンビを組んでた。僕らは最初に組んだコンビとうまくいかなくて別れて、最後まで残っていたもの同士、偶然内村と組んだんです」

“何も考えていなかった”という言葉がすべてを象徴している。

「フラフラしてましたねー。最悪、田舎に帰れば絶対に食っていけるから。香川は目の前に海と山があって、100円でうどんも食べられるし(笑)。コンビとしても、僕らAB型同士なんで、妥協する点も似るんですよね。“もういっか”“いいな、めんどくさいし”って」

20歳で初めて『お笑いスター誕生』に挑戦し、いきなり準優勝。2度目のチャレンジは4位。3度目、「優勝できなければ解散」を、宣言する。

「そこはさすがに一生懸命。思いついたギャグは全部入れて、なおかつ一個一個の精度を高める。不思議なことに、アイデアって貯金しようと思ってもダメなんですよね。全部吐き出さないと生まれてこない。今あるものをベストとして、全部注ぎ込む。そしたら新たなものが出てくるんですよね」

『お笑いスター誕生』最後のチャンピオンに輝いたのは21歳のときだった。それでもしばらくは、“いつでも故郷に帰ってやる” と思っていた。

「実は30歳ぐらいまでうっすら(笑)」

そのころすでに冠番組がいくつもあったのに。すごくネガティブなことに気づいたのだという――。

やべえ、もう他の仕事できねえ!

「芸能界って、いろんなバイトのなかで一番時給が高かったんですよ。内村と僕はクラスでの“働かない男”のナンバーワンとツーでしたからね、ぴったりだったんです。でもたまに田舎に帰ったりとか、同級生の話を聞くと、他の仕事ってものすごーく大変だということに気づいて。やめるとか帰るとかいうのは無理だなあって」

続けてこられたもう一つの理由は、お笑いブームではなかったこと。

「僕はお笑いが好きだったから、カッコいいと思ってやってたんですが、世間はバンドブームでした。今みたいなお笑い全盛の状況だったら、たぶん僕も内村も“大変じゃ~ん”とか言って、お笑いにしがみついてなかったかも」

お笑いを追求しつつも、古典芸能にダンス、スポーツジャーナリスト…。

「仕事だとは思ってないんです。もちろんやりたいことばっかりですけど、さらに楽しくやるにはどうすればいいのかを考えたりはしますね。ダンスをするなら、ただ練習し続けるのは嫌になるので、やっぱり競技会に出たいですよね。するとそこでは芸能人を忘れてる。モロ裸でやるようなものなんで。それでまた新しい刺激をもらって」

様々なジャンルに手を出してきた。けれど、実はそれは様々に見えて…。「最終的にはひとつになるんですよね。やりたいこととか偶然目の前に出てきたものを、億劫がらず、“ちょっとやってみようかな”って。それが大事なんだと思います。そのときどきで選ぶのは単なる“点”なんだけど、振り返ってつなげてみると、そこには道ができてるのかなって。それがきっと自分にしか行けなかった道なんですよ、ってなんとなく最近、思います」

一息に言うと、「…ちょっといい感じの発言でしょ」と、南原清隆、照れた。

とはいえ42歳。振り返って確認するだけでなく、目指して作っていきたい自分だけの道もある。

「動けるじいさん(笑)。舞台もそうだし、日常生活でも。そのためヒントは今なんとなくあるんですけど、それをちょっと試してみたいと思ってます」

1965年、香川県高松市生まれ。高校卒業後、横浜放送映画専門学院(現:日本映画学校)に入学。85年、同級生の内村光良とウッチャンナンチャンを結成。ダウンタウンらと共演したコント番組『夢で逢えたら』で人気を呼ぶ。『ウンナン世界征服宣言』『ウッチャンナンチャンのウリナリ!! 』『ウンナンの気分は上々』など、多くの番組でコンビとして活躍。「ブラックビスケッツ」などの音楽ユニットでもヒットを飛ばす。また芸能界屈指の格闘技通、スポーツ通でもあり、『リングの魂』や『NANDA!?』『GET SPORTS』などで造詣の深いところを見せる。世界水泳のリポーターも務めた。4年前からは落語活動も本格化、例年『大銀座落語祭』に出演している。『現代狂言II』は東京公演が10月23日、24日、俳優座劇場で。チケットは全席指定で6000円。問:キョードー東京TEL 03-3498-9999

■編集後記

20歳で受けた『お笑いスター誕生』のオーディションは「面接だけ受けるつもりで行ったら、たまたま欠員が出て、急遽出ろって言われたんですよ。“まいっか、思い出作りだね”なんて言って」。ウッチャンナンチャンの二人がともに岐路だったというのが、3度目のチャレンジでの優勝。「失敗しても、もう2~3年はブラブラしてたと思いますよ。たぶん内村はどっかの劇団に入ってなじめずにやめて、自分でやるとかしてたんじゃないかな(笑)」。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
photography PEY INADA
中谷東一=スタイリング
styling TOICHI NAKAYA

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