「自分たちの文化を世界に認めさせること」

中井貴一

2007.10.25 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
初プロデュースが中国。そして見えてきたこと

映画は、些細なケンカで投獄されたリュウ・ラン(中井貴一)と、暴力から逃れるために夫を殺めてしまったホン(ミャオ・プゥ)との30年にわたる、獄中でのプラトニック・ラブを描く。

「今回、一番大きかったのは、時間軸の大きさですね。国民革命があって中華民国になって、日本軍に占領されて…その時代ごとにリュウ・ランは何を考え、何を感じたか、もちろん準備してはいきます。でも刑務所という閉鎖された社会のなかで何十年も暮らしてる人たちは、たぶん、外の影響を受けずに歳をとっていくだろうと。セットに入って共演者と向き合ったときの感覚ですべてが崩れていくし、考えてきたものが倍になっていく…そういった感じがありましたね」

一方で、プロデューサーでもあったわけで。役者としての自分の主張を、プロデューサーの自分が抑えるという状況もしばしばあり、葛藤が生まれた。「芝居をしているときは役者で、終わって一歩ホテルに入るとプロデューサー(笑)。全員の食事や部屋のことなんかを話し合いながら管理していかないといけないわけです。集中して芝居をして帰ってきて、ホントは役者のままホテルで過ごして、自分を“洗う”時間を持ちたい。そうして次の日また新たに芝居をするんだけど。毎日、ホテルで切り替えることの繰り返し」

実際またもや、存分に冷水に浸かってきたのだという。ただし今回は、目の回るほどの忙しさという冷水。

「いい経験だったと思います」

だが、中井貴一の“1回でやめるなら、トライの必要はない”説に照らし合わせると、きっと今後も“中国”“プロデューサー”に関わっていくはずだ。

「役者って…いや、アーティストって、たぶん満たされたらダメなんだと思うんですよ。仕事のチョイスでも“なぜそっちなんですか!?”って。しんどい方はわかってるつもりなんですよ。でも、“えーっ!?”って言われると“だからなんだよ!”って返せる(笑)。歳をとると、守りに入りたいじゃないですか。しんどいのは誰でもイヤですから。その“守りに入ること”から逃げてるんだと思う。結婚して家庭ができて真っ当な社会人としての道を歩んでいる、そういう状況に甘んじてる自分がイヤなんだと思います。ある種の強迫観念なのかもしれないけど」

37歳で死ぬとずっと思っていたという。それは中井貴一の父である往年の名優・佐田啓二が亡くなった歳。そのとき貴一は、2歳半だった。

父の背中が見たくて。いまはそれを越えて

大学1年のとき、中井貴一は進路面談を受け、次のように答えたという。第一志望、電通・博報堂、第二志望、銀行、第三志望、商社。この年の夏に俳優の仕事のオファーを受けた。見ての通り、俳優の“は”の字もない。

「そのときに急に悩み始めたんです。“俺は何になるんだろ”って。父親が大切になるのは、こういうときなんですよね。ぼくには親父という指針がなかったんです。残像すらもない。ぼくは赤面症だったし、人前で何かをやるなんてことは大嫌いだったのに…自分の人生がかかってるこの局面で“親父の後ろ姿を見てみたい”と思ったんです。それと自分の学費ぐらいは稼ぎたいと思ったので、引き受けました」

そして、81年、20歳のときに『連合艦隊』で俳優としてデビュー。

「37歳で死ぬと思ってましたから、自分の人生設計なんて何にもなかった。考えていたのは、親父の遺してくれた実家を、少なくとも自分が死ぬまでは処分しないこと。あとは、後悔しないように仕事に取り組むこと。だから、最初から仕事は縫わなかった」

縫う、というのは複数の作品に並行して出ることを意味する。

「ある作品でみんなと会って芝居したら、そこで得たことを吸収する時間を必ず持つようにしていました。少し間を空けてから次の作品に取りかかる。“失敗した!”と思うこともあったけど、そこからでも作品に情熱を傾けられるだけの材料を見つけ出す。ものすごくイヤな人に会っても、一所懸命いいところを見つけ出そうとする。要は、その1本が終わったときに自分の命が終わっても後悔しないようにということを考えてやってきたんです」

そうして努めてポジティブに仕事に取り組んできたなか、24歳のときに、運命の作品と出合ってしまう。

「“ウワッものすげえやりてえ!”って。こんなに自分から欲した映画は初めてでした。撮影に4カ月はかかる大作だったので、前の作品から2カ月ほど時間をとって、衣装合わせをして監督打ち合わせをすませて、いよいよロケに出る2日前にポシャッたんです」

それは運命の作品ではない。

準備期間の2カ月を合わせると、約半年間仕事なし。つまり収入ゼロ。

「仕事は全然来ず、引退するしかないんじゃないかという不安に苛まれていました。ドラマはないし、旅番組も…いや当時は旅番組もそんなになかったし、あってもやったことなかったし(笑)。あるときNHKの小さいドラマの話が来たんです。すぐに飛びついて。びっくりしました。スーッと役に入っていけたんです。それまでは“泣く”という指示に対して、“アー泣かなきゃ、よし泣こう”と思って芝居してたのに。役を作るとかではなく、中井貴一本人として自然にその気持ちを出すことができたんです。そういう意味で、ぼくの代表作は“ふぞろい(の林檎たち)”でも『武田信玄』でも『ビルマの竪琴』でもなく、この小さなドラマなんです」

運命の作品は『ラストゴングが鳴るまで』。芝居への飢えを満たすことで、普通だと思っていたものの価値を知り、新たな意識を得た。中国映画にたずさわることも似ている、と笑う。

「だって日本で撮影していると、些細なことがありがたく思えるもん(笑)」

それだけではない。中国には無限の可能性が秘められているのだ。

「インターナショナルって、ハリウッドに進出することだけじゃないよなって。自分たちの文化を世界に認めさせるのも大切じゃないかな。日本がもっと中国と密になることで、合作とかではない“アジアン・ムービー”というものが撮れそうな気がしてるんですよ。前に渡辺 謙ちゃんと会ったときに“ぼく、アジアでがんばります”っていう話をしましたもん(笑)」

37歳は9年前に過ぎた。仕事に対するアグレッシブで真摯なスタンスは変わらない。のだけれど…。

「ぼくらがきちっと面白いものを作ってハリウッドに持って行ったら、みんな普通に観ると思う。そんなことも視野に入れて、中国という国のそばにいたい。策略とかじゃなくて、強く思う」

いまは、未来も見据えている。

1961年9月18日、東京・世田谷区生まれ。父は俳優・佐田啓二。81年、成蹊大学在学中に映画『連合艦隊』でデビュー。この年のナンバーワンヒットになったほか、中井自身も日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。83年にはTBS系のドラマ『ふぞろいの林檎たち』で主演。後に4シリーズが製作される。自身が“代表作”と語る『ラストゴングが鳴るまで』は86年、NHKの「ドラマ人間模様」の一作。88年には大河ドラマ『武田信玄』に主演。中国に進出したのは04年の『天地英雄 ヘブン・アンド・アース』。全編中国語のセリフを見事に操る。中国第2弾『鳳凰 わが愛』は11月3日より、恵比寿ガーデンシネマほか、全国順次公開。

■編集後記

20歳でのデビュー作『連合艦隊』は、その年の興収・動員ともナンバーワンに。「大学は意地でも死んでも出てやろうと思ってました。一番恐怖だったのは、学生という立場がなくなること。卒業して職業俳優になるのは、ずっと浅瀬のプールがあって、その先が急にどーんとシンクロ用のプールになってるようなもので…。大学4年のとき、周囲のみんなが次々内定を取るなかで“ホントにいいんだよな、就職活動しなくって”と思いながらも、ひとりナーバスになっていたのを覚えています」

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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